カノン

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 分厚い魔法書を胸に抱えながらトリニスタン魔法学園の敷地内を歩いていた宮島葵はふと、弦楽器の音色を聞いたような気がして足を止めた。冬月期の最終月である秘色ひそくの月にしては珍しく空は晴れ渡っているが、外気は肌を刺すように冷たい。そんな凍てついた空気に溶け込むかのように響いている音色は葵の耳に美しさと儚さを伴って届いた。

(バイオリンかな? キレイな音色)

 弦楽器の音色に誘われた葵はフラフラと、敷地の外れにひっそりと佇む建物群を目指した。

 トリニスタン魔法学園の校舎は敷地の中央にあり、校舎の南にはグラウンドが広がっている。正門は校舎の西側にあり、そのためエントランスホールも校舎の西方に設置されていた。一般の生徒は正門付近に描かれている魔法陣を使って登下校しているが、転移魔法が使えない葵は彼らがほとんど近寄ることのない北の裏門を利用している。そして今、葵が歩いているのは校舎の東側に佇む謎の建物群の辺りだった。

 校舎から東へ歩いて行くと、まず全面ガラス張りのドームのような建造物がある。ドームの内部には冬の時分でも色とりどりの花が咲き乱れているので温室になっているらしいのだが、葵はその建物の中に人影を見たことはなかった。ドームの脇を素通りした葵が目指しているのは、ドームよりもさらに北の辺鄙な場所に佇む時計塔のような建物である。この世界には時計が存在しないのに何故葵が時計塔だと思ったのかというと、それは搭の上部に円形の空白があり、その部分に時計を嵌めこめば時計塔にしか見えない外観をしているからだった。

 葵がいた世界では時計は普遍的なものだった。目覚まし時計から腕時計に至るまで様々な場面で触れてきた時計の存在は思いのほか大きく、葵はこの時計塔を発見してからというもの、密かに気に入りの場所としていたのである。だがバイオリンのような音色を聞いたのは今日が始めてのことだった。

 塔の真下まで歩いて来た葵は快晴の空を仰いだ。バイオリンのような音色は塔の上方にある、円形の空白から流れ出でているようである。誰が弾いているのか興味を覚えた葵は搭の内部に入れないかと周囲を窺ってみた。すると裏手に扉があり、取っ手を回して引くと扉は簡単に開いた。

(そういえば、カギがかかってる所って保健室くらいだな)

 保健室に入室するには何故か鍵が必要なのだが、葵はそれ以外の場所で鍵を必要とする場面に出会ったことがなかった。貸し与えられている屋敷には扉はもちろんのこと窓にも鍵がない。葵は防犯意識の高い現代人なので、最初の頃はそういった環境を不安に思ったものだった。

(もう、慣れたけどね)

 さすがに一ヶ月も経てば、新しい環境にも馴染んでくる。そのことを若干悲しいと感じながら、葵は塔の内部に足を踏み入れた。

 扉を閉めると搭の内部は暗闇に近い状態になった。上の方から微かに光が注いでいるが、青空の下で慣らされた葵の目には焼け石に水である。周囲に何があるかも分からなかったので一歩を踏み出すことも出来なかった葵は呪文を口にした。

「アン・リュミエール」

 短い詠唱が終わると葵の掌の上に光球が出現する。周囲の状況を把握できるようになって初めて、葵は搭の内部が吹き抜けになっていることを知った。

(こういう時、魔法って便利だよね)

 もっとも、光球を生み出しているのは葵自身ではなくアルヴァの力ではあるのだが。葵はアルヴァに感謝をしつつ、搭の中央部にある螺旋階段を上り始めた。

 螺旋階段を上って行くと、上部から差し込んでいた光の正体が分かった。階段下から見ると天井であった部分が二階部分の床になっていたらしく、出入り口となる部分から光が漏れていたのだ。二階部分へ出ると、時計が嵌まりそうな丸い空白から外の光が差し込んでいた。風が吹いているところをみると、空白の部分は窓ではなくただの穴のようだ。

(寒い……)

 閉塞された一階部分が暖かかっただけに、二階へ出た葵は身震いをした。すでに弦楽器の音色もやんでいて、室内には誰の姿もない。搭の内部へ侵入した時は確かに聞こえていたので、不思議に思った葵は周囲を窺った。階下へ下りる階段のようなものは葵が上ってきたものの他には見当たらない。だが葵は、途中で誰ともすれ違っていなかった。

(あ、そっか……魔法があるんだっけ)

 階段など使わずとも、この世界の者にはいくらでも移動手段があるのだ。自分が転移魔法を使えないためにそのことを失念していた葵はふっと、苦い笑みを浮かべた。

(帰りたいなぁ)

 一人になると途端に、その思いは押し寄せてくる。壁に背を預けて座り込んだ葵は魔法書と一緒に膝を抱えた。

 元いた世界での最後の記憶は、今にも雨が降り出しそうな曇天と湿気をたっぷり含んだ湿った風のにおいである。あれから一ヶ月経った今頃は梅雨もあけていて、そろそろ夏休みに入っているはずだ。こんなことにならなければ好きな本を読んで、加藤大輝が出演するドラマをチェックして、音楽を聴いて、長い休みを有意義に過ごせていただろう。

(あー、弥也と映画見に行く約束もしてたなぁ。空手の試合も応援に行くって言ったのに)

 この世界には映画館もなく、空手という格闘技も存在しない。何より、弥也がいないのだ。腐れ縁だからと気楽に付き合ってきた友人の存在が事のほか大きいものだったことに気がつき、葵は泣きたくなった。

「帰りたいよぉ」

「どこへ?」

 独り言になると覚悟して声を出した葵は反応が返ってきたことに驚いて顔を上げた。しかし視界が霞んでいて、よく見えない。慌てて涙を拭った後、葵は改めて周囲を見回した。

(あっ……)

 声を掛けてきたと思われる人物を発見した時、葵は息が止まりそうになった。少し離れた場所に、いつの間にか私服姿の少年が出現している。長身のその少年は栗色の髪にブラウンの瞳をした、エントランスホールですれ違った芸能人のような男の子だった。

 少年が無言のままでいるので、質問を投げかけられていたことを思い出した葵はハッとした。しかし彼の問いかけに対して、返すべき言葉は見当たらない。葵が口を開けずにいると、少年の方が再び口火を切った。

「帰りたいなら帰れば?」

「……そう、出来ればね」

 とっくに帰ってるよと、苦笑いを浮かべた葵は胸中で呟いた。それからあることに気がつき、再びハッとする。

(しまったぁ、フツウに喋っちゃったよ)

 校内では丁寧な言葉遣いをしろとアルヴァに注意されていたのに、ついにボロが出てしまった。しかし葵が恐る恐る顔色を窺っても、少年からのリアクションはない。恐ろしく心情の読めない無表情をしている少年に、葵は遠慮がちに声をかけた。

「あの……制服を着ていらっしゃいませんが、学生の方ですか?」

 葵の言葉遣いが激変したからなのか、少年は小首を傾げた。もうフォローのしようがないと思った葵は開き直ることにして、短くため息を吐く。

「あの、お願いがあるんだけど」

「何?」

「ここで見たこと、誰にも言わないで?」

「ここで見たこと?」

「えっと、つまり、その……私がネコかぶってるってこと」

 自分からこんなことを言い出すのは何だか嫌だと思いながらも背に腹はかえられなかったので、葵はすっぱりと言い切った。少年は分かったのか分かっていないのか、非常に判別のしづらい態度で無言を貫いている。頷いてさえくれなかったので不安に思った葵が念を押すと、彼は呆れたような表情をした。

「そんなこと言って何になる?」

「……確かに」

 葵がネコをかぶっていようがいなかろうが、それは初対面に近い他人である彼には無関係な話だ。そう感じた葵が思わず頷いてしまうと少年はおかしそうに笑った。

「あんた、変な奴だな」

 それまで無愛想だった少年が見せた突然の笑顔に、葵の目は釘付けになってしまった。少年は無表情だと冷たい印象を抱かせるが、笑うと可愛い。ときめいてしまった葵は激しく脈打っている鼓動を正常に戻そうと躍起になった。

(お、落ち着いて。何でもないことなんだから)

 彼はただ、笑っただけである。その程度のことで動揺していられないと自分に言い聞かせ、葵は自分から話を振った。

「ここで何してるの?」

「別に、何も。あんたこそ、何でこんな所にいるんだ?」

「私は、音楽が聞こえてきたから……」

 そこまで言葉を紡いで、葵はふと音色の主は彼なのではないかと気がついた。この搭は辺鄙な場所に佇んでいて、好んで訪れる者が多いとは思えない。

「ねえ、さっきバイオリン弾いてた?」

 葵が急いて口にした問いに少年は答えなかったが、否定もしなかった。彼があまりに表情を動かさないので黙している真意は分からないが、葵はあることに思い至ってハッとする。もしかしたらこの世界には『バイオリン』という楽器自体が存在しないかもしれないのだ。

「あ、変なこと聞いてごめん。もう行くね」

 まずいことを口走ったと思った葵は素早く立ち上がり、一方的に別れを告げて階段へ向かう。少年が葵を追いかけるようなこともなく、彼らはそのまま何事もなく別れたのだった。






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