二月の浮かぶ世界

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 葵が口をつぐんだので室内には沈黙が流れていたが、やがてユアンが扉の方へ顔を傾けたことにより動きが生まれた。それまで目を伏せていた葵も視界の隅でユアンが身動いだので、同じ方向に目を向けてみる。二人が視線を注いでから少し間を置いた後、扉が開いてレイチェルが姿を現した。

「トリニスタン魔法学園への編入、ユアン様からお聞きになりましたか?」

 レイチェルが沈黙を破った時、苦い気持ちになった葵は返事をしなかった。しかしその反応だけで話が済んでいることを承知したように、レイチェルは手にしていた本を葵に差し出す。訳が分からないまま本を受け取った葵は、ずしりと重いハードカバーの本に目を落とした。本の表紙には円で囲まれた五芒星ペンタグラムが描かれていて、それ自体にどことなくミステリアスな雰囲気がある。

「最初のページを開いてみてください」

 ベッドに座りなおした葵はレイチェルの言葉に従い、膝の上で本を開いてみた。初めのページはそのほとんどが空白になっていて、ページの上部に少ない文字が描かれているのみである。葵が首を傾げながら顔を上げると、レイチェルはユアンを振り返った。

「ユアン様、お手本を」

 レイチェルに促されたユアンは葵が手にしている本を覗き込むこともなく、短い単語を紡ぎ出した。すると、彼が顔の前で立てた人差し指から小さな火が立ち上る。ユアンと同じことをしてみろとレイチェルに言われたため、葵は見様見真似でやってみた。

「る、ふゅ?」

 ユアンとレイチェルは葵が立てた人差し指に注目していたが、呪文らしきものを唱えた後も何かが起こる気配はない。しばらく待ってみても変化は訪れなかったので、レイチェルの指導が入った。

「語尾は上げずに。もう一度やってみてください」

「ル、フュ」

 一度目に比べれば、葵の発音はユアンが発した言葉に近くなっていた。しかしやはり、何も起こらない。すると今度はユアンが葵に指示を飛ばした。

「アオイ、次はリ・オだよ」

「リ、オ」

「次は、レ・ヴァント」

「レ、ヴァント」

「ラ・ソル」

「ラ、ソル」

 それで一通りを終えたらしいのだが、やはり何も起こらなかった。ユアンとレイチェルはしばらく黙っていたが、やがてレイチェルが口火を切る。

「やはり、アオイには魔法が使えないようです」

 レイチェルに断言された葵は少しガッカリしたものの、それほど失望を感じてもいなかった。容易く魔法を使えてしまうことの方が眉唾物である。

「今の、全部この本に書いてあることなの?」

 葵が膝の上で開いている本に目を落としながら問うとユアンが頷いて見せた。

「そうだよ。それ、レイが書いた魔法書なんだ」

「へえ〜」

「その魔法書は入門書です。ユアン様に初歩の魔法をお教えする際に用いたものなのですが……まさか、このような形で役立つとは思いもしませんでした」

 レイチェルの一言であやふやだった彼らの関係がハッキリしたため、葵は一人で納得した。レイチェルもユアンも鮮やかな金髪をしているが、彼らを歳の離れた姉弟とするにはあまり顔が似ていない。お互いへの接し方からしても姉弟という雰囲気ではなかったので、師弟と言われた方がすんなりと受け入れられたのだ。

「役立つって、どういうことですか?」

 葵が首を傾げるとレイチェルはタイトなスカートのポケットから何かを取り出した。レイチェルに握ったままの手を差し出された葵は、受け皿とするべく開いた手を差し出す。レイチェルの手から葵に渡ってきたものは、無色透明な石が嵌めこまれた指輪だった。

「アクロアイトの指輪リングです。利き手の中指に嵌めてください」

 嵌める指まで指定されることに若干の違和感を抱いたものの、葵は言われた通りにした。指輪は不思議と、葵の指にぴたりと嵌まっている。アクロアイトはダイヤモンドのように光を放ちはしなかったが、葵は氷のような見目の石をすぐに気に入った。

「無色のリングは無属性魔法を佑けるんだ。そのリングにはレイの魔力も込められてるね」

「少々細工をいたしましたが、わたくしの魔力だとお解かりになりましたか」

「だって、他にあんな魔力を放つのはアルくらいだよ」

 レイチェルとユアンが二人だけで分かり合っているので取り残された葵はポツンとその様子を眺めていた。葵が黙り込んでいることに気がついたレイチェルが話を元に戻す。

「そのリングにはわたくしの魔力が込められています。わたくしの魔力を消費するという形にはなりますが、その指輪を嵌めていればアオイにも魔法が使えるようになります」

 魔法が使えると言われても実感の湧かなかった葵は中指のリングをしげしげと見つめた。その様子を見たレイチェルが実際に使ってみたらいいと促す。しかし魔法の使い方など知らない葵は首をひねるばかりだった。

「アン・レトゥルと唱えてみてください」

 ジャケットの胸ポケットから取り出したペンが葵の手に渡ったことを確認してから、レイチェルはそう言った。レイチェルから渡されたペンを握ったまま、葵は言われた通りに言葉を紡ぐ。すると、葵の手の中にあるペンがにわかに光り出した。

「空中に文字が書けます。何か書いてみてください」

「文字? えーっと……」

 唐突に何か書けと言われても、葵の頭には何の言葉も浮かんでこなかった。だがレイチェルとユアンがじっと見つめているため、葵は焦りながらペンを動かす。ペンの先端から放たれる光は葵の手の動きにそって軌跡を描き、空中に文字が生み出された。

「これは、何と書いてあるのですか?」

 眉根を寄せながら文字を見つめているレイチェルが尋ねてきたので、葵は渇いた笑みを浮かべた。

(もうちょっとマシな言葉はなかったの?)

 自分でもそう思うような言葉を口に出来るはずもなく、葵は音読して欲しいというレイチェルの希望を苦笑いで受け流した。代わりに、再びペンを動かす。今度は漢字で、『宮島葵』という文字が空中に描き出された。

「私の名前です」

「先程の文字とずいぶん形が違うのですね」

 『宮島葵』という文字の横に書かれているカタカナと見比べながら、レイチェルが物珍しそうに感想を述べる。葵はさらに『あいうえお』と書き、日本語には三種類の文字があることを説明した。

「一つの言語の中に三つも違う文字があるなんて、すごいね」

「アオイは実に難解な言語を操っているのですね」

 ユアンとレイチェルが感嘆の息を漏らす中、葵は『日本語は難しい』という話を思い出していた。日本語は使用する文字が多いうえ表意文字が存在し、動詞や形容詞の活用も複雑なため非常に難しい言語なのである。葵は何が難しいのか具体的には知らなかったが、日本人に生まれて良かったとしみじみ思った。

「これほど難しい言語を操れるのであれば魔法もすぐに覚えられるでしょう」

「えっ? 覚える?」

「この世界の者は皆、力の強弱はあるものの魔法が使えます。不便ですよ、魔法が使えないと」

 レイチェルは何気ないことのように言ってのけたが葵は眉根を寄せた。それはつまり、葵が元の世界へ帰れる日が遠いということに他ならないのではないだろうか。だから学校に通わせようとしているのだと察した葵は唇を尖らせた。しかし葵が何を言うより先に、彼女の不満を察したレイチェルが再び口を開く。

「ユアン様、そろそろお暇いたしましょう」

「そうだね」

 目配せなどの合図もないまま、ユアンはレイチェルと呼吸を合わせるかのように立ち上がる。葵が制止の声を上げる間もなく、彼らはさっさと歩き出した。

「明朝、お迎えにあがります。このお屋敷にある物は好きにお使いください。それでは、失礼いたします」

「じゃあね、アオイ」

 ユアンが手を振っている横で、レイチェルが静かに扉を閉ざす。二人の姿が扉の向こうに消えてしまってからも、葵はしばらく呆然としていたのだった。






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