「ところで、キリルってどんな人なの?」
黙っていれば質問をされ、質問をされると危険だと察した葵は自分から話題を振った。彼女はただ、この場にいない者の方が話題にしやすいと思っただけなのだが、オリヴァーとウィルが無言で目を瞬かせる。彼らが呆気に取られているようだったので、葵はまた失敗したことを早々に悟った。
「アオイって変わってるな。自分を殴った奴のこと知りたがるなんて」
テーブルに頬杖をついたオリヴァーが呆れ顔で言う。理由も告げず一方的に殴られたことを思い出した葵は腹立たしさを思い返し、憤慨した。
「そうよ、そうだった! あったまくる!」
ネコをかぶっていた時には露わに出来なかった怒りを、葵はここぞとばかりに発散させた。マジスターの面々は拳を握って立ち上がった葵をぽかんと見上げていたが、やがてどこからともなく笑いが零れる。一番初めに笑い出したのはハルであり、葵は彼が声を上げて笑っている姿にぽかんとした。
「あんた、ほんとに変な奴だな」
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ハルが言う。その一言をハルに言われると複雑な気分になると思った葵は顔を赤らめながらストンと腰を下ろした。葵とハルが初対面ではないことを知らないウィルとオリヴァーは不可解そうに二人を見ている。
「ハル、もしかしてアオイと知り合いだった?」
「前に言わなかった? 変な女がいるって」
ウィルに答えたハルの言葉でピンときたのか、オリヴァーが不意に手を打った。
「ああ、言ってた言ってた。あれってアオイのことだったのか」
オリヴァーとウィルはスッキリした表情で頷いていたが、知らないところで話題にされていた葵は何とも言い難い気持ちになった。しかし想像よりもマジスター達が気安かったので、まあいいかと思う。同級生と話をしているような気分になれたのは、この学園へ来て初めてのことだった。
「キルはね、気性の激しい子供なんだ。悪い奴じゃないんだけど好き嫌いが激しくてね」
ひとしきり談笑した後、ウィルが話を戻した。彼らは幼少の頃からの付き合いらしく、オリヴァーが付け加える。
「あいつはなぁ、自分が認めてる奴以外見えてないんだよな。俺達を除けば、キルが名前と顔を覚えたのってステラくらいじゃないか?」
オリヴァーの話からも、キリル=エクランドという人物が選り好みをする者だということが伝わってくる。葵が手加減なしで殴られたのも、要するにアウト・オブ・眼中だったからというわけだ。
(いくら眼中にないからって、気に食わないから殴るっていうのはどうなのよ)
実際に痛い思いをしている葵はキリルという人物に対して元々良いイメージを持ってはいなかったのだが、話を聞くほどに悪い心象が増していく。さらに、ウィルが追い討ちをかけるようなことを言い出した。
「今ここにキルが来ても、きっとアオイのこと覚えてないと思うよ。キルに殴られた奴なんて星の数ほどいるからね」
「……サイっテー」
葵が思ったことをそのまま口にすると再び笑いが起きた。そこを笑い飛ばす三人の態度もどうかと思ったが、思い返すだけでも腹が立ってくるので、葵はさっさと話題を変える。
「ステラって、女の子?」
先程オリヴァーが口にした名前を葵が拾うとウィルが頷いてみせた。
「今はいないけど、彼女もマジスターの一員なんだよ」
「そういえば、そろそろ
オリヴァーがふと思い出したかのように言い、それを受けてウィルはハルを振り向いた。
「ハル、何か聞いてる?」
「何も。いつ帰って来てもいいように練習はしてるけど」
「ああ、それでバイオリンを弾いてたんだ? ハルのバイオリンを聴くのも久々だったから嬉しかったよ」
ハルとウィルの会話が何を意味するのか、葵にはよく呑み込めなかった。しかし何か、もやもやしたものが胸に広がっていく。誰もこちらを見ていなかったので葵は密かに眉根を寄せた。
(何だろう、この気持ち)
つと考え出してみたものの、オリヴァーの陽気な一言が葵の思考を遮った。
「俺も聞きたい。ハル、一曲弾いてくれよ」
「別に、いいけど」
オリヴァーの求めにあっさりと応じたハルはカップを置いて席を立つ。一度拒否された経験があるだけに葵は少し切ない気分になったが、ハルのバイオリンを聴ける嬉しさの方が勝った。
立ち上がったハルは何もない空間に向かって腕を伸ばした。するとある一点に差し掛かったところからハルの指先が消えて行く。彼の手が何もない場所で忽然と消えてしまったので葵は目を見張った。
「何? どうなってんの?」
「ああ、ハルの手は今五次元空間にあるんだよ。四次元だとちょっと不安が残るからね」
ウィルが説明を加えてくれたものの、葵にはさっぱり解らなかった。だが問い返すのも墓穴を掘りそうだったので葵は悶々としたまま黙り込む。
「今の説明で解ったの?」
ウィルは、葵が聞き返してこないことに驚いているようだった。まるで試されているように感じた葵は眉間の皺を深くする。
「ぜんぜん?」
「……何だ。だったら素直に訊いてくれればいいのに」
何かに失望した様子でため息をついた後、ウィルは改めて次元についての説明を始めた。一次元空間は点と線の世界であり、二次元空間は点と線を組み合わせた平面の世界である。平面を組み合わせた立体が三次元空間であり、これが葵達の存在している世界である。四次元空間は三次元空間に時間を加えたもので、五次元空間に至っては存在が認識されているだけでどのような世界なのかイメージすることは難しい。だが利用できるのだから確かに存在するのだと、ウィルは語った。
「え、っと……」
ウィルの言っていることを半分も理解出来ていない葵は曖昧な返事をして視線を泳がせた。葵の隣でオリヴァーも、何故か頭を抱えている。二人の様子を見たウィルは説明を続けることはせず、ハルが何をしているのかだけを簡単に教えた。
「要するに、ハルの手の先は別次元にあるってこと。僕たちはそこに魔法書やなんかを置いていて、必要な時にああやって取り出すんだ」
そういう風に説明されれば解りやすく、葵とオリヴァーは同時に手を打った。
「なるほど。便利なんだね」
「そんな仕掛けになってたなんて知らなかったな」
「アオイはともかく、オリヴァーはいつも使っているだろう? 理屈も知らずに出来てしまうのが怖いね」
ウィルの一言は皮肉だったようで、オリヴァーが文句を言い出した。可愛い顔に似合わず毒舌だというウィルの評判を思い出した葵は渇いた笑みを浮かべる。そうこうしているうちに準備が整ったらしく、ハルはバイオリンを手にしたままオリヴァーとウィルの口論を眺めていた。しょうもないケンカだと感じた葵は傍観者を決め込んでいるハルを呆れながら仰ぐ。
「止めないの?」
「いつものことだから」
ハルは素っ気なく答え、バイオリンを構えた。弓が弦に添えられて、演奏が静かな出だしで始まる。バイオリンが鳴きだすとウィルとオリヴァーもピタリと口論をやめ、口を閉ざした。静かになった温室にはハルが奏でる旋律だけが流れている。
(寒い日に温室で、花に囲まれながらハルのバイオリンを聴くなんてゼイタクな感じ)
とても日常とは思えない空間に身を置いている葵はバイオリンの音色に酔いしれていたが、曲のテンポが速まるにつれて忙しない気持ちになった。自らが奏でている音と一体化しているように、ハルはバイオリンに感情をこめて弾いている。その姿は音楽に詳しくない葵が見てもバイオリンが愛されていると思うほどだった。音色と同じように、ハルを取り巻く空気そのものが澄んでいる。葵には魔力を見る能力などないが、彼の周囲を柔らかな光が包んでいるような気がして、目が離せなかった。
この世界には時計がないので正確なところは分からないが、時間にすると五分ほどだっただろうか。出だしと同じく静かに演奏を終えたハルが、ゆっくりと弓を下ろす。しばらく余韻に浸っていた聴衆は、ほぼ同じタイミングで奏者に拍手を送った。
「やっぱ、ハルのバイオリンは最高だな」
「耳が肥えて困っちゃうね。早くステラとの演奏を聴きたいよ」
オリヴァーとウィルが口々に賞賛してもハルは無表情のままバイオリンをしまってしまった。ウィルの口から再び聞くことになったステラという名に、葵は少し複雑な気分になる。
(ステラって子とハルが一番仲いいのかな)
そんなことを考えてしまった葵はとっさに首を振った。これ以上マジスターといると余計なことを考えてしまいそうだったので、葵はそっと席を立つ。
「私、そろそろ帰るね。お茶、ごちそうさま」
「裏門まで送っていこうか?」
オリヴァーが申し出てくれたものの、帰宅する姿を見られると都合が悪かったので葵は丁重に断った。しかしハルも帰ると言い出したので、結局は全員でシエル・ガーデンを後にする。
「じゃあ、また明日」
「じゃあね」
裏門へ着くとすぐ、オリヴァーとウィルは短く別れを告げて去って行った。彼らは『アン・ルヴィヤン』と口にしただけで帰宅を果たせるので、別れは本当に一瞬である。帰ろうと思った葵は一歩を踏み出したが、あることを思い出してハッとした。
「そうだ、ハル……」
葵が振り向いたのとハルが消えたのが、運の悪いことに同時だった。一瞬ハルと目が合ったような気もしたが、もう確かめようがない。葵は息を吐き、再び踵を返した。
「何?」
「うわあ!!」
帰ったと思ったハルが不意に出現したため、驚いた葵は雪の上に倒れこんでしまった。雪まみれになった葵を、ハルは平然と見下ろしている。
(うう、何でこんなんばっかり)
どうしてこの人の前では平静でいられないのかと嘆いた葵は自力で起き上がってから雪を払った。そうしているうちに、ハルが再び口を開く。
「呼ばなかった?」
「あ、うん、呼んだ」
呼び止めた理由を思い出した葵は改めて、ハルに頭を下げた。しかしハルには何のことか分からないようで、彼は小首を傾げている。まさか忘れたのではと危惧した葵は真意を言葉にしてみた。
「あの、保健室まで運んでくれて……」
「ああ、そのことか」
ハルが頷いたので、葵はひとまずホッとした。もう一度お礼を言ってから、葵は今度こそ踵を返す。
「呼び止めてごめんね。じゃあ」
ハルに別れを告げた葵は雪の上を歩き出し、そのまま裏門をくぐる。葵が帰途についてからもその場に佇んでいたハルは、不思議そうな表情をして彼女が歩き去るのを見つめていた。
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