そして闘いの幕が開く

BACK NEXT 目次へ



 腫れた頬にガーゼを貼り付けるだけの手当てを終えた後、保健室を出た葵は魔法書がないことに気がついてエントランスホールに向かった。ホールから外へ出ると幸いなことに雪はやんでおり、この分では魔法書が埋もれてしまっていることもないだろう。果たして、裏門に辿り着くと雪の上に魔法書が転がっていた。魔法書を拾い上げて雪を払った葵はそのまま、表紙に描かれている五芒星ペンタグラムを見つめる。その文様を目にしていると、この魔法書を執筆したというレイチェルと、この魔法書を使っていたというユアンの顔がそれぞれに脳裏をよぎっていった。

 魔法は、この世界に生を受けた者に受け継がれる血の力と大自然のエネルギーが結びつくことによって発動する。両者を結ぶものが文字であり、魔法陣であり、呪文スペルなのだ。魔法書は用途に応じた魔法陣や呪文が書き記された書物であり、トリニスタン魔法学園に通う生徒は常に自身の魔法書を小脇に抱えて行動する。それは高位魔法を使うためには魔法書が必要不可欠だからなのだが、この世界の者ではない葵にとっては無縁の話だった。

(必要な呪文は覚えちゃったし、ただ重いだけなんだよね)

 自身の魔力を消費して魔法を使うのではない葵の場合は指輪に蓄えておける容量の問題があるので、魔法を使う場合も魔力の消費が少ない無属性魔法に限られる。そのため重たい思いをしてまで魔法書を持ち歩く必要はないのだが、形だけでもそれらしくしておけとアルヴァに言い含められているので従っているのだった。

 裏門に佇んでいる葵の耳に、校舎の方で鳴り響いている鐘の音が届いた。一度だけ鳴らされる鐘は昼休憩の合図である。今ならば教室にも入りやすいと思った葵は魔法書を小脇に抱えなおし、急いで校舎へと向かった。

 エントランスホールに足を踏み入れた途端、葵は異様な空気を感じ取った。校舎のあちこちで談笑している生徒の目が、こちらに向けられているような気がしたのである。しかし周囲を見回しても、誰とも目が合うことはなかった。気のせいかと思った葵は階段を上り、二階にある二年A一組の教室を目指した。

 この学園の生徒は大半の者が何でも揃う食堂で昼食をとるが、まだ休憩が始まって間もない時間帯だったため教室内には生徒達がいた。しかし談笑の声は、葵が姿を見せた途端にピタリとやむ。教室中の視線を一手に引き受けた葵は嫌な予感が現実になったことを覚った。

「ミヤジマさん」

 教室のドアを開けたところで立ち尽くしていた葵に声をかけてきたのは、ココだった。彼女の表情にはにこやかさなど一切なく、それはココの両脇に控えているシルヴィアとサリーも同じである。

「少し、よろしいかしら」

 ココはそう言って、葵が返事をしないうちから歩き出した。彼女達はまるで、葵がついてくるのが当然と言わんばかりに、振り返りもせずに廊下を歩いて行く。葵は彼女達に従いながらも躊躇していたが、話に応じなければそれはそれで恐ろしいことになると感じたので無言で歩を進めた。

 教室を出た後、ココ達は階段を上って四階へと向かった。そうして辿り着いたのは、いつかも訪れたことのある魔法陣が描かれた一室。以前に訪れた時はマジスターの話で盛り上がったものだが、今日はマジスターのせいで険悪なムードが漂っている。何を言われるのかなど察しがついていたので、葵は小さく息を吐いて話が切り出されるのを待った。

「その頬はどうなさったのです?」

 ココはまず、葵の怪我の話題から話に入った。もう隠す必要もなさそうだったので、葵は男に殴られたのだと正直に打ち明けてみる。しかし自分から話を振ったにもかかわらず、ココは慰めや励ましなどは一切口にしなかった。例え心配などしていなくても大丈夫かと問うのが常であり、その点からも彼女達との関係が破綻寸前であることが窺える。

「ミヤジマさんは確か、ハル様がお好きなのでしたわね」

 ココが本題を切り出した刹那、葵は『きた』と思った。彼女はどのような感情を抱いているのか読み取らせない無表情で、淡々と言葉を次ぐ。

「マジスターの方々は特定の生徒と親しくされるようなことはありません。ハル様のあのようなお姿を見たのも初めてでしたわ。あの方の気まぐれには違いないでしょうが、良かったですわね」

 憧れのハル様に抱かれてと、ココは言う。シルヴィアとサリーも冷ややかに葵を見据えたまま言葉を紡いだ。

「ハル様に憧れている女生徒は大勢います。ハル様の一時の気まぐれであったのだとしても、皆様の前でああいったことは良くありませんわ」

「まるで見せ付けているようでしたものね」

 胸中で違うと反発したものの、葵はそれを口には出さなかった。ココ達の態度は冷め切っていて、葵が何を言い出そうが聞く耳持たないだろう。そしてそれは、おそらく全校女生徒が同じなのだ。

「ミヤジマさん、不用意な行動が反感を買ってしまいましたわね。ミヤジマさんはお友達ですので助けてあげたいのですが、わたくし達も学園のルールには逆らえません」

 だからせめて『気をつけろ』と忠告したかったのだと言い残し、ココは踵を返した。シルヴィアとサリーも無言でココに従う。平静を装っていた葵は彼女達の姿が見えなくなると途端に顔を歪めた。

「なにが『オトモダチ』よ。初めから上辺だけの付き合いだったくせに」

 そう毒づいたものの一時は、彼女達に親近感を抱いたこともある。ココ達と出かけたりしたことが少しも楽しくなかったとも、言えない。だが薄氷の上を歩くような関係であったことには違いなく、葵は憤ることで胸の痛みを無視しようとした。

(お嬢様ごっこもこれで終わりだね。ああ、スッキリした)

 もう取り繕った笑みを浮かべる必要もないので葵は不機嫌な顔のまま廊下へ出た。四階には人気がなかったが、階段を下ると休憩中の生徒達のざわめきが耳につく。しかしそれは、葵が現れるや否やピタリと止まった。

「ブース」

 人間が大勢いるにもかかわらず静寂の中を歩いていた葵は明らかな侮辱を耳にして足を止めた。彼女の背後では嫌な嘲笑が聞こえていたが、それも葵が振り向いた途端に聞こえなくなる。廊下には生徒が溢れているので誰が口にした言葉だったのか知りようがなく、葵は悔しい思いをしながら歩き出した。すると再び、わざと聞かせるように言っていると思われる陰口と嘲笑が飛んできた。

「今の顔、ご覧になりまして?」

「不細工でしたわねぇ。身の程知らずもいいところですわ」

「あのような凡人がマジスターの方々とつりあうはずがございませんのに」

「きっと憧れが過ぎて妄想に取り憑かれてしまったのですわ。可哀想に」

 言いたい放題の罵りは、どれも程度が低い。しかし不快に感じることには変わりがなく、葵は足早にその場を後にした。








 全校女子を敵に回してから三日もすると、葵は無視と陰口にげんなりしていた。教室にも廊下にも居場所がないので、最近ではしょっちゅう保健室を訪れている。そして今も、葵は簡易なベッドに倒れ伏していた。

「あー、いやんなる。お嬢様が聞いて呆れるよ」

 言葉遣いが少し丁寧なだけで、女生徒達の陰口は普通のイジメと変わらない。またその丁寧な言葉遣いが小馬鹿にされている感を助長させるのだ。葵がベッドに突っ伏したまま誰に聞かせるでもなく、ぐちぐちと文句を連ねていると、この部屋の主もうんざりした調子で口を挟んできた。

「ミヤジマ、独り言なら人のいない所で言ってくれ」

「だって、どこ行っても人がいるんだもん。ここが一番人いないよ」

 呼び声に反応して体を起こした葵はそのままベッドに腰掛けた。この部屋の主であるアルヴァは椅子の背を抱き、前のめりによりかかりながらため息を吐く。

「いっそハル=ヒューイットの所へ行けばいいじゃないか。塔の辺りなら一般の生徒は近寄らないだろう?」

 今まで散々マジスターには近寄るなと言っていたアルヴァが、今度はマジスターに会いに行けと言う。その変化を不審に思った葵は眉をひそめながら尋ねた。

「何で急にそんなこと言い出すの?」

「だって、もう手遅れだろう? こうなってしまったんだったらマジスターと仲良くなればいい。そうすればマジスターが庇ってくれるんじゃない?」

 いつものことながら、アルヴァの口調は投げやりである。彼にとっては葵がどうなろうと、しょせん他人事なのだ。

「いっそ玉の輿でも狙ってみれば? マジスターを落とせれば一生遊んで暮らせるよ」

「あのね……」

 適当なことを言ってのけるアルヴァは、もはや葵が異世界の人間であることすら失念していそうである。アルヴァの玉の輿発言に初めこそ呆れていたものの、徐々に不安を募らせた葵はふと真顔に戻った。

「ねえ、まだレイから何の連絡もないの?」

「ないね。あったら教えてるよ」

 ということは、まだしばらくは陰険なイジメに耐えなければならない。失望を感じると同時にそう思った葵はさらにうんざりした。

「あー、もうやだ。学校来なくてもいい?」

 ダメと言われることが分かっていても、訊かずにはいられない。葵としてはその程度の発言のつもりだったのだが、アルヴァはアッサリと、いいよと答えた。

「じゃあ、引越しの準備でもするか」

「引越しって……どこに?」

「ミヤジマが使ってる屋敷だよ。これからはマンツーマンで一般教養や魔法学を叩き込んであげよう」

「げっ、やだ」

「それと、あの家ハーレムにするから。いい?」

「……学校来ます」

 どこまでが本気か分からないアルヴァに不安を募らせた葵はすぐさま自分の発言を撤回した。気怠そうに立ち上がっていたアルヴァは葵の反応を見越していたかのように頷き、椅子に戻って再び腰を落ち着ける。やられたと思いつつも前言を撤回をする勇気のなかった葵は渋々ながら口をつぐんだ。

「そういえば……」

 話が一段落したところで、葵は疑問を思い出して独白を零した。ハルに抱えられて校舎に入った時、葵は顔を隠していたにもかかわらず、保健室を出た頃には噂になっていたのだ。そのことを不可解に思った葵が疑問をぶつけると、アルヴァは何でもないことのように答えを口にした。

「それはね、魔力の見えないミヤジマには難しいけど、魔力が見える者にとっては個人の識別なんて簡単なことだからだよ」

 通常時、魔力は薄いベールのように持ち主の周囲を漂っている。魔力には人それぞれ色や形、大きさなどの違いがあり、それによって個人の識別が可能になるのだ。魔法を発動させている時はこの現象が顕著になるが、通常時に漂っている魔力を見る能力には個人差がある。しかしこの学園の生徒であれば、大抵の者は個人の識別が可能なのだった。

「へえ、だからバレちゃったんだ」

「しかし、魔力が識別されると厄介だね。それは僕が何とかしよう」

 準備をしておくとだけ告げ、アルヴァは話を打ち切る。葵には何が何だか分からなかったが、どうせ聞いても解らないだろうと思い、説明を求めることはしなかった。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2009 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system