カノン

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 まだ太陽が昇ってからそう時間も経っていない冬の朝、葵は校門に片手をついて肩で荒い呼吸をしていた。凍てつく空気が呼気を白くさせていたが厚手のケープに隠されている葵の体は薄っすらと汗ばんでさえいる。彼女がこの状態なのはトリニスタン魔法学園に編入してから毎朝のことであり、すでに校門で小休止が朝の日課となっていた。

 夜、一人では何もすることのない葵は早々に床へつく。そうすると大抵、夜明け頃に目を覚ますのだ。そして授業に遅刻しないように屋敷を出て、丘の上に建つ学園を徒歩で目指す。この丘が小山と言っていいほどの代物であり、葵の体力を激しく奪っていくのだった。

(そろそろ慣れてもいい頃なのに)

 軽い雪山登山のようなことを毎日繰り返していれば体力がついてもおかしくない。だが葵の体はまだ登校に順応していなかった。運動は苦手じゃないはずなのにと、葵は呼吸を整えながら胸中でぼやく。小脇に抱えている分厚い魔法書が今日はまた、一段と重く感じられた。

 最後の深呼吸をした後、葵は気合を入れて顔を上げた。この門から一歩でも中に入れば、そこはさながら戦場である。そうした心積もりも出来たので一歩を踏み出した葵は前方に人影を見つけてギョッとした。

 葵が現在いる場所はトリニスタン魔法学園の裏門にあたる。一般の生徒は正門にある魔法陣を使って登下校しているので、裏門を使う者など皆無なのだ。そのため今まで誰にも出会ったことがなかったのだが、今日は四つの人影が葵の前を歩いている。彼らがつけたと思われる足跡は裏門から校舎に向かって一直線に伸びていた。しかし葵が驚いたのは、そこではない。前を行く四人の後ろ姿が全員私服だったからだ。

(マジスターだ……)

 教師でさえローブに身を包んでいるトリニスタン魔法学園において堂々と私服を着ているのは彼らくらいなものである。こちらに背を向けているので顔は見えないが、遠目に見える四人の髪形からも葵は間違いないと確信した。後ろ姿だけであっても、マジスターが四人揃うとカラフルである。

(何でこんなところ歩いてるんだろう)

 今まで見かけたことがなかっただけに葵は不気味に感じた。しかし考えていても答えは見付からないので早々に思考を切り上げ、彼らの姿が完全に見えなくなってから校舎の方へと歩き出す。葵はその後も周囲に気を配りながら二階にある二年A一組の教室に向かった。

 その日、普段ならばまだ人気のないはずの校内はすでに生徒で溢れかえっていた。おかしいとおかしいと思いながら自分の教室へ辿り着いた葵は、教室のドアを開けたところで立ち尽くす。二年A一組の教室内も例に漏れず生徒で溢れており、その騒ぎようはお祭りムードと言ってもおかしくないほどのものだった。

「ミヤジマさん」

 教室へ入ることも出来ずに動きを止めていた葵を見つけてココが走り寄って来た。彼女の顔を認識した刹那、葵の中でスイッチが切り替わる。お嬢様ぶった葵はココに友好的な作り笑いを向けた。

「おはようございます、ココさん」

「聞きまして?」

 朝の挨拶もそこそこに、ココは興奮した様子で話を切り出した。突然『聞きまして?』と言われても、葵には何が何だか分からない。その様子から葵が何も知らないと察したらしく、ココは早口で捲くし立てた。

「マジスターの皆様がゲームを主催されましたの。校内はその話題で持ちきりですわ」

「ゲーム、ですか?」

 眉をひそめそうになった葵は慌てて無表情を取り繕った。しかし葵の様子など眼中にないようで、ココは話を進める。ココの話によれば、ゲームの勝者にはマジスターから褒賞が与えられるとのことだった。それは何も物に限った話ではなく、彼らが願いを叶えてくれると言うのである。

「ココさんは何か、マジスターにお願いしたいことがあるのですか?」

「ミヤジマさん、貴方って何も解っていらっしゃらないのね。このゲームに勝てばマジスターの方々とお付き合いすることだって可能かもしれませんわ」

 熱のこもったココの言葉を聞いた葵は密かに納得した。それは、この学園に通う女生徒にとっては何よりの褒美となるだろう。

「ミヤジマさんも参加なさるの?」

 顔は笑っているのだが、ココの目つきが急に鋭くなった。ライバルを減らそうとしているのか、彼女からは威圧するような空気が放出されている。とても着いて行けないと思った葵は迷うことなく首を振った。

「そうですか。では、わたくしが勝者となるよう応援してくださいね」

 威圧感を消したココはニッコリと笑ったままそう言った。葵は引きつりそうになる頬を何とか宥め、ココの笑顔に応える。ライバルではないので気を許したのか、ココはゲームの内容についても説明してくれた。

 マジスター主催のゲームは、基本的には全校生徒参加型である。勝者は一人であり、男女の優劣が生じないために魔法のみを使って戦う。それも個人戦ではなく学園全体を使ったサバイバルゲームだと聞かされた葵は参加しなくて良かったと心から思った。

「では、頑張ってくださいませ」

 ココに儀礼的な言葉を投げた後、葵はそそくさと教室を後にした。すでに生徒の大多数がこのゲームのことを知っているようで、廊下ではすでに前哨戦が始まっている。校舎全体からぴりぴりとした空気が漂う中、葵は安全な場所を求めて彷徨った。

(今日は授業もないっていうし、どうしよう。帰ろうかな)

 それとも、アルヴァの元へ避難するべきか。葵がそこまで考えた時、トリニスタン魔法学園の校内には始業を告げる鐘が鳴り響いた。平素は授業開始の合図だが、今日の鐘は戦闘開始の合図である。校舎を揺さぶるように上がった歓声に、葵はそう悟った。

 一階の北辺にある保健室へ向かおうと思っていた葵は、その方角に数人の集団がいることに気がついて足を止めた。葵が目を向けた次の瞬間、生徒達は一斉に魔法を発動させる。校舎内だというのに火柱が上がり、竜巻が発生し、降り積もった雪が窓を割って雪崩れこんできた。直感的に死ぬと思った葵は急いで踵を返し、校舎の外に向かって走り出す。

(あ、有り得ない)

 驚きで思考が停止してしまった葵は同じ言葉を何度も繰り返しながらひたすら足を動かした。何処をどう走ったのかも覚えていないほど夢中だったのだが、気がつけば静寂の中に身を置いている。前方には時計塔がひっそりと佇んでいた。

(あそこなら……)

 この辺りはマジスターの領域であり、一般の生徒は近寄らない。いくらマジスター主催のゲームとはいえ被害がここまで及ぶとは考えにくかったので、葵は塔の内部に身を潜めることにした。塔の周辺は今日も人気がない。静寂を保っていたのは塔の内部も同じであった。

 暗がりで塔の上方を見上げた葵は少し迷った末、バイオリンの音が聞こえないので上の部屋へ行くことにした。指輪の力を借りて小さな明かりを生じさせ、螺旋階段を上る。そうして二階部分へ辿り着いた葵は周囲を窺ってギョッとした。

「またあんた?」

 壁に背を預けて足を投げ出している少年が、葵を見て言う。空洞から差し込む光に照らされた栗色の髪、無気力なブラウンの瞳……そこにいたのは紛れもなくハル=ヒューイットだった。

「ここはゲームの舞台じゃないよ」

 ハルの姿を見つけて硬直していた葵は彼の素っ気ない一言で我に返った。返事を待っているのか、ハルはじっと葵を見上げている。いつもの癖で丁寧な言葉遣いをした葵はこの相手にはそんな必要もないことを思い出し、素の口調で言い直した。

「参加してないから」

「ふうん。何で?」

「あんなゲーム、バカみたい。それに私の願いはマジスターにも叶えられないと思う」

「俺たちなら大抵の願い事は叶えられると思うけど?」

「……それでも、たぶん無理だよ」

 元の世界へ帰りたいという願いがマジスターに叶えられるものならば、葵が今この場所にいることもないだろう。ハルとこんな話をすることもなく、今頃は夏休みを満喫しているはずなのだ。

「金や権力じゃ叶えられない願い、か。俺と同じだな」

 葵から視線を逸らしたハルは皮肉げに口元を歪めながら独白を零す。大抵のことなら叶えられると言っていた者がそのような発言をすることに葵は驚きを隠せなかった。

「ハルにも何か、そういう願い事があるの?」

 葵が問いを口にするとハルは笑みを消し、再び視線を傾けてきた。無表情には違いないのだが彼の端正な顔が少し、歪んでいるような気がする。その表情が何を意味しているのか解らなかった葵は焦りを覚えた。

「名乗った覚え、ないんだけど」

「……この学園の生徒なら誰でも知ってるよ」

 不機嫌の原因はそんなことかと思った葵は顔には出さずにホッとした。しかし呼び捨てにしたのはまずかったと思い、ハルに向かって頭を下げる。

「いきなり呼び捨てにしてごめんね。私、もう行くから」

 本音ではハルともっと話がしたいと思っていたが葵は踵を返した。例え他人の目がなくとも、マジスターは深入りしてはならない相手である。そういう人は遠目から見ているだけでいいと自分に言い聞かせ、葵は暗い階段を下り始めた。






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