二月の浮かぶ世界

BACK NEXT 目次へ



 今にも雨が降り出しそうな曇天の下、傘も持たずに佇んでいる葵は目の前にある見慣れた風景をぼんやりと見つめていた。葵が立ち尽くしている場所から直線上に伸びているのは舗装された道であり、その道の左右は対照的な眺めになっている。西側には鉄筋コンクリート造りの建物が、東側には均された地面があるのだ。雨に濡れてくすんだ色合いになっている校舎から水溜りのできているグラウンドに視線を移した後、葵は再び校舎を仰いだ。見渡す限り、人影はない。

 午後三時過ぎにホームルームが終わるとすぐ、葵はいつも通りに教室を出た。部活動もしていない葵はそのまま昇降口に向かい、現在佇んでいる正門をくぐって学校を出たのである。そして駅へ向かう途中、忘れ物をしたことに気がついたのだった。

(それで……えっと……)

 忘れた傘を取りに、元来た道を引き返した。そうして今見ている光景を目にしたのだが、葵の記憶はそこで途絶えている。

「……何で?」

 自分の呟きが聞こえて、葵は夢から醒めた。それまで見えていた日常が一瞬にして消え去り、代わりに見覚えのない天井が映る。自室であれば視界に窓が入るはずなのだが、それらしき物は見えなかった。

(何処だろう……)

 寝起きの冴えない頭で考えながら、葵は顔だけを傾けた。何処からか青い光が差し込んでいて、大理石の床に丸く影ができている。何故影がそのような形になるのか気になった葵は体を起こして背後を振り向いてみた。葵のいるベッドの後ろには窓があり、窓から青い月光を取り込むことで円柱形の影が室内に伸びている。窓自体が円柱になっているため、そうした馴染みの薄い影が生まれているのであった。

(きれい……)

 覚醒していても夢の中にいるような感覚で、葵はベッドを下りてふらふらと窓に寄った。丸みを帯びた飾り窓からは月光に照らされた庭園が見える。庭園では薄青い月光に染められた花々が美しく咲き誇っていたが、葵はふと違和感を覚えた。

(今って春? それとも冬?)

 不意に、そんな疑問が頭をよぎる。何故そんなことを思いついたのか分からないまま、葵は庭園に目を凝らした。しかし植物に詳しいわけではないので、庭園の花から季節を計ることは不可能である。もやもやした気持ちのままベッドに戻った葵は目を閉じて記憶を辿った。先日、友人の弥也ややと交わした言葉が蘇ってくる。

『紫陽花がキレイだね』

 青や紫に色づいている紫陽花に目を留めて、弥也がそんなことを言っていた。そしてその後、彼女は彼氏と鎌倉へ紫陽花を見に行く約束をしたと惚気話を披露したのである。あれはじめじめした、梅雨の帰り道での出来事だった。

(そうだよ、六月に入ってから雨が続いてて……)

 梅雨が明ければ夏が来る。それが、昨日までの葵の日常だった。しかし今日、葵は雪で覆われた大地に佇んでいたのである。そのことを思い出した葵は何に違和感を覚えていたのかはっきりと自覚した。目を開けて、葵は再び窓辺に寄る。青く染まっている庭園には花が咲き乱れているが雪はない。何が現実か分からなくなり、葵はますます混乱した。

(そもそも、ここは何処?)

 庭園から室内に視線を戻した葵は、改めて自分の置かれている異様な状況を察した。葵がいる部屋は十畳以上の広さがあり、床は大理石である。一人用とは思われない大きなベッドがある他は棚や可動式の台が置かれているが、広すぎるためか生活感がない。それは六畳ほどの部屋に本や洋服が取り散らかっている葵の日常からは、あまりにもかけ離れた眺めだった。

 どうしたらいいのか分からず、途方に暮れた葵は薄青い光が差し込む室内で立ち尽くした。そのうちに現在が夜であることに思い至り、ハッとして手首を見る。しかしそこには、いつも身につけている腕時計はなかった。薄暗い室内を見回してみても時計のような物はない。居ても立っても居られず、葵は豪奢な扉に駆け寄った。

 二枚になっている扉を押し開けて外の様子を窺うと、室外は廊下になっていた。右を見ても左を見ても、長い廊下には果てがない。おまけに人影もなく、建物全体がひっそりと静まり返っているようだった。

(今、何時なんだろう)

 飾り窓から見えた外の雰囲気からすると、夜中という可能性もある。それならば寝静まっていても不思議ではなく、一刻も早く人と出会いたかった葵は焦りを募らせた。

 物音を立てないよう気を配りながら扉を閉め、葵は廊下を歩き出した。葵の左手には中庭があり、右手には一定の間隔を開けて扉が並んでいる。しかしどの部屋も静まっていて扉を開けるのは躊躇われたので、葵はひたすら廊下を歩き続けた。

 廊下を進んで行くうちに、葵はあることに気がついて足を止めた。廊下の果てが見えなかったのは緩いカーブになっていたからで、どこまで進んでも周囲の風景が変わらないのだ。寝ていた部屋を出てから常に左手に見えている中庭をまじまじと見据えた結果、葵は庭の先にも廊下が見えることを知った。つまり、この廊下は円形になっている可能性があるのだ。このまま歩き続けていれば一周してしまうかもしれない。葵はそう思ったが、ここが建物である以上は何処かに出入口が存在するはずだと思い直した。

 気を取り直し、葵は再び歩を進める。しかしやはり、何処まで行っても同じ光景が続いているだけだった。階段のような物もないので、外への出入口は立ち並ぶ扉のどれからしい。少し迷った末、葵は扉を開けてみることにした。

「失礼しまーす……」

 小声で呟きながら、葵は少しだけ扉を引いて内部の様子を窺う。扉の内側は部屋になっていたのだが、葵が寝ていた部屋とまったく同じ造りになっていた。念のため扉を開けたままにしておき、隣の扉も開けてみる。すると隣室もまったく同じ造りになっていた。

(何なの、これ)

 嫌な予感を覚えた葵は一度開けた扉はそのままにしておき、次から次へと扉を開けて行った。大理石の廊下を素足で駆け回った葵は最後の一部屋を覗いて呆然と立ち尽くす。廊下はやはりループになっていて、なおかつ扉の内部は全て同じ造りの部屋になっていたのだ。建物自体の出入口のようなものは何処にもない。そして、誰もいない。

(何で?)

 出入口がないのならば、自分はどうやってこの場所へ来たのか。葵の抱いた疑問はこの後、思わぬ形で答えを得ることになる。

「お目覚めですか」

 呆けていた葵は突然背後からかけられた声に驚き、過剰に体を震わせた。慌てて振り向いた葵の目に映ったのは、縁なしのメガネをかけた金髪の女。つい先程まで誰もいなかったはずの廊下に、彼女はいつの間にか出現していた。

(あ、あれ?)

 目の前に佇んでいる彼女はいつ、どうやって現れたのか。そうした疑問と、どこかで見たことがある顔だという思いが葵を困惑に陥れる。葵は分厚い本を小脇に抱えている女から目を逸らし、記憶を辿った末に彼女の名前を思い出した。

「えっと……レイ、さん?」

 うろ覚えだったので自信がなさそうに声をかけると、女は頷いてから口を開いた。

「申し遅れました。わたくしの名はレイチェル=アロースミス。レイとお呼びくださっても構いません」

「あ、私は宮島葵です」

 薄暗い廊下で名乗りあった後、葵はこの状況が奇妙であることに気付いて眉根を寄せた。レイチェルもまた、難しい表情をして何事かを呟いている。レイチェルの独白を単語として拾った葵は首を傾げた。

「ミヤジマ、アオイ、です」

 それまで流暢に喋っていたレイチェルが名前の部分だけを言いにくそうに繰り返していたので、葵は改めて名前を伝えた。しかしそれでも、レイチェルが繰り返す葵の名前はカタコトである。金髪にブルーの瞳という容貌のレイチェルが日本人とは思えなかったので、葵は勝手に納得した。それよりも今は、話を進めることが先決である。

「あの、色々と聞きたいことがあるんですけど」

「解っています。順を追って、お話いたしましょう」

 レイチェルは葵の名前を滑らかに発音出来ないことに納得がいかない様子だったが、申し出に応じた時には真顔に戻っていた。手近な部屋に入るよう促されたので、葵は素直に従う。後から入ってきたレイチェルは扉を閉めた後、葵にベッドへ座るよう勧めた。柔らかな感触がする上質なベッドに腰を下ろし、葵は佇んだままのレイチェルを見上げる。

「レイさんは座らないんですか?」

「わたくしのことはお気になさらずに。それと、敬称も必要ありません」

「ケイショウ?」

「レイ、とお呼びくださいということです」

「ああ、分かりました」

 葵が納得して頷くと、レイチェルは室内に備え付けられている可動式の台に向かった。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2009 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system