白衣のネコかぶり校医

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 大きくとられた窓から差し込む朝日が、薄いカーテン越しに広い室内を照らしていた。室内に侵入してくる光は時間の経過と共に少しずつ伸びていて、部屋の中央に置かれているベッドにまで達しようとしている。豪奢なベッドで一人眠っていた葵は、しかし眩しさのせいではなく目を覚ました。覚醒と同時に勢いよく上体を起こし、そのまま前のめりになって肩で荒い息をつく。呼吸を整えてから改めて周囲を見回した葵は、自分がまだベッドの上にいることを知った。

(ゆ、夢……)

 胸中で呟くと極度の緊張から解放され、葵は再びベッドに倒れた。窓から差し込む朝日を浴びながら、彼女は大きく息を吐く。アルヴァの個人授業が始まってから十日、葵は彼に様々なことを叩き込まれていた。その内容は本当に様々で、言葉遣いから平素の立ち振る舞い、食事の仕方、この世界の文字など多岐に渡っている。またアルヴァの教え方はスパルタで、肉体的にも精神的にもダメージを受けている葵は授業の夢まで見てしまったのであった。だが今日は、幸いなことに休日である。

 この世界の休日は葵がいた世界とは規程が違う。葵が通っていた高校が週休二日制なのに対し、トリニスタン魔法学園の休みは十日に一度である。単純計算をしても圧倒的に休みが少ないが、何よりも連休がないことに葵は参っていた。

(明日からまた学校なんて……)

 せっかくの休日にもそんなことを考えてしまい、葵は枕を抱いてベッドの上を転がった。こうして無駄に時間を使っていることはもったいない気もするが、起き出したところですることは何もないのである。しかし寝転がっていることにも限界を感じ、葵は起き上がってベッドから下りた。気分を変えるためにも空気を入れ替えようと思った葵はスリッパを引きずって窓辺に寄る。何気なくカーテンを開けたところで葵は動きを止めた。

 ここは葵がトリニスタン魔法学園に通うにあたって、ユアンから貸し与えられた屋敷である。西洋風の建造物である二階建ての屋敷は一人で住むには無駄なほど広い。どのくらい無駄かと言えば、使わない部屋が十部屋以上あり、屋敷の東西には広大な庭園が広がっていて、屋敷の南には噴水まであるといった始末だ。あまりにも広いため葵一人では管理が行き届かないが、掃除や庭の手入れなどは魔法をかけられている道具達が勝手にやってくれるのだ。

 葵が使っている部屋は二階にあって、窓からテラスに出られるようになっている。テラスからは屋敷の東に広がる庭園を一望出来るのだが、そのテラスの欄干近くに金髪の男が佇んでいた。彼はこちらに背を向けていたが、そんな場所に佇む人物に一人しか心当たりのなかった葵は何事もなかったかのようにカーテンを閉める。しかし窓には鍵もついていないので、すぐに開け放たれてしまった。

「おはようございます、ミヤジマ」

 凍えそうな外気と共に葵の部屋へ侵入してきた青年は、にこりと笑って挨拶を口にする。未だネグリジェ姿の葵は寒さに両腕を抱き、嫌な顔をした。

「今日、休みって言わなかった?」

 口にしてしまってからハッとして、葵は慌てて言い直す。

「本日はお休みなのではありませんこと?」

 言葉遣いを正した後、葵は恐る恐るアルヴァの顔色を窺った。葵と目が合うなり、アルヴァは小さく吹き出す。

「ミヤジマ、今は普通に話しても大丈夫ですよ」

「……なんだ。じゃあ、アルも普通に話してよ」

 叱責が飛んでくるかと身構えていた葵は力を抜いたが、アルヴァの口調は変わらなかった。これが平素だとアルヴァが言い切るので、葵は胸中で大嘘つきだとぼやく。葵の不満顔を見たアルヴァは顎に手を当てて一考した。

「では、僕の部屋で話をしましょうか」

 そう言うと、アルヴァは葵に着替える時間も与えずに手を取った。アルヴァが短い呪文を唱え終えると同時に体が浮遊感に包まれ、その一瞬後に目に映ったのはいつもの保健室である。ネグリジェ姿のまま外出してしまった葵はソワソワしながら周囲を窺った。

「心配しなくても、誰もいないよ」

 葵の不安を見透かしたように言うと、アルヴァはコートを脱いでワイシャツの胸元をはだけさせた。白衣は着ないまま、彼はどっかりと自分の席に腰を下ろす。葵はネコかぶりをやめたアルヴァを不審そうに見た。

「ねえ、ここって保健室なんでしょ? 何でいつも誰も来ないの?」

 個人授業の教室はこの保健室である。毎日通っている場所なのだが、葵は一度も生徒が訪れたところを見たことがなかった。葵に問いかけられた内容が意外だったのか、煙草を手にしたアルヴァはキョトンとした表情をしている。

「うん? 保健室だなんて言ったか?」

「……聞いてない、かも」

「まあ、保健室っぽい使い方もするけどね」

「どういうこと?」

「細かなことはさておき、今日は休みだからどのみち誰も来ないよ」

「あ、そっか」

 今日が休みだということを思い出した葵の頭には、すぐさま別の疑問が浮かんできた。保健室云々の話はひとまず置いておき、葵は本題を口にする。

「それで、何か用?」

「明日から教室に行ってもらうから、今日はその準備。制服はさっき届けてきたから明日からはそれで登校するように」

「ってことは、個人授業は終わり?」

「しばらくは並行してやる。特に文字は、扱えないと不便だからね」

 この世界の文字は魔法の源である。しかし葵はまだ、文字の基本的な配列すら覚えきれていなかった。

「じゃあ、お茶を淹れてみようか?」

 アルヴァに促された葵は渋々、アクロアイトの指輪リングをはめている右手を胸の高さまで持ち上げる。

「アン・テ」

 葵が呪文を唱えると、アルヴァの席の横に置いてあった台から茶器が宙に舞った。この世界の物には制作の段階で職人の魔法が刻まれていて、使用者は呪文によって物に刻まれた魔法を発動させるのだ。ちなみに無属性魔法は例外なく、冠詞に『アン』を用いる。自然界の力を使う際には属性に応じて冠詞が異なるのだが、葵には無属性魔法しか使えないので縁遠い話であった。

「いくつ?」

 アルヴァが問いを投げかけてきたので、砂糖の話だと思った葵は一つと答えた。しかし砂糖の話ではなかったらしく、アルヴァは呆れ顔をしながら補足する。

「年齢の話だよ。ミヤジマは今、いくつ?」

「なんだ、紛らわしい。十七だけど、それが何?」

「だったら二年生だね。明日、二年A一組へ行くといい。教室の場所が分からなければ誰かに聞いてくれ」

「そんな、アバウトな……」

「鐘が鳴ったら始業だから。遅れないように」

 一方的に話を切り上げたアルヴァは紅茶の注がれたカップに口をつけた。もう説明をしてくれそうな雰囲気ではなかったので、葵も仕方なく口を閉ざす。室内にはしばらく沈黙が流れていたが、程なくしてアルヴァが席を立った。

「……何?」

 傍へやって来たアルヴァに右手をすくい上げられた葵は眉根を寄せて意図を問う。アルヴァは答えず、葵の右手に嵌められているリングを注視しているようだった。リングを見ているのだと分かってはいても、無言で凝視されれば居心地が悪い。耐えられなくなった葵は手を引こうとしたのだが、それより先にアルヴァが行動を起こした。

「!!!!?」

 目前で起きた出来事に衝撃を受けた葵は声にならない悲鳴を上げ、手を奪還した。動揺を隠せないでいる葵とは正反対に、アルヴァはキョトンとしている。

「何を驚いている?」

「だっ、だって、今っ……」

「リングに僕の魔力をこめた」

 この世界の者ではない葵が魔法を使うには、指輪にこめられた誰かの魔力を消費するしかない。魔法を使うごとに指輪の魔力は減っていくので定期的に補充が必要なのだとアルヴァは説明したが、しかし、それにしてもと、葵は思う。

(それが、何で指輪にキスなのよ)

 まだ鼓動が早い胸を押さえ、葵は心臓に悪いと独白した。だがアルヴァにとっては何でもないことのようで、彼は平然としたまま話を続ける。

「これを渡しておこう」

 アルヴァがポケットから取り出したのは鍵であり、葵は目の前に吊り下げられたそれを見て首を傾げた。

「何のカギ?」

「この部屋の鍵だ。ミヤジマは転移魔法が使えないから、その鍵がないとここへ来れない」

「へー」

 鍵を受け取った葵は、魔法が存在する世界にしてはずいぶんと普通の鍵だと思った。その鍵は掌にすっぽりと納まってしまう大きさの、先端部分がギザギザになっているタイプのものである。ネグリジェにはポケットがなかったので、葵は鍵を握ったまま話を続けた。

「でも指輪の魔力が減ってきたとかって、どうしたら分かるの?」

 葵が何気なく発した問いが実は重要だったらしく、アルヴァは深刻そうに眉根を寄せた。

「そうか、ミヤジマには魔力が見えないんだね」

「ふつう、誰でも見えるものなの?」

「魔力を見る能力っていうのも個人差があるから一概には言えないけど、大抵は労せず見えるもんだね」

「ふうん。どんな風に見えるの?」

「体全体をベールで覆ってる感じ、とでも言えば分かるか?」

「……何となく」

 まったく想像出来ないこともなかったので葵は曖昧な返事をした。アルヴァは話をしている間にも考え事をしていたらしく、少し間を置いてから嘆息する。

「仕方ない。魔法が使えなくなったら補充ということにしよう」

「魔法が使えなくなったらここに来ればいいの?」

「そういうことだね。あと、これも渡しておこう」

 不意に思い立ったかのようにポケットを探ったアルヴァが取り出したものはカードだった。受け取りながら葵は首を傾げる。

「これは?」

「欲しいものがあればそれで買うといい。この学園に通っている生徒は金持ちばっかりだから交際費を出し渋ると舐められる」

「そ、そういうもんなの?」

「まあ、金持ちにもピンからキリまであるから。友達は選んだ方がいいかもね」

 ごく一般的な家庭に育った葵には金持ちの金銭感覚など知る由もなく、アルヴァの一言は余計な不安を煽った。

(ともだち、ねぇ……)

 この世界に長居をするつもりのない葵は複雑な心境で口角を持ち上げる。その笑みをどう解釈したのかは分からないが、アルヴァは何も言わなかった。






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