カノン

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 大粒の雪が降り続いていた秘色ひそくの月にしては珍しく、その日は小雪がちらついていた。湿気を含んだ重たい雪とは違い、粉雪は踊るように降ってくる。フードを目深に被ってトリニスタン魔法学園の敷地内を歩いていた葵は足を止め、灰色の空を見上げた。彼女の視線の先にはひっそりとした佇まいの塔があり、時計が嵌まりそうな空洞からは弦楽器の音色が流れ出している。葵は塔の足下に立ち止まったまま、ぼんやりとアルヴァに言われたことを思い返していた。

(もう、会わないよ。ここで聴いてるだけだから)

 雪空にあふれ出す音色は美しく、心を縛って放さない。この音色に酔いしれた後は決まって切なくなるが、それでも葵は郷愁を掻き立てる旋律を聴いていたかった。しかし密かな聴衆がいることなど知らない奏者は気まぐれである。曲の途中と思われる箇所でぷつりと、バイオリンの音色は途絶えてしまった。

(もう、やめちゃったのかな)

 しばらく待ってみてもバイオリンの音が聞こえてくることはなかった。塔の外にいる葵には内部にまだ人がいるのかどうか知る術もない。小さく息を吐き、葵は踵を返す。その直後、再びバイオリンの音色が聞こえてきた。

(この曲……)

 今流れているのは、先程とは違う曲である。新たな曲のメロディーに覚えがあった葵は愕然とした。居ても立ってもいられなくなってしまった葵は雪の中を走り出し、塔へ向かう。葵が派手な音を立てて螺旋階段を上るうちに、上階から聞こえてきていたバイオリンは止んでしまっていた。しかしそれでも、葵はひたすら上を目指す。

(お願い、まだいて!)

 息を急き切らしながら葵は塔の上階へ辿り着いた。塔の上階は円形の空洞が窓のようになっていて、そこから取り込まれた明かりが室内を照らし出している。雪の降りしきる日の色彩に包まれた葵は、そこに見知った少年の姿を見つけた。バイオリンを手にしながらこちらを見ているのは、ハル=ヒューイットである。

「い、今……」

 ハルに会うなり話を切り出そうとしたものの、葵の息は切れていて思いは言葉にならなかった。ハルは肩にかけていたバイオリンを下ろし、訝しげな表情で葵を見ている。

「何?」

「今の曲、もう一度聞かせて!」

 そこでようやく会話が成立したものの、ハルの反応は冷たいものだった。

「何で?」

「えっ、何でって……」

「あんたに聞かせるために弾いてたわけじゃない」

 素っ気なく切り捨てられてしまった時、それまで期待に踊っていた胸が一気に重苦しくなった。不機嫌そうなハルの顔をみていることが出来ず、葵は目を伏せる。そうしてしまってから、もう笑って誤魔化すことも出来なくなったことを察した。

(そう、だよね)

 葵は幾度となくハルのバイオリンを耳にしているが、それは全て盗み聞きだったのである。加えて彼らの間柄はせいぜい知己であり、友人ですらない。そのような人物が唐突に望みを伝えるなど、ハルにしてみれば迷惑だろう。

「……ごめん、何でもない」

 自身の行動を反省した葵はすごすごと引き下がろうとしたのだが、さすがに意味不明な行動が三度目ともなればハルも疑問を口にした。

「何でそんなに興奮してたの?」

 先程までのつっけんどんな態度は何処へやら、ハルの口調は至って平静だった。恐る恐る目を上げた葵はハルが無表情に戻っているのを見て安堵しながら言葉を紡ぐ。

「さっき貴方が弾いてた曲が知ってる曲に似てたの。それで、ちょっと興奮しちゃって……」

 異なる二つの世界で同じ楽器が存在するだけでなく、同じ曲まで存在しているとくれば奇妙な合致である。葵にとってハルが弾いていた曲を確かめることは大きな意味を持っていたが、そんなこととは知らないハルは訝しそうに眉根を寄せた。

「珍しい曲じゃないし、聴いたことがあっても不思議じゃない」

「そうじゃ、なくて……」

 説明をして心情を解ってもらおうにも、葵の抱える秘密が邪魔をする。葵は言葉を切って口をつぐんだものの、よっぽど本当のことを喋ってしまおうかと思っていた。そんな葵の姿を見て何を感じたのかは分からないが、ハルはバイオリンを構えなおす。

「あんたが言ってる曲って、これのこと?」

 ハルが触りだけ弾いたメロディーに過剰な反応を示した葵は何度も頷いた。ハルは葵を一瞥した後、すぐに視線を逸らす。そのままバイオリンに意識を集中し、彼は本格的に演奏を始めた。二人きりの静かな空間に反響する澄んだ音色。バイオリンを奏でているハルの姿が現実離れしていたので葵はしばらく見入っていたが、やがて別の感情が溢れ出してきた。

(この曲……やっぱり、カノンだ)

 パッヘルベルの、カノン。それは葵にとって友人との思い出であり、恋焦がれてやまない加藤大輝との出会いの思い出でもあった。

 中学二年生の時、葵はクラスメートだった弥也と映画を見に行った。その作中で使われていたのがパッヘルベルのカノンであり、加藤大輝はその映画でヒロインの相手役を演じていたのである。その時の思い出を皮切りに、葵の脳裏には中学時代の記憶が次々と蘇った。

(違う世界のはずなのに、同じ音楽があるなんて不思議)

 もしかするとパッヘルベルもこの魔法が存在する世界に来たことがあって、ハルが弾いている曲に感銘を受けてカノンが生まれたのかもしれない。もしくはこの世界の住人が葵のいた世界へやって来て、パッヘルベルのカノンを聴いてこの世界に広めたのかもしれない。そんな想像をしてしまうほど二つの楽曲はよく似ており、葵に淡い期待を抱かせた。何の接点もないように思われる二つの世界も、案外どこかで繋がっているのかもしれない。そう考えれば、元の世界へ戻れるかもしれないという希望が湧いてくるというものだ。

 始まりと同じく静かに、ハルの演奏は終わった。心が満たされた葵は自然と、弓を下ろしたハルに笑みを向ける。

「ありがとう」

 カノンを、聞かせてくれて。彼の演奏に出会えただけでも、葵は今ここにいることが出来て良かったと思えた。

「バイオリン弾いてありがとうなんて言われたの、初めてだ」

 葵が心から感謝をしていることが伝わったのか、ハルは少し照れくさそうに言う。灰色の光だけでは表情の細微な変化までは見えないが、葵にはその言葉だけで十分だった。意識し始めると直視していることが難しくなり、葵は思わずハルから目を逸らす。早くなった鼓動はなかなか正常に戻ってはくれなかった。

「あんた、やっぱり変な奴だな」

 ハルが柔らかな微笑みを浮かべながら口にした一言に、駄目押しをされた気分になった葵は薄闇の中で密かに頬を朱に染めた。






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