鈍る心

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 秘色ひそくの月三十日の夜に行われる夏月かげつ期を迎える儀式は、トリニスタン魔法学園の広大なグラウンドにて執り行われる。そのため、生徒達は夜の寒さに耐えながらグラウンドを囲うように集合するのである。今宵の天気は雲一つない星空。冬の澄んだ夜空に浮かぶ青い二月は間もなく中天に上ろうとしていた。

 月の光が明るい冬月期最後の夜、葵はアルヴァと共に校舎の五階からグラウンドを見下ろしていた。生徒達は皆グラウンドに集合しているので校舎内に人気はない。グラウンドでは雪の上に五芒星が描かれていて、それぞれの頂点には五人の人物が佇んでいた。いくら月が明るくても葵達からグラウンドまでは距離がありすぎるので、星の頂点に佇んでいる人物の顔までは窺うことが出来ない。しかも特別な役割を担っているであろう彼らはトリニスタン魔法学園の制服である白いローブを着込み、フードを目深に被っていた。

「……ねえ、アル」

 五芒星の頂に佇んでいるのは、おそらくマジスターなのだろう。平素は私服姿で校内をうろついている彼らが制服を着ているだけでも驚きだが、葵は別のことが気になって仕方なかった。

「何ですか、ミヤジマ?」

 グラウンドに目線を注いだまま、アルヴァは応える。葵もまた同様に、グラウンドの周囲にいる生徒達を指差して疑問を口にした。

「何で、皆カサさしてんの?」

 五芒星を囲うように展開している生徒達は、雲一つない夜空だというのにカサをさしている。それも思い思いの彩色をしているので、上から見下ろすと傘の花畑のような眺めだった。

「というか、この世界にカサがあったことも驚きだけど」

「アンブレラはミヤジマのいた世界にもあったのですね。生活必需品では、やはり何処の世界も似通うものなのでしょうか」

「そういう考察はどうでもいいから。それで、全員カサさしてる理由は?」

「今に分かりますよ。ほら、始まったようです」

 葵もグラウンドを注視しながら会話をしていたので、アルヴァに言われずとも動きがあったことは見て取れた。五芒星の頂点にいる者達が魔法書を開き、呪文の詠唱を始めたようである。窓を開けていないので声までは届かないが、呪文に合わせるかのように五芒星が光を放ち始めた。

(……あれ?)

 不意に、視覚に違和感を覚えた葵は瞬きを繰り返した。何がどうとは言葉にならなかったが、リアルタイムで見つめている光景が少しずつ変化しているような気がする。それは、目が錯覚を起こし続けているような奇妙な感覚だった。

(うん?)

 知らぬ間に首を傾げていた葵は一つ瞬きをした後、ふと違和感の正体に気がついた。雪の上に描かれていた五芒星はそのままに、雪がごっそりなくなっているのである。雪のない学園の姿を見たのは初めてで、葵はあ然とした。

「うそ、何で?」

 葵が思わず零した呟きは、突如天から降り注いだ轟音にかき消された。トリニスタン魔法学園の校舎を、土が露わになったグラウンドを、グラウンドに集まっている生徒達がさしている傘を、大量の水滴が打つ。その光景はまさしく、空でバケツをひっくり返したかのような天気雨だった。

 雨は一瞬で上がったものの、葵はぽかんと口を開けたままでいた。グラウンドの花畑が消えた頃、アルヴァが感慨深げに独白を零す。

「ようやく夏ですね。明日からは暑くなりますよ」

 彼の言葉から察するに、この世界には春という季節はないようである。高校の制服の上に厚手のケープを着用している葵には、明日から急に暑くなるなど信じられなかった。

「ところでミヤジマ、ハル=ヒューイットは見えましたか?」

 グラウンドから視線を転じたアルヴァが急に話題を変えたので葵も真顔に戻って首を振った。

「この距離で見えるわけないでしょ。しかもフード被ってたし」

 葵の一言で何かを思い出したように、アルヴァは白衣のポケットを探り始めた。そうして取り出された物を見て、葵は首を捻る。アルヴァはばつが悪そうな表情になりながら葵に指輪を差し出した。

「渡すのを忘れていました。改良型の新しい指輪です」

 それはレイチェルからもらったアクロアイトとは違い、楕円形の石が嵌め込まれた指輪だった。アクロアイトの指輪は外したままだったので、葵はとりあえず改良型の指輪を右手の中指に嵌めてみる。それから、説明を求めてアルヴァを仰いだ。

「カルサイトのリングです。それを嵌めている者の魔力が一定に見えないよう細工をしておきました。それと、そのリングを嵌めている時は魔力が見えるようにしておいたのですが……」

 魔力が見えるようになるということは、この距離からでもグラウンドにいる生徒一人一人が識別できるようになるということである。おそらくアルヴァは魔力でハルを識別させるつもりで、この見物場所を選んだのだろう。そうしたアルヴァの意図を汲み取った葵は苦笑いを浮かべた。

「いいよ、気にしなくて。ありがと、アル」

 結果的には役立たずに終わってしまったが、葵はアルヴァが示してくれた気遣いを嬉しく思った。いつもこうならいいのにとも思ったが、その科白は胸中に留めておく。

 アルヴァとの会話が途切れたところで葵は再びグラウンドに視線を移した。グラウンドの中央に描かれていた五芒星もすでに消えていて、傘を持った生徒達の列が正門へと続いている。どうやら儀式も終わってしまったようで、水溜りをつくったグラウンドが静かに二月の姿を映していた。

「ねえ、アル」

「はい。何ですか?」

「行きたい所があるんだけど、ちょっとだけ待っててくれない?」

 本来ならば先に帰っていていいと言うところだが、葵は転移魔法が使えない。月明かりがあるとはいえ人気のない夜道を一人で帰る勇気はなかったので、待っていてくれと言うしかなかったのだ。葵が一人になりたい気分だったのを見透かしたのか、アルヴァは部屋で待っていると言って去って行った。

 アルヴァが立ち去ってしばらくしてから、葵はエントランスホールに向かった。無人の校舎を後にした彼女はしかしすぐ、異変を察して足を止める。儀式が行われる前まではケープが必要な寒さだったのに、夜の空気はガラッと変わっていた。

(暑い)

 厚着に耐えられる空気ではなかったので、葵は急いでケープを剥ぎ取った。ワイシャツにチェックのスカートという出で立ちになった葵はさらに、シャツの袖を捲り上げる。夜空は晴れ渡っているが空気は湿気を含んでいて、まるで梅雨時のような体感だった。

 懐かしいにおいがすると思った葵は足を進めながら周囲を窺う。雪の消えた地面にはあちこちに水溜りができていて、土のにおいが立ち上っていた。つい先刻まで冬だったのが信じられないほど、季節は夏に近付いている。季節の一変は憂鬱さまでどこかへ飛ばしてくれたようで、葵は軽やかな足取りで校舎の東へと向かった。

 目的地へと向かう途中、月下に咲き乱れる花を目にした葵は大空の庭シエル・ガーデンと呼ばれるドームでマジスターとお茶をした時のことを思い返した。あれからまだ一月も経っていないが、すでに遠い日の出来事のようである。マジスターと関わったせいで散々な目にもあったが、この学園で楽しい時間を共有したのもマジスターだけだったと思い、葵はしみじみとした気持ちになった。

(雪合戦も楽しかったしね)

 ルールも何もない雪合戦。ウィルとオリヴァーと、メチャクチャに雪球をぶつけ合って笑った。思い返すだけで楽しくなってきて、葵は口元をほころばせながら歩を進める。

(キリルって人に殴られたのはムカついたけど、今ではいい思い出……にならないよ、やっぱ)

 思い切り体重を乗せられて足を踏まれたり、手加減もなく殴られたのはあれが初めてである。傷跡はもう消えているが、あの時のショックと痛みと怒りは忘れられそうもなかった。

(そして……)

 目的地へ辿り着いた葵は足を止め、夜にひっそりと佇む月を浴びた塔ムーンリット・タワーを見上げた。






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