二月の浮かぶ世界

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 ひっそりと静まり返った屋敷の一室では内部に人がいるにもかかわらず、長いこと沈黙が流れていた。葵は何とか混乱を収拾しようと努めていたが、理解は追いついていても現実がなかなか追いついてこない。レイチェルに聞かなければならないことがありそうなのに、どんな質問をしたらいいのかさえ分からないのだ。時間が経つごとに気ばかり焦っていき、葵の思考は混乱の極みに達しようとしていた。

 ふと、レイチェルが顔を傾けた。つられて葵も、彼女が見ている方向へ顔を傾ける。しかしそこには豪奢な二枚扉があるだけで、開くような気配はなかった。レイチェルが扉の方を気にしていたのは一瞬のことで、彼女の視線はすぐにまた葵に注がれる。ごちゃごちゃになった思考を一度断ち切ったことで少し冷静さを取り戻した葵は、レイチェルの瞳を真っ直ぐに見つめたまま沈黙を破った。

「私、帰りたい」

 ここが異世界であろうがなかろうが、無断外泊は非常にまずい。葵は母親に怒られることを危惧して発言したのだが、レイチェルは微かに眉根を寄せた。その一瞬後、彼女はさりげなく葵から視線を外す。レイチェルの行動はまるで表情の細微な変化を見られないようにしたかのようで、葵は嫌な予感を覚えた。

「まさか……帰れない?」

 レイチェルが答えなかったので葵の科白は独白になってしまった。しかし直接的な返事はなくとも無言は肯定と同じであり、葵はレイチェルに詰め寄った。

「帰らなきゃ! どうやったら帰れるの!?」

「……大変、申し上げにくいのですが」

 解らないのだと、レイチェルは目を逸らしたまま言う。帰りたくても帰れないという状況は焦りを生み、葵は居ても立っても居られない気持ちになった。

「じゃあ、私はどうしてこの世界に来ちゃったの!?」

「貴方は、ある理由によりこの世界へ招かれました」

「誰に! 誰に呼ばれたの!?」

「それは……」

 レイチェルは言葉を濁したが葵は追及をやめなかった。葵をこの世界に招いたという者が誰なのか分かれば、その人が元の世界に戻る方法を知っているかもしれないからだ。

「とにかく、落ち着いてください」

 レイチェルは興奮している葵の肩を掴み、半ば強引にベッドへ座らせた。押さえつけられた葵は納得がいかず、レイチェルを睨み見る。葵の非難を受け止めたレイチェルは怯むこともなく、淡々と話を続けた。

「貴方をこの世界に招いた者にも、貴方が元の世界へ戻るにはどうしたらいいのか分かっていません。異世界から人間を召喚するなど前代未聞なのです。ですが非は、わたくし達にあります。調査をいたしますので、しばらく時間をください」

 葵に口を挟む暇を与えず、レイチェルは口早にそう言い切った。まだ納得のいかない部分はあるもののレイチェルが協力的であることは判明したので、葵はひとまず頷く。葵が大人しくなったのを見て取ったレイチェルは手を離すと扉の方を振り返った。

「それでよろしいですね、ユアン様?」

 レイチェルの声に反応して、扉が外側から開かれていく。葵とレイチェルが視線を注ぐ中、姿を現したのは金髪に紫色の瞳をした少年だった。ユアンという名の少年の顔を見た途端、葵の脳裏にある光景が蘇ってくる。

『ユアン様、やってくださいましたね』

 雪原で、レイチェルはため息混じりにそう言っていた。この言葉の意味を今理解した葵は怒気を孕んだ瞳をユアンに向ける。

「ごめんなさい!」

 葵の怒りを過敏に察したユアンは彼女が何を言うより先に頭を下げた。出端を挫かれた葵は喉まで出かかった怒声を呑み込み、眉根を寄せる。しかし頭を下げられたくらいでは許す気になれなかったので、葵は閉口したままユアンを見下ろしていた。

「怒ってる?」

 葵から返答がなかったため、恐る恐るといった様子で顔を上げたユアンは今にも泣き出しそうな表情をしていた。潤んだ子供の瞳に見つめられた葵は言葉に詰まり、決まりが悪く思いながらユアンから視線を外す。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい」

 傍までやって来たユアンは、わざわざ葵の顔を覗き込みながら許しを乞う。まるで自分がいじめているようだと思った葵は苦い思いで息を吐いた。

「いいよ、もう。怒ってないから」

 その言葉を口にした刹那、葵にはレイチェルのため息が聞こえたような気がした。しかし振り向いてみても、レイチェルは真顔のままである。空耳かと思い、葵はユアンの方へ顔を戻した。

「ありがとう、おねえちゃん」

 目が合うなり、ユアンは子供らしい素直な笑みを浮かべた。その微笑みは小さな花弁を開く花のように愛らしく、可愛いと思ってしまった葵は白旗を揚げる。怒りはもうどこかへ吹き飛んでしまっていたが、別のことが気になった葵は渋い表情を作って口火を切った。

「おねえちゃんはやめてよ。私は宮島葵っていうの」

「ミヤジマ」

 葵の名を繰り返すユアンもまた、名前の部分だけを発音し辛そうにしている。カタコトなのもさることながら、小学生くらいの子供に『ミヤジマ』呼ばわりされることに葵は違和感を覚えた。

「せめて名前で呼んでよ」

「ミヤジマ」

「あ、そっか」

 ユアンが『ミヤジマ』と繰り返したことで納得のいった葵は一人で頷いた。訳が分からずに眉をひそめているユアンとレイチェルに、葵は日本でのファーストネーム・ファミリーネームの決まりを説明する。ここは外国とは違うが、この世界ではファーストネームが先にくることが普通のようである。

「へー。面白いね、レイ」

「確かに、興味深い話題です」

 ユアンとレイチェルがあまりにも真剣に話を聞いてくれるので、葵は改めて違う世界へ来てしまったのだなと実感した。言葉は通じるのに文化や風習、世界までもが違うとはおかしな話である。そうした自分の考えに、葵は疑問を抱いた。

「そういえば、どうして言葉が通じるの?」

 葵が元々いた世界を考えるに、国が変われば使われている言語が違うのは当然のことである。同じ世界の内にあってもそうなのだから、異世界の人間と普通に話が出来るのは単純に考えてもおかしい。葵がそのことを口にすると、レイチェルが例のペンを取り出した。今度はペンを手にしたまま、レイチェルは空中に文字らしきものを書いている。それはアルファベットの筆記体に似ていたが、葵には解読することが出来なかった。

「読めますか?」

「読めないです」

「そうですか。では、不完全な形で召喚されてしまったようですね」

 レイチェルは話の途中でユアンを一瞥した後、再び葵に向き直ってから説明を続けた。

「召喚とは本来、魔法陣を介して行われます。召喚したものと意思の疎通が出来ないと不便なので、召喚の呪文にはその辺りの融通が利くように予めそういう言葉スペルが盛り込まれているのだそうです。ですから本来であれば完全な形で理解し合えるはずなのですが、何か不手際があったようですね」

 そこで言葉を切り、レイチェルはユアンに視線を移す。ユアンはレイチェルの視線から逃れるように目線を泳がせながら話に応じた。

「どうしてか解らないんだけど、アオイは魔法陣じゃない所に出現しちゃったんだよね。そのせい、かな?」

「魔法陣のない場所に出現した? ……ユアン様、それが何を意味するのかお解かりになっていますよね?」

「えーっと……」

 明らかに理解している様子で、ユアンはレイチェルから顔を背ける。話の見えない葵が首を傾げているとレイチェルが説明を加えてくれた。

「魔法陣の外に召喚されて無事だったのは奇跡です。一歩間違えれば世界の狭間を永遠に彷徨うところでした」

「え? それって、どういうことなんですか?」

「つまり、何処の世界にも存在しなくなるということです。世界の狭間に行った者は生きているのでも死んでいるのでもない状態で、ただ存在しているだけなのだそうです」

 レイチェルの言っている状態がどういうことなのかはピンとこなかったが、それでも葵はゾッとした。鳥肌が立ってしまった二の腕をさすり、葵は改めてユアンを睨み見る。葵と目が合うとユアンはそそくさと顔を背けた。

「疑問に思っていることがあるのですが、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 話が切れたのを見てレイチェルが話題を変えたので、葵は彼女の方に顔を傾けながら応じた。

「何ですか?」

「アオイのいた世界には魔法が存在しないのですよね?」

「うん。ポットがひとりでにお茶を淹れてくれたり、瞬間移動することなんて出来ないです」

「シュンカンイドウ?」

「えーっと、雪原からいきなりこのお屋敷に来るみたいなことは出来ないってことです」

「アオイの世界ではそのような呼び方をするのですか。この世界では、転移魔法と呼ばれています」

「あれ、どうやってやってるんですか?」

「その疑問に答えるためには、まず魔法について話さなければなりませんね」

 長い話になるのか、レイチェルはそこで一度話を切り上げた。彼女は部屋の隅の方へ目をやり、自身は動かないまま短い呪文を口にする。

「アン・ターブル、イシィ」

 レイチェルが床を指しながら言うと、棚の脇に置かれていたテーブルがその位置へと移動してきた。レイチェルは続けてイスを呼び、その後、再びティーポットとカップに指示を出す。円卓を囲んで座った三人の前にそれぞれ紅茶の注がれたカップが置かれてから、レイチェルは話を再開させた。






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