白衣のネコかぶり校医

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 まだ太陽の位置がそれほど高くない冬月とうげつ期の朝、森に挟まれた平坦な街道を寒さに耐えながら歩いていた少女は目前に迫った光景に怯んで、思わず足を止めた。立ち尽くした彼女の前には鉄製の柵があり、その向こう側には傾斜のきつい坂道が続いている。柵の側には看板が立てられていたが、文字が読めない少女は看板を一瞥したきり手にしている紙片に目を落とした。少女の名は、宮島葵。彼女は夜空に二月が浮かぶこの世界で生を受けた者ではなく、限りなく故意に等しい不慮の事故によって召喚された異世界の住人だった。

 葵が手にしている紙片には黒のインクで地図が描かれていた。その地図には文字が入っていないため、道標とするにはやや不便な感がある。しかし風景画のようにリアルなその地図は、葵が歩を進めるたびに刻々とその姿を変えて行くのだ。道を間違えれば紙片に×印が浮かび上がって教えてくれるため、彼女は初めての道を難なく攻略して現在の場所に佇んでいる。カーナビゲーションシステムに匹敵する地図が直進しろと言っていたので葵は改めて、目の前に立ち塞がった小山のような丘を仰ぎ見た。長い坂道の果てには微かに、建物のような影が窺える。

(……これ、上るの?)

 坂道を見ただけでうんざりしてしまった葵は現実逃避に走り、周囲に視線を走らせた。だが彼女の周りには助けてくれそうな人の姿はなく、ただ静かな森が広がっているだけである。雪を被った木々は見るからに寒々しく、葵は体を震わせた。

 フロックハートの別邸を追い出された後、葵はパンテノンという街に越してきた。街とは言っても葵が貸し与えられた家は郊外に位置しているので彼女はまだ街並みを見たことはない。しかし何にせよ、葵はこの街で初めての一人暮らしをスタートさせたのである。引越しとは言っても移動するような荷物もなかったため、レイチェルは葵を送り届けるとすぐに帰ってしまった。そして広すぎて落ち着かない屋敷で一夜を過ごした後、本日が初めての登校日である。だが学校に通わされること自体に納得がいかない葵は難関を前に半ば以上挫折しかけていた。

(何であんな所にあるのよ)

 この世界には時計がないので詳しい時間は分からないが、貸し与えられた屋敷から丘の下まで歩いて来るのに三十分くらいはかかっている。さらには小山のような丘を上れというのだ。しかも未だ融けやらぬ雪が白々と残っている、この寒空の下で。

 葵のいた世界では梅雨が明ければ夏になるという陽気だったのだが、こちらの世界では冬真っ只中である。風が吹けば雪とも氷ともつかない粒が舞い、体に容赦なく打ち付けてくる。厚手のケープを纏っているとはいえ、その下はワイシャツとスカート姿の葵は一つクシャミをした。

(……やっぱり、帰ろう)

 多大な労力を費やしてまで学校になど行きたくない。そう思った葵は小脇に抱えていた厚手の本に紙片を挟み、本を閉じてから踵を返した。

「ミヤジマ?」

 それまで人影の見当たらなかった場所で不意に名を呼ばれた葵はギクリとした。慌てて振り向くと、いつの間にか鉄製の柵の所に金髪の青年が佇んでいる。初対面の彼があまりにも整った顔立ちをしていたので、葵は思わず見とれてしまった。歳の頃は二十代前半だろうか。まだあどけなさの残る面立ちをしている。鮮やかな金髪にブルーの瞳が印象的な彼は、何故か白衣を着用していた。

「ミヤジマ=アオイ?」

「は、はい」

 青年がこちらへ向かって来ながら問いかけてきたので、葵は身を引きながら頷いて見せる。葵の答えを受けた青年は人の良さそうな笑みを浮かべ、親しげに彼女の手を取った。

「やはり、ミヤジマでしたか。お会いすることが出来て光栄です」

 青年は近くで見れば見るほど美しく、物腰の柔らかい彼が見せる微笑みは極上の輝きを放っていた。手を握られているせいでドギマギしていた葵はふと、あることに気がついて眉をひそめる。

(この人、誰かに似てる)

 そう思ったのも束の間、葵はすぐにその答えを見つけ出した。艶やかな金髪にブルーの瞳、何より整った目鼻立ちがレイチェルによく似ているのだ。

「あの、レイチェルって人のこと知ってますか?」

「レイチェル=アロースミスは僕の姉です」

「ってことは、レイの弟?」

「はい。僕の名はアルヴァ=アロースミス。アルとお呼びください」

 アルヴァと名乗った青年は葵の手を解放すると片手を胸に当て、大袈裟な一礼をして見せた。その仕種自体は芝居がかっていたが、それをやっているのが彼ならば自然とスマートに見える。葵が違和感を覚えなかったのは、アルヴァの容姿が日本人とはかけ離れているせいもあったかもしれない。

「事情はレイチェルから聞いています。さあ、こちらへどうぞ」

 声をかけながら再び葵に接近したアルヴァは、そのまま彼女の肩を抱いた。肩に手を回されるなど初めての経験で、葵はハードカバーの本を両手で抱いて縮こまる。葵の体には必要以上の力が入っていたが、アルヴァは気にすることもなく呪文を唱え出した。

「アン・ルヴィヤン」

 葵が「初めて聞く呪文スペルだな」と思った頃には、周囲の風景が一変していた。ついさっきまで周囲に広がっていたはずの雪を被った森は姿を消していて、空気も肌を刺すような冷たいものではなくなっている。そこは簡素なベッドが幾つか並ぶ、保健室のような場所だった。

「ま、テキトーに座ってよ」

 アルコールのようなにおいがすると思って周囲を見回していた葵はアルヴァから掛けられた言葉に耳を疑った。

「……えっ?」

 今しがた耳にした科白を本当にアルヴァが言ったのか確かめたかったので問い返してみたのだが、彼はすでに葵の元を離れ、壁際にあるデスクの方へと歩き出している。少し古ぼけた金属製のデスクの前にはキャスターつきの椅子が置かれていて、それに腰を落ち着けたアルヴァはそれまで正していた服装を自ら乱し始めた。外されたネクタイが無造作に放られ、ワイシャツのボタンが上から順に外されていく。はだけた胸元にドキリとした葵は慌てて目を逸らした。

(何、この人……)

 つい先刻まで紳士のようだった青年が、今やガラの悪い若者に成り果てている。まだ第一印象すら定まっていない段階での豹変は混乱を生じさせ、葵は困惑してしまった。

「なに突っ立ってんの? 空いてるベッドにでも座りなよ」

 わざわざズボンにしまっていたワイシャツの裾まで引っ張り出したアルヴァは悠然と足を組み、デスクの引き出しから取り出した煙草に火をつけた。葵は煙を避けながら横歩きに移動し、一番端のベッドに腰を下ろす。簡素なベッドはユアンの屋敷にあった物とは違い、スプリングが硬い。その感触は葵に高校の保健室を思い起こさせた。

 高校に入学してから一度だけ、葵は保健室のベッドで休ませてもらったことがある。その時、微熱に浮かされた頭の片隅で保健室のベッドは硬いという感想を抱いたものだった。ここは二月の浮かぶ異世界なのに、妙なところで葵のいた世界との類似点がある。そのことを不思議に思いながら、葵は白いシーツに包まれたマットレスに手を置いた。

「いつかこういう事になるんじゃないかと思ってたけど、災難だったね」

 アルヴァが話しかけてきたので葵は意識を戻して彼の方へと顔を傾けた。

「こういう事って、どういうことですか?」

「だから、君みたいに別の世界の人間を召喚しちゃうってこと」

 アルヴァが話題に上らせているのは、どうやらユアンのことのようだ。だが彼らの関係を疑問視する前に、アルヴァが口走った科白が聞き捨てならないものだったので葵は不満を露わにする。

「こういうことになるって分かってたんだったら、なる前に止めてください」

「それは言えてるね」

 あっさり頷いて見せたアルヴァには、葵の不幸などしょせんは他人事なのだ。しかし葵にとってはいい迷惑であり、生活を一変させられてしまうような出来事を笑い飛ばされたことも不快だった。

「怒った?」

 短くなった煙草を灰皿で揉み消しながら尋ねてきたアルヴァの口元には、笑みが浮かんでいる。怒ったと問われて頷くのもバカらしいと思った葵は無言を貫いた。アルヴァも閉口したので室内には気まずい沈黙が流れる。この場所にいる意味が見出せなかった葵は立ち上がって歩き出した。

 保健室によく似た造りのこの部屋の扉は、アルヴァが座っている場所の直線状に位置している。押したり引いたりして開けるタイプのドアではないようだったので、葵は横にスライドさせようとした。しかしいくら力をこめても扉はびくともしない。見た目によらず押し開けるタイプなのかと思った葵はドアを押してみたが、それでも駄目だった。引いてみても結果は同じ。ならば最後の手段しかないと思い、葵はその場にしゃがみこんだ。

「……何してんの?」

 ドアを押し上げようと奮闘する葵の姿を見て、アルヴァが呆れ声で問いかけてくる。葵は冷静を装って立ち上がったが、内心では穴があったら入りたいと思うほど自分の行動を恥ずかしく感じていた。

「どうやって開けるの?」

 逃げ出そうにも出口がないため、恥を忍んでアルヴァに問う。葵の複雑な胸中になど興味がないのか、アルヴァは平然と答えを寄越した。

「その扉は鍵がないと開かないよ」

「だったら、何処から出ればいいのよ」

「何だ、出たかったのか。でもその前に、少し話を聞いてもらわないと」

 悠然と椅子に腰掛けているアルヴァはにこりと微笑み、先程まで葵が座っていたベッドを指す。アルヴァの態度には有無を言わせぬものがあり、葵は脱出を諦めて再びベッドに腰を落ち着けたのだった。






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