マジスター

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 とある日の早朝、トリニスタン魔法学園の制服である白いローブに身を包んだ葵は校舎二階にある二年A一組の教室からぼんやりと外を眺めていた。窓の外では深々と雪が降り続いていて、その他には目立った動きもない。同じ光景ばかり見ていることに飽きた葵は小さく息を吐き、教室の前面を占めているブラックボードの方へ顔を傾けた。まだ始業前のため、教室内はガランとしている。

 この世界には時計というものがない。時を計るという概念のない世界でどうやって始業の時刻を定めているのか謎だが、それでも学園には授業開始を告げる鐘が存在していた。何か目安のようなものがあるらしく、生徒達は大抵鐘が鳴る少し前に登校してくる。しかし葵には予測のしようもないため、早すぎるか遅刻するかのどちらかが常であった。今日は早すぎたパターンである。

 時間を持て余した葵は机の上に置いてある魔法書をめくってみたが、すぐに閉じた。アルヴァに文字を習っているとはいえ読めない単語が多く、つまらないのである。次に、葵はローブのポケットからペンを取り出した。右手に握ったペンを目前に掲げ、呪文を口にしてみる。

「アン・カルテ」

 呪文に反応してペンが光り出すと葵はそれを宙に放った。葵の手を離れたペンは空中を泳ぎ、その軌跡が地図を描き出す。暇つぶしに、葵はまだ見慣れていないこの世界の地図を眺めた。

 二月の浮かぶこの世界には東西に大陸が一つずつある。東の大陸の方が大きく、西の大陸は東の大陸の三分の一ほどの大きさしかない。葵が暮らしているアステルダム公国は東の大陸の内陸地帯にあり、トリニスタン魔法学園はアステルダム公国内の東域に位置していた。ちなみに、王立の名門校であるトリニスタン魔法学園は東の大陸では各公国に設けられていて、葵が通っているのはアステルダム分校である。王立校であるが故にトリニスタン魔法学園には良家の子供が多く、また魔法に長けている者も多いのだ。それは魔力と権力に密接な関係があるからなのだが、葵はそこまでの事象は知らなかった。

 子供の頃から世界は七大陸だと教えられてきた葵にとって、大陸が二つしかない地図は違和感がある。だが特別地理が好きという趣向も持ち合わせていなかったので知識欲を刺激されることもなく、葵は手元に戻って来たペンをしまった。頬杖を突いてぼんやりしていると廊下の方から足音が近付いて来たので、葵は慌てて姿勢を正す。しばらくの後、葵が見つめる中で二年A一組の扉が開かれた。

「あら、ミヤジマさん。お早いですわね」

 教室に姿を現したのがココだったので、葵は努めてにこやかに笑みをつくった。

「おはようございます、ココさん」

「ミヤジマさんもマジスターの方々をお迎えに?」

 朝の挨拶もそこそこに、ココは少し興奮しているような調子で話を切り出した。マジスターとはトリニスタン魔法学園が誇るエリート学生の集団であり、良家の子息が多い学園内でも際立った家柄の者達である。そのため潜在的な魔力も他の生徒とは比べ物にならないほど大きく、加えて眉目秀麗な者ばかりで構成されているので、女生徒にとっては憧れの的なのだった。

 ココ達の話にもよく名前が出てくるので、葵もマジスターの存在自体はすでに知っていた。しかし『お迎え』の意味が分からなかったので、葵は首をひねる。

「さあ、参りましょう」

 時間に追われているのか、ココは急いている様子で強引に葵を促した。よく分からないが従っておいた方がいいと思った葵は席を立ち、教室の外へと向かうココに続く。その後はココの背中を追いかける形で廊下を足早に歩き、辿り着いた先は一階のエントランスホールだった。ホールの二階部分はすでに女生徒で埋め尽くされていて、一階部分も廊下の両側に女生徒ばかりが並んでいる。その光景を見た葵は、アイドルの出待ちのようだと思った。

 葵達が到着して間もなく、突如として歓声が上がった。女生徒の黄色い声はエントランスから校舎に入って来た三人組の男子生徒に向けられたものなのだが、人波に呑まれている葵からはその姿が見えない。三人組の歩行に従って集まっていた女生徒達が大移動を開始したので、葵には彼らの後ろ姿さえ見ることが出来なかった。

(……すごい人気)

 いつの間にかココともはぐれてしまい、エントランスホールに一人取り残された葵は胸中でそう呟いてみた。エントランスホールから遠く離れた廊下にはまだ最後尾らしい女生徒達の姿が残っていたが、やがてはそれも緩やかなカーブに呑まれていく。ちょっと見てみたかったと残念に思うのは目の前に生身の芸能人がいた時と同じような感覚であり、葵は笑ってしまった。

(でも、ちょっと親近感。お嬢様でもカッコイイ男の子がいたら騒ぐんだ)

 元の世界にいた頃は葵もよく、イケメン若手俳優である加藤大輝がテレビに映るたびに騒いでいたものだ。葵にはそれと同じくらいの認識しかなかったのだが、トリニスタン魔法学園に通う女生徒達がマジスターに入れ込んでいるのには、もう少し複雑な事情があった。二月の浮かぶこの世界では魔力と家柄に密接な関係がある。身分の高い者ほど大きな魔力を持っていて、それは血によって受け継がれていくのだ。トリニスタン魔法学園に通う女生徒のほとんどは、彼女達の家を繁栄させるという使命がある。そんな彼女達にとってマジスターというエリート集団はいわば、格好の標的というものであった。

 いつまでもエントランスホールにいたら始業の鐘が鳴ってしまったため、葵は急いで教室に戻ろうとした。しかし誰かがエントランスホールに入って来たことに気付いて、足を止めて振り返る。そうして目にした人物に、葵は釘付けになってしまった。

 校舎の外からエントランスホールに入って来たのは長身の少年だった。栗色の髪を全体的に短く刈っているため、整った顔がよく見える。彼はこの学園の制服であるローブではなく私服姿だったが、顔立ちにまだ幼さが残っているので生徒のように思われた。人気のないエントランスホールで立ち止まっていたからか、少年はすれ違いざまに葵を一瞥する。葵は気怠そうな色を宿している淡いブラウンの瞳に引き込まれてしまったが、彼は立ち止まることなく行ってしまった。少年が立ち去った後もしばらく呆けていた葵は、やがて我に返って廊下を走り出す。軽い足取りで教室へと向かう葵の胸中は熱を帯びたときめきに弾んでいた。

(か、カッコイイ。さっきの人、カッコよかった)

 彼は一般人だが加藤大輝に次ぐ、芸能人的なヒットである。葵はまだドキドキしている胸を押さえ、にやけそうになる顔を必死で繕いながら教室の扉を開けた。始業の鐘はすでに鳴っていたが、まだ教師が来ていないため生徒達は雑談に花を咲かせている。窓際の自分の席に腰を落ち着けた葵はブラックボードの方へ顔を傾けたが、残念ながらそこに書かれている文字を解読することは出来なかった。

「ミヤジマさん、何処へ行ってらしたの?」

 教室の中にいたココが歩み寄って来たので、気が緩んでいた葵は表情を作り直して彼女を迎えた。

「はぐれてしまいました。ココさんはどちらにいらしたのですか?」

「わたくしはマジスターの方々と一緒でしたわ」

 ココの返事を聞いた葵は、あれを『一緒にいる』と言えるのか疑問に思ったが表情には出さなかった。はぐれた話はさておき、ココはマジスターの話題に言及する。

「お顔、拝見できまして?」

「それが、見えなかったのです。でも、その代わり……」

 『超カッコイイ人を見かけた』と言おうとして、葵は慌てて口をつぐんだ。

「どうかなさいまして?」

「い、いえ。何でもありませんわ」

 ココの追及をにこやかに流した後、葵は胸中でため息をつく。

(ああ、めんどくさい。フツウの言葉で騒げれば楽なのに)

 マジスターのことで騒いでいるココ達と、カッコイイ人の話題で盛り上がりたい葵の気持ちは同じである。しかしそこに言葉の壁があるが故に葵ははじけることが出来なかった。エントランスホールで出会った少年のことを話題にするとボロが出そうだったので、葵は自ら話を振ることを諦めた。

「マジスターの方々、本日もとてもステキでしたわ。お顔を拝見できなくて残念でしたわね」

 ココが再びマジスターの話を蒸し返したので葵も調子を合わせる。

「実は、わたくしはまだマジスターの方々を拝見したことがないのです。どのような方達なのですか?」

「まあ、そうでしたの!」

 過剰なまでに驚きを露わにしたココはマジスターについて熱く語り出した。彼女の話によれば、トリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターは男子の四人組で、それぞれキリル=エクランド、ハル=ヒューイット、オリヴァー=バベッジ、ウィル=ヴィンスという名らしい。

「キリル様は漆黒の髪にブラックの瞳という、世界でも珍しい容姿をなさっています。ハル様は栗色の髪にブラウンの瞳をなさっていて、とても繊細な雰囲気をお持ちのお方ですわ。オリヴァー様は長い茶髪を結んでいらして、とても体格がよろしいの。ウィル様は刺激的な真っ赤な髪をなさっていますが意外とお茶目なお方ですわ」

 ココが饒舌に語るので葵は内心では呆けながら話に耳を傾けていた。だがマジスターへの関心は高いようで、葵とココの会話を聞きつけたクラスの女子も次第に話に加わってくる。『オリヴァー様のワイルドなセクシーさがステキ』だの『キリル様の視線に射貫かれたい』だのといった発言を受けて、葵はファンクラブの集いみたいだと思った。

(ああ、いいな、この雰囲気)

 ここは異世界だが、女の子の関心事は世界が違っても同じのようである。お嬢様ばかりの環境に放り込まれた庶民の葵はそれまで疎外感を覚えていたのだが今、初めて彼女達の中に溶け込めたような、そんな気がしていた。






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