葵達が話をするために入った部屋の中には可動式の台が置かれていて、レイチェルはそれを押しながら葵が腰かけているベッドの傍へと戻って来た。台の上には白い布巾が被せられていて、レイチェルがそれを取ると、銀のトレイに乗った高価そうな茶器が姿を現した。
「紅茶でよろしいですか?」
「あ、はい」
葵が頷くとレイチェルはトレイの上に手をかざした。しかし何かに思い当たったようで、彼女は不意に掌の向きを上に変える。
「その前に、明かりをご用意いたしましょうか」
そう独白した後、レイチェルは耳慣れない言葉を口にした。葵の耳には『アン・リュミエール』と聞こえたが、発音は定かではない。
レイチェルが紡いだ言葉に反応したかのように、彼女の手が突然光りを放ち出した。レイチェルの掌を覆っていた眩い光はやがて収束し、拳より少し大きいくらいの光球が形作られる。光球はすぐにレイチェルの手を離れ、天井の辺りで静止した。淡い色彩の月光は鳴りを潜め、代わりに陽光のような明るい光が鮮明に室内を映し出す。
「アン・テ」
レイチェルは次に、台の上にあるトレイに手をかざして言葉を紡いだ。すると今度は、トレイの上にある茶器が光り出す。伏せられて置かれていたカップはひとりでに逆さまになり、ポットには茶葉が入れられた後、お湯が注がれていく。まるで誰かが手にしているかのように空中で紅茶が淹れられていく様子を、葵はぽかんと眺めていた。
「どうやら、貴方の世界には魔法が存在しないようですね」
口を開けたまま呆けている葵を見て、レイチェルが独り言のように呟く。葵はレイチェルの言葉を理解しようと努めたが、さっぱり意味が解らなかった。
(魔法? 私がいた世界?)
魔法という単語自体は知っている。だがそれは、日常的に話題に上る類のものではない。それまで当たり前としてきた現実と目の前にある現実の違いが混乱を招き、葵は頭を抱えた。
「どうぞ」
レイチェルの声で我に返った葵は目の前にカップが差し出されていることに気付き、礼を言いながら受け取った。ソーサーに乗った白いカップには紅茶が注がれていて、湯気と共に花の香りが漂ってくる。
「砂糖とミルクはいかがいたしますか? それとも、レモンでも添えましょうか」
「あ、このままでいいです」
レイチェルに答えた後、葵は恐る恐るカップに口をつけた。口の中に紅茶の味と、ほのかな花の香りが広がる。知らないうちに体が冷えていたようで、温かい紅茶は体と心に沁み込んでいった。カップをソーサーに戻して一息ついた後、葵は改めてレイチェルを見る。
「ここは、何処なんですか?」
「ここはフロックハート家の別邸です。もう少し正確に申しますと、別邸の敷地内にある離れになります。ユアン様と共に、雪原からこのお屋敷へ来たのですよ。覚えていますか?」
レイチェルに問われた葵は視線を逸らし、記憶を探った。雪原で出会った金髪の子供とユアンという名が一致して初めて、葵は頷いて見せる。
「ここは、あのユアンって子の家ってことですか?」
レイチェルは頷いた後、ユアン=S=フロックハートというのが彼の正式な名であると告げた。レイチェルやユアンが日本人ではないと分かった今、改めて不自然さを感じた葵は眉根を寄せる。
(何で言葉が通じるんだろう? それに、ここは何処?)
この室内だけを見渡してみても、ここが日本であるとは思えなかった。仮に日本であるとするならば相当なお金持ちの屋敷ということになるが、いずれにせよ葵には自分がここにいる理由が分からない。
「ここは日本、ですか?」
知的な見た目からすると、レイチェルは頭の回転が早そうに見える。だが彼女は質問の意味が解らなかったようで、無言のまま眉根を寄せている。『日本』という単語が通じなかったのだと思った葵は思いつく限りの外国語を発してみたが、結果は同じだった。
(ジャパンもジャポンもジャポネもダメなら……後は何があるんだろう)
語彙を使い果たした葵は途方に暮れてレイチェルを仰いだ。しかしレイチェルもまた「解せない」といった表情で葵を見下ろしている。
「そのニホンという所が、貴方が暮らしていた場所の名ですか?」
葵が頷くとレイチェルは口元に手を当てて思案に沈んでしまった。彼女の反応から察するに、レイチェルは日本という国を知らないようである。
(日本って、そんなに有名じゃないのかな?)
外国人観光客も増えている昨今、葵はここがヨーロッパやアメリカならば日本と言えば話が通じるだろうと考えていた。しかし事は、葵が考えていたような単純なものではないらしい。顔を上げたレイチェルは、青い瞳で真っ直ぐに葵を見つめながら口火を切った。
「よく、お聞きください。わたくし達の世界には『ニホン』という場所はございません」
「えっ……?」
レイチェルの発言をすぐには受け止められなかった葵は、彼女の言葉を胸中で繰り返した。話についていけていない焦りを自覚しながら、葵は急いて問う。
「待って。それなら、ここは何処なの?」
「このお屋敷が建っている場所の地名をお尋ねですか?」
「そうそう!」
ようやく意思疎通が出来たことで安堵した葵は興奮気味に頷いたのだが、レイチェルは至って冷静に応じた。
「このお屋敷はアステルダム公国のスタッカード地方にあります」
「あ、あむすてるだむ? すたっかーと?」
「違います。アステルダム公国のスタッカード地方です」
レイチェルがゆっくりと言い直してくれたものの、葵にはその国が何処にあるのか解らなかった。何より、アステルダム公国などという国名は聞いたこともない。
「……地図を見ながらお話しいたしましょうか」
理解に苦しんでいる葵を見兼ねたレイチェルがそう提案し、彼女はジャケットの胸ポケットからペンを取り出した。「アン・カルテ」と呟き、レイチェルはせっかく手にしたペンを空に放る。しかし光を纏ったペンは重力に従って落下することもなく、空中で留まった。そしてすぐ、何もない空間に線を描き出したのだった。
「これが、わたくし達の世界です」
空中で踊るように線を引いていたペンが動きを止めると、レイチェルがそう補足した。葵とレイチェルの間にある何もない空間には見事な地図が描き出されている。しかしそれは、葵の知っている世界地図とはかけ離れた形をしていた。
「アステルダム公国はこの辺りにあります」
地図には東西に大陸があり、後は島国が点々と描かれている。レイチェルの指が示したのは東にある大陸の中程だった。西の大陸は東の大陸の三分の一ほどの大きさしかない。しかしそれらの情報は、呆けている葵の頭には容易に入ってこなかった。
「貴方は、別の世界からわたくし達の世界へ招かれた客人なのです」
最後に、レイチェルはそんな言葉で話を締め括った。
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