カノン

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 窓の外を暖色に染めている日射しが広い室内をゆっくりと暖め始める冬の朝、葵はキングサイズのベッドの中で枕を抱えて寝入っていた。冬の朝には特有の静謐があるのだが、そのことを抜きにしても、葵が貸し与えられているこの屋敷では太陽が上っても動き出す者はいない。そんな耳が痛くなるほどの静寂も届かない世界で、葵は束の間の夢を見ていた。

 目前に、サラサラの黒髪をした同年代の少年が佇んでいる。彼は葵の周囲にいる男子とは比べ物にならないほど垢抜けていて、近寄り難い雰囲気を有する美少年だった。その少年の名は、加藤大輝。中学生の頃から葵がはまり続けている芸能人だ。彼は葵の抱いているイメージを崩すことなく冷然と佇んでいた。

 加藤大輝にはまりたての頃、葵は寝ても覚めても彼のことばかり考えていた。彼が出ている番組や雑誌は全てと言っていいほどチェックしていて、深夜に流れる短いラジオ番組も欠かさず聴くほど好きだったのだ。その当時に比べれば彼を好きな気持ちも落ち着いてきていたが、実物を目の前にすれば興奮を隠し切れない。鼓動が早すぎて苦しくなってしまった胸の前で、葵は手を組んだ。

――せっかく本物に会えたんだから何か話さなくちゃ

 そうして焦れば焦るほど頭は真っ白になっていく。話をしたいのに、顔を見たいのに、距離が近すぎて顔を上げられない。締め付けられている胸が痛い。

 意を決して顔を上げた葵は、ついさっきまで目前にいたはずの加藤大輝が消えていたのであ然とした。今でも一番好きな芸能人に代わって葵の前にいるのは、昨日言葉を交わしたばかりの相手。だが彼も、芸能人であってもおかしくないほどの人物だった。

 陽光に照らされて透けるように輝いている栗色の髪。座り込んで片膝を抱いている彼のブラウンの瞳はどこか遠くへ向けられている。その彼が立ち尽くす葵に目を留めて、ゆっくりと口唇を開いた。

『またあんた?』

 迷惑そうでありながら、実は彼の言葉にはどのような感情も含まれていない。ただ思ったことを口にした、それだけのような感じである。彼は無表情のまま葵が口を開くのを待っていたが、やがて声を上げて笑った。

『あんた、変な奴だな』

 無表情の時は冷たい印象を受けるが、笑顔は極上である。クラクラしてしまった葵は夢の中で頭を抱えた。加藤大輝を目前した時のように、頭に血が上っていく。そこで、葵は目を覚ました。

「……何なの」

 外気は凍りつくほどの冷たさだというのに葵は嫌な汗をかいていた。まだ夢の余韻が残っている胸はもやもやしていて、独白も虚しく静寂に消えていく。上体を起こした葵はヘッドボードに背を預け、ぼんやりと天井を見つめた。

(なんて夢、みてんのよ……)

 加藤大輝が出てきたまでは、いい。問題はその後である。マジスターであるハル=ヒューイットをどうして夢にまで登場させなければならないのか。そう思った時、葵は自分の神経を疑った。

『会わない方がいいと解っているのに通ってしまうなんて、恋してるみたいだね』

 不意に、アルヴァの科白が脳裏をよぎる。葵は慌てて頭を振り、寝起きの朦朧を振り払った。

(恋なんてしてない)

 ハルに対して抱いている感情が複雑なのは、郷愁と憧れがない交ぜになっているからだ。そんな自分の考えが言い訳じみていたので葵は体を丸めながら大きなため息をついた。

「せめて、憧れるくらいは許してよ」

 人それぞれに好みはあるだろうが、ハルのような少年を前にして何の感情も抱かないでいることは難しい。自分の置かれている立場と相反する感情の間で板ばさみになった葵は現実でも頭を抱えてしまった。

「誰かに憧れているのですか」

「っ、ぎゃあ!!」

 誰もいないはずの室内に突如として声が生まれたので、驚いた葵はベッドの上で後ずさった。だが彼女はもともとヘッドボードに背を預けていたため、肘を強打して悶え苦しむ。痺れがある程度ひいて痛みが強くなってきた頃、葵は聞き覚えのある声の主を睨み付けた。

「アル!!」

「おはようございます、ミヤジマ」

 許可もなく乙女の寝室に侵入しておきながら、アルヴァはしゃあしゃあと挨拶を口にした。憤慨した葵はベッドを飛び降り、アルヴァに詰め寄る。

「勝手に入ってこないでよ!」

「ミヤジマ、この屋敷の所有者が誰か知っていますか?」

「は? 所有者?」

 アルヴァにさらりと怒りを流された葵はぽかんと口を開ける。アルヴァは葵の様子に構うことなく淡々と説明を始めた。

「知らないようなので教えてさしあげましょう。この屋敷は僕の姉であるレイチェル=アロースミスがユアン=S=フロックハート様から与えられたものです。そして僕は、姉からこの屋敷を使用することを許されています。僕と貴方がどういう関係になるのか、お解かりになりますね?」

 アルヴァが何を言いたいのか察した葵はグッと文句を呑み込んだ。葵が押し黙ったのを見てアルヴァはにこやかに微笑む。

「昨日はどうしていたのですか? 僕の所へも来なかったので心配していたのですよ」

 アルヴァの『心配』が口先だけであることを知っている葵は唇を尖らせながら答えた。

「どうもこうも、何なのよアレは」

「マジスターは金と権力と魔力を持て余しているので、ああして思いつきの行動を起こすのですよ。ああいったゲームは怪我人が増えるので僕としては迷惑なのですが」

 昨日は保健室が大繁盛だったのだと、アルヴァは無表情のまま語った。店じゃないんだからと胸中で呟いた葵は呆れ顔をアルヴァに向ける。

「そういえば、優勝者にはマジスターが願いを叶えてくれるんでしょ? 誰が勝ったの?」

「ああ、昨日のゲームでは決着などつきませんでしたよ。いたずらに怪我人を増やしただけでしたね」

 サバイバルゲームを行うのであればもっと綿密なルールと勝者を定める規定が必要なのだとアルヴァは言う。葵にはよく解らなかったが、あのゲームがいかに馬鹿げていたのかは察することが出来た。

「マジスターにとっては勝者などどうでもいいのですよ。彼らはただ、普段と違う何かを欲しているだけなのです」

「……サイテー」

「そうでしょう? だからマジスターとは関わり合いにならない方がいいのです」

 結局はそういう話になるのかと、アルヴァの言葉を聞いた葵はうんざりした。しかし葵が口をつぐんでも、アルヴァの話は続く。

「それで、ミヤジマはあの無法地帯のような校舎にいたのですか?」

「いるわけないじゃん。さっさと逃げ出したよ」

「賢明な判断ですね。では、何処にいたのですか?」

「時計塔。あそこならフツウの生徒は来ないと思って」

 何気なく答えてしまってから、葵はハッとした。アルヴァが葵から聞き出したかったのもまさにそこだったらしく、彼は眉根を寄せている。また小言を言われると思った葵は身構えたが、アルヴァは予想外のことを口にした。

「トケイトウとはどういう意味ですか?」

「なんだ、そっちね」

「そっち、とは?」

 アルヴァに突っ込まれた葵は追及を避けるために『時計』というものについて説明をした。アルヴァは単に『時計塔』が何を意味するのか解らなかったらしく納得したように頷いた後、葵に冷ややかな目を向ける。

「つまり、また彼に会いに行ったということですか」

「違うよ。そんなつもりじゃ……」

「では、ハル=ヒューイットには会わなかったのですね?」

「……会った」

 嘘をつくわけにもいかなかったので正直に答えるとアルヴァはわざとらしくため息をついた。偶然とはいえハルに会ったという既成事実があるため、葵は何も言えずに黙り込む。アルヴァはもう一度大きなため息をついた後、葵に真剣そのものの表情を向けた。

「ミヤジマ、僕が言っていることの意味は理解しているのですよね?」

「……うん」

「それなら、もう塔へは行かないで下さい」

 アルヴァの口調は厳しいわけでもなく、どちらかと言えば諭すような響きを伴っていた。彼がギリギリのところまで譲歩してくれていることを察した葵は頷こうとしたのだが、どういうわけか体が言うことを利かない。そんな葵を見限ったのか、アルヴァはそれ以上何を言うでもなく立ち去ってしまった。

(だって、どうしようもないんだもん)

 その思いがどんな感情からきているものなのか自身にも解らないまま、取り残された葵は成す術なく俯いた。






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