「ミヤジマさん」
窓際の自席からぼんやりと外を眺めていた葵は呼び声で我に返った。ボーッとしているうちに授業は終わっていたらしく、いつの間にか教室内には歓談の声が溢れている。声をかけてきたのはココと、いつも彼女の両脇に控えている少女二人だった。
「どうかなさいまして?」
心配そうな表情を作って尋ねてきた少女の名は、サリーという。時計塔で再会した少年のことを考えていた葵は小さく首を振り、何でもないことを告げた。
「少し、ぼんやりしてしまったようです」
「そうですか。お体がお悪いのではなくて安心いたしました」
サリーが微笑んだので葵もつられて笑みを浮かべた。その笑みはわずかに引きつっていたが、サリー達に違和感を覚えさせるほどではなかったらしい。今日はどこへも寄らずに帰ろうと思った葵は開きっぱなしになっていた魔法書を閉じ、小脇に抱えて立ち上がった。しかし葵が別れの言葉を口にするよりも先にココが口火を切る。
「ミヤジマさん、こちらへいらして」
ココは楽しげに葵を促すと、くるりと踵を返した。首を傾げている葵の背を、半ば強引にシルヴィアという名の少女が押す。サリーやシルヴィアと並んで教室を後にした葵は、ココがすでに廊下を歩き出していたので小さく眉根を寄せた。
「何かあったのですか?」
不審がっている葵をよそに、サリーとシルヴィアは楽しそうな含み笑いを浮かべて見せる。
「ココさんがとても良い物を入手なさいましたの」
「是非、ミヤジマさんにも見ていただきたいわ」
二人の発言は謎を募らせただけであり、葵は訳が分からないままに先を行くココの背を追った。
二階の片隅にある二年A一組の教室を出た葵達が辿り着いたのは、校舎の四階にある一室だった。トリニスタン魔法学園の生徒は授業が終わればすぐに下校するので、彼女達はその流れに逆らったことになる。四階には一般の教室がないのでもともと人気はないのだが、最後に入って来たシルヴィアが過剰なほど慎重に辺りを窺ってから扉を閉ざしたので葵はますます疑念を募らせた。
「あの……このお部屋はどういった……」
葵達がいる部屋には机も椅子もブラックボードもない。ただ床に大きな魔法陣が描かれていて、それが殺風景な眺めを異様なものに変えていた。その独特な雰囲気に不気味さを感じた葵が遠慮がちに問いを口にすると、ココ達はいっせいに首を傾げる。
「ミヤジマさんはご存知ないの? このお部屋に描かれている魔法陣は魔法の発動を佑けるためのものですわ」
知らないことが意外だとでも言うようなシルヴィアの口調に、葵は金輪際余計な口出しをするのはやめようと思った。おそらく魔法陣の効用など、この学園の生徒にとっては一般常識なのだ。
葵はまずいことを口走ったかもしれないと警戒を強めたが、ココ達はすぐに葵から視線を外した。彼女達の興味は別のところにあり、今は葵の反応など眼中にないようである。言及されなかったことにホッとした後、葵もココの動作に注目した。
「アン・デスクリプション」
無属性魔法を発動させる呪文を口にした後、ココは手にしていたペンを手放した。空中に放り出されたペンは自らの意思で動き、何かを描き始める。略図や文字とは違い、それはとても時間のかかる作業だった。何本もの線はやがて形になっていき、徐々に浮かび上がってきた光景に葵は目を見張る。
(写真……?)
光を放つペンが空中に描き出したものは写真と見間違うほど完成された図画であった。単色ではなく幾つもの色を使っているので、デッサンというよりはまさしく写真である。被写体は四人の少年であり、全員が整った顔立ちをしているのでさながらブロマイドのようだった。
「マジスターの方々ですわ」
シルヴィアとサリーが嬌声を上げている横で、ココが自慢げに言った。描かれているのがマジスターだと知った葵はまじまじと絵に目を凝らす。
(これが、マジスター)
女生徒全員を虜にしてしまうのも頷けるほど、マジスターは美形ぞろいだった。芸能人の写真を見ているような感覚を覚えていた葵は、絵の中に知った顔があったのでギョッとする。葵の胸中など知らないココは、未だマジスターを目の当たりにしたことのない葵のために得意げに説明を始めた。
「こちらの、赤い髪をなさっている方がウィル様ですわ」
まず初めに、ココは向かって一番左に描かれている赤い髪をした少年を指した。ウィルは四人の中で一番の女顔であり、体格が華奢なことも手伝って、スカートを履いていたら女の子と間違えられそうな美少年である。彼は顔に似合わず毒舌なところがあり、またお茶目なのがステキだとシルヴィアがうっとりしながら言った。
「こちらの、茶髪のお方がオリヴァー様」
ココは次に、ウィルの右隣にいる長髪の少年を指した。スポーツマンタイプの体格をしているオリヴァーは肩幅が広く、ラフな服装がよく似合う。開襟のシャツから覗く鎖骨がセクシーだと、サリーが興奮気味にわめきたてた。
「そして、こちらのお方がキリル様ですわ」
ココは次に、オリヴァーの右隣にいる黒髪の少年を指した。切れ長の目がクールな印象を与えるキリルはふてぶてしい表情で描かれている。葵はワガママなタイプだと直感したが、ココは熱に浮かされたような声を上げた。どうやら彼が、ココのお気に入りのようである。
「キリル様のお隣にいらっしゃる方がハル様。皆様はとても仲がよろしいのよ」
ココの説明に一応耳だけ傾けながら、葵はハルという名の少年に意識を集中した。右端に描かれているハルは栗色の髪をしている少年で、全体的に短い髪型をしているので整った顔立ちが強調されている。他の三人はじゃれあっているのか笑っているが、ハルだけは無表情のままで、彼のブラウンの瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
(あの人……マジスターだったんだ)
マジスターは全員制服であるローブを着ておらず、彼らの間ではそれが普通のことのようである。そういえばエントランスホールで見かけた時も私服だったなと納得すると同時に、葵は一抹の不安を抱えた。ハルは、葵がネコをかぶっていることを知っている。黙っていてくれそうな雰囲気ではあったが、確約したわけではないのだ。彼がそのことを誰かに話してしまえば、葵は今のままではいられなくなるだろう。もっとも、そのことがバレるとどうなるのか、葵には想像が及ばなかったのだが。
「ミヤジマさんはハル様がタイプですの?」
葵があまりにもハルばかりを見ていたので、ココから指摘が飛んできた。空中に描かれた絵から視線を外した葵は曖昧に頷いて見せる。すると葵を同士だと思ったらしく、ココ達は満面の笑みを浮かべた。
「ハル様はバイオリンがお上手なんですのよ。優美でステキですわね」
「とても繊細なお方なので、おこがましいかもしれませんが守ってさしあげたくなりますわ」
「そのお気持ち、分かります」
頬に手を当ててうっとりしているココ達とは裏腹に葵は複雑な思いで再び絵を見つめた。
(バイオリン、この世界にもあるんだ)
話が通じていたのであれば、あのとき彼が答えなかったのは答えたくなかったからなのだろう。無言であしらわれたことを知ってしまった時、葵の胸は少しだけ痛んだ。
適当に理由をつけてココ達と別れた後、葵は辺鄙な場所にひっそりと佇む時計塔を訪れた。するとちょうどバイオリンの音色が聞こえてきたので、密かに内部へ侵入する。暗い頭上から差し込む一陣の光を見上げた後、葵は魔法で明かりを灯してから螺旋階段を上り始めた。
(……マジスター、かぁ)
芸能人のような美少年でも、葵にとってマジスターは鬼門である。この階段を上りきればハルがいるはずだが、葵は上りきる直前で足を止めた。明かりを消した暗がりで階段に座り込み、頭上から流れてくるバイオリンの音に耳を澄ます。幽玄の調は今日も、儚い美しさを帯びていた。
(せっかく、飾らない人に出会えたと思ったのに)
不測の事態だったとはいえ、ハルは葵が唯一素の自分を晒して喋れる相手だった。隠し事をしているためボロが出ないかと心配する気持ちもあったが、それ以上にハルが飾らないでいてくれたことが嬉しかったのだ。
(もう、話しかけるのはやめよう。でも、ここで聞いてるくらいならいいよね?)
バイオリンは葵がいた世界にも存在する。ここは見慣れぬ物ばかりの異世界だが、バイオリンの奏でる音色は生まれ育った世界と変わらない。葵は感傷的な気持ちになりながら、ハルの演奏が終わるまで耳を澄まし続けていた。
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