その日も一日、陰湿なイジメと孤独に耐えた葵は一人で裏門へと続く道を歩いていた。雪は降っていないが
(あーあ、いつになったら帰れるんだろう)
珍しく晴れ渡っている空には薄っすらと、異世界の象徴である二月が浮かんでいる。夜になると緑がかった青い光を放つ月は異彩で、葵に強い孤独感を与えるのだ。それはこの世界が生まれ育った場所でない以上は仕方のないことだったが、明るいうちから沈みたくないと考えた葵はもう一度ため息をついてから視線を外すことにした。
裏門付近で足を止めていた葵が再び歩き出そうとすると、背後から話し声が近付いて来た。マジスターの通行路であるこの場所には人気がないことが当たり前なので、葵は不可解に思いながら背後を振り向いてみる。そうして目にしてしまった光景に、葵は息を呑んだ。校舎の方から歩み寄って来る二つの人影は一方が燃えるような真っ赤な髪をしている少年で、もう一方の少年は長い茶髪を無造作に束ねているといった容姿をしていたからだ。
(うわっ、まずい!)
マジスターの接近に焦った葵は走り出そうとして転んでしまった。すぐに起き上がったものの校門まではまだ距離があり、近くには身を隠せるような物もない。葵とマジスターの間には障害物が何もない状態であり、やがて葵に気が付いた少年達が声を上げた。
「あれ? あんたは……」
お互いの顔が判別できる程度の距離を保ったまま足を止めた茶髪の少年が、葵を見て眉をひそめる。まずいと思った葵はフードを目深に被ったが、すでに後の祭りだった。
「誰?」
「そっか、ウィルはいなかったんだっけか。ここでキルがこの子の足を踏んづけて、派手にコケたんだよ」
「へえ、キルが。それは見たかったなぁ」
赤髪の少年の問いに茶髪の少年が答え、彼らは内輪で盛り上がって笑っている。葵は自分から関心が逸れているうちに逃げようとしたのだが、それを見咎めた茶髪の少年が声を上げた。
「あ、待てよ」
待っていられるかと胸中で反論した葵は振り向かずに走り出した。しかし凍っている雪の上は足場が悪く、再び転んでしまう。うつ伏せに倒れた葵の傍に茶髪の少年が寄り、片腕で彼女を助け起こした。
「大丈夫か?」
顔面から倒れてしまった葵は顔を押さえながら頷いた。転んだ拍子に葵が手放してしまった魔法書は、赤髪の少年が拾い上げる。
「円陣で囲まれた
「何だ? その図形、有名なのか?」
赤髪の少年の独白に興味を惹かれたのか、茶髪の少年も葵の魔法書を覗き込んでいる。理由は分からなかったがまずい事態になりそうだと直感した葵は半ば強引に魔法書を取り返した。それから改めて、少年達に頭を下げる。
「助けてくれてありがとう。じゃあ」
「あ、だから待てって」
背を向けた葵の腕を茶髪の少年が掴み、再び制止させる。マジスターと一緒にいる所を誰にも見られたくなかった葵は予想外のしつこさに苛立った。
「何? 用があるなら早くして」
ついぶっきらぼうに言ってしまった直後、葵はハッとした。少年達は驚いたように瞠目し、葵を見据えたまま呆然と立ち尽くしている。おそらくマジスターである彼らにとって、こんな無礼な態度をとられたのは初めてのことだったのだろう。葵は怒られるかもしれないと身構えたが、茶髪の少年が愉快そうに笑い声を上げた。
「ウィル、この子をシエル・ガーデンに招待していいか?」
「別にいいんじゃない? キルが何て言うか知らないけど」
「もともとはキルが迷惑かけたんだ、お茶の一杯くらいいいだろ」
二人の間で話が進んでいる間、状況の見えない葵は眉根を寄せていた。彼らの話はすぐに済んだようで、茶髪の少年が葵を振り返る。
「じゃ、行くぞ」
葵に一声かけた後、茶髪の少年は唐突に『
(……えっ? 何?)
声をかけられたところをみると『着いて来い』ということなのだろうが、葵には彼らが何処へ行ったのかすら分からない。そもそもマジスターと仲良くなる気もなかったので、バカらしいと思った葵は踵を返した。しかしその直後、再び茶髪の少年の声がする。
「悪い悪い。いつも仲間内でしか行動しないから忘れてた」
茶髪の少年はそう言った後、同意も得ずに葵の腕を引いた。後ろ向きに引っ張られた葵は倒れそうになったが、体格のいい少年の胸に支えられる。手荒な真似に対する反応を示している暇もなく、葵が瞬きをした次の瞬間、目に映る光景は一変していた。
「わぁ……」
現実離れした美しい光景に、葵は思わず感嘆の声を発した。その庭園では春のように咲き誇っている色とりどりの花が香っていて、建物の全面に張られたガラスは珍しい冬の青空を映している。その眺めはまさに『大空の庭』と呼ぶに相応しいものだった。
(ここ……たぶん、あのドームの中だよね)
トリニスタン魔法学園の敷地内には全面ガラス張りのドームのような建造物がある。外側からドームを眺めたことのある葵は内側から改めて周囲を見回してみて、半ば確信的にそう思った。何故なら葵が思い浮かべているドームはマジスターの領域にあるもので、彼女の横に並び立っている者もマジスターと呼ばれる少年だからである。
花と水路に囲まれたシエル・ガーデンの中心部には開けた場所があって、そこには白いテーブルと椅子が置かれていた。おそらくは花を愛でるために設けられたであろうその場所に、先客の姿が窺える。
「お茶が入ってるよ」
茶髪の少年に促されてテーブルに寄った葵を見上げてきたのは、ティーカップを手にした赤髪の少年だった。その隣に座っている人物に目を留めた葵は、思わず息を呑む。
「おう。サンキュー」
赤髪の少年に応えた茶髪の少年は無抵抗の葵を誘導して椅子に座らせた。葵の目は対面する形で座っている栗色の髪をした少年に釘付けになっていたが、視線を注がれている方の少年は特に関心を示すこともなくそこにいる。ぼんやりとどこかを見つめている栗色の髪をした少年から視線を外すと、葵はようやく自分を取り巻く環境の異様さに気がついた。何故、マジスターとお茶をするような羽目になったのか。しかし葵の困惑など知らない少年達は陽気に自己紹介を始めた。
「俺はオリヴァー=バベッジ。オリヴァーでいいぜ」
まずは茶髪の少年が口火を切る。次に、赤い髪をした少年が口を開いた。
「僕はウィル=ヴィンス。ウィルでいいよ」
学園の有名人であるマジスターに自己紹介をされても、葵には胸中で『知ってる』と呟くことしか出来なかった。シエル・ガーデンにはもう一人、マジスターのメンバーがいるのだが、彼は沈黙を保ったままである。栗毛の少年を一瞥した後、赤髪の少年が彼に代わって再び口を開いた。
「彼はハル=ヒューイット。あと、今はいないけどキリル=エクランドの四人がいつものメンバー」
ウィルに相槌を打った後、葵は口を開く気配もないハルを気にした。彼に会うのは、保健室に運んでもらった時以来である。葵はあれから、一度も塔へは足を運んでいなかった。会わないようにしようと思う時にこそ会ってしまう巡り合わせの悪さに葵は小さく息を吐く。
「あんたの名前は?」
ハルに気をとられていた葵はオリヴァーの一言で我に返った。葵が慌てて名乗ると三人が三人とも眉根を寄せる。葵はそうした反応をされることにもう慣れていたので気にしなかったが、ウィルが深刻そうな表情のまま問いを口にした。
「珍しい名前だね。アオイってファミリーネームは聞いたことがないけど、ミヤジマは何処の出身?」
ウィルの質問には答えられなかったので、葵はさりげなく話を逸らしてみた。
「葵っていうのがファーストネームなんだ」
「へえ。じゃあ、ミヤジマって方がファミリーネームか。ますます珍しいな」
話題を逸らすことに失敗したらしく、オリヴァーまでもが興味深げなまなざしを向けてくる。返答に窮した葵は助けを求めてハルを仰いだが、彼は葵に目を向けることもなく無言でティーカップに手を伸ばした。助けが期待出来ない以上は自分で何とかするしかない。そう思った葵は苦肉の策として、何も答えずただ笑っていた。
「気になるじゃん。教えてくれよ」
オリヴァーはアルヴァと同じく不可解なものは究明しないと気が済まない性格のようだ。葵がいよいよ追いつめられていると、助け舟を出してくれたのはハルではなくウィルだった。
「オリヴァー、無理に語らせるのは良くないよ」
「ウィルは気にならないのか?」
オリヴァーは尚も食い下がったが、ウィルがなんとか宥めてくれた。彼らはこの時アイコンタクトで無言の意思疎通を図っていたのだが、そんなこととは知らない葵は助けてくれたウィルの優しさにただただ感動していたのだった。
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