「ステラ」
葵が驚いた声を上げると、ステラは『やっと気付いてもらえた』というような息をついた。たまたま廊下を通っていたのか、それともこの辺りに用事があったのかは定かではないが、彼女は葵が保健室から出てくるのを見て歩みを止めたような雰囲気である。とっさに、この場所から早く離れようと考えた葵はすぐさまステラを促そうとした。だが、それよりも早く葵の背後に目をやったステラが不思議そうな表情をしながら口火を切る。
「ウサギ先生と話をしていたの?」
ステラが、彼女の発言としては似つかわしくない素っ頓狂なことを言ってのけたので、葵はぽかんと口を開けた。
「ウサギ、の先生?」
「えっ? 違うの?」
葵から驚きが返ってくるとは思いも寄らなかった様子で、ステラは困惑顔になる。ステラが何を言っているのか理解出来なかった葵も困惑したが、やがてあることに思い至って眉根を寄せた。
(そういえば……)
以前に一度、アルヴァのいない『保健室』で葵は白いウサギを目撃している。おそらくステラの言う『ウサギ先生』とは、人語を自在に操る、あの奇妙なウサギのことなのだろう。そしてステラがサラッと『ウサギ』に『先生』という呼称を用いている以上、この学園ではあのウサギが一般的な存在だと思われる。あまり深い話に入り込まない方が良さそうだと直感した葵は、さりげなく話題を変えることにした。
「ステラも保健室に用事があったの?」
「ううん。私はアオイに話があって、探していたの」
「私?」
「アオイは魔力が見えにくいから、探そうと思うと大変なのね。ここで会えて良かったわ」
ステラが魔力の話を持ち出したので、葵は改めてアルヴァからもらった指輪の力を実感した。アルヴァが指輪に刻んだ呪文は、マジスターであるステラすら惑わすのだ。それは即ち、アルヴァの魔力がマジスターよりも強大だということにはならないか。
(アルって、案外すごいんだ)
感心したのも束の間、ある事実を察してしまった葵は不服に唇を尖らせた。トリニスタン魔法学園の教師であるアルヴァが、生徒のエリート集団であるマジスター以上の力を持っていても不思議はない。だがそれだけの力を有しているのならば、葵が孤立していた時に助けてくれても良さそうなものである。それでもあくまで傍観者を決め込んでいたアルヴァを、葵は改めて薄情者だと思ったのだった。
「昨日はごめんね。まさかキルがあんなに怒るなんて思わなかったの」
歓談もそこそこにステラが本題らしき話題を口にしたので、考え事をしていた葵は我に返って首を振った。
「いいよ、気にしてないから。それを言うために、わざわざ探してくれてたの?」
「それと、アオイにお願いがあって探していたの」
「お願い?」
「アオイの持っている魔法書、見せて欲しいの」
「これ?」
ステラの真意を量りかねた葵は首を傾げながら、レイチェルからもらった魔法書を掲げて見せた。葵が手にしている魔法書の表紙に目を留めたステラは興味津々といった風に瞳を輝かせて頷く。
「その表紙の魔法陣、レイチェル=アロースミスのものよね? 彼女の著書はほとんど持っているのだけれど、アオイの持っている魔法書は見たことがなくて」
ステラの口ぶりがレイチェルを尊敬していると言っているように聞こえたので葵は内心で驚いていた。そのために返事が遅れてしまい、ステラが表情を曇らせる。
「魔法書を他人に見せるのは手の内を明かしてしまうようなものだものね。不躾なお願いをしてしまって、ごめんなさい」
魔法書がそのような意味を持つことなど知らなかった葵にとってステラの憂慮は見当違いなものだった。誤解を解こうと思い、葵は慌てて口を開く。
「違うの、ちょっと考え事をしてただけ。ここじゃ何だから、どこかに移動しない?」
「見せてくれるの?」
「うん、いいよ。どうせ私には……」
決められた魔法しか使えないのだから意味がないと言おうとして、葵は口元を手で押さえる。ステラが不思議そうな顔をしていたが葵は笑って誤魔化した。
「どこに行こうか? 魔法書を見るなら机がある所がいいよね」
「それなら、私の家へ行きましょう」
「……え?」
突然の申し出に、葵はぽかんと口を開けた。その反応が嫌がっているように見えたのかステラは気遣わしげな表情になる。
「嫌?」
「えっ、ううん。ちょっとビックリしただけで、全然イヤじゃないよ」
「良かった。それなら、行きましょう」
ステラはにこりと笑うとすぐ、葵の手を取った。そしてそのまま、彼女は『アン・ルヴィヤン』と呪文を唱える。視界が光に閉ざされて体が浮遊感に襲われた後、葵は見知らぬ屋敷の玄関先に佇んでいた。まだ屋敷のエントランスホールにも達していなかったが魔法陣の傍には使用人風の男性が佇んでいて、彼はステラに向かって浅く頭を垂れる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました。今日は友人と食事をとりますので、部屋の方へ運んでください」
「かしこまりました」
ステラとの会話を終えたロマンスグレーの執事は葵にも一礼した後、ゆっくりとした足取りで屋敷の方へと去って行った。執事の登場によってステラが本物の『お嬢様』なのだと実感した葵は改めて、感嘆の息を吐く。しかしこれが『普通』であるステラには何の感慨もないようで、彼女はさっさと屋敷の方へ歩き出した。
カーティス家の邸宅はいかにも富豪らしい広大な面積を使用しているもので、エントランスホールの造りもトリニスタン魔法学園並みに豪奢だった。元いた世界で同じ光景に遭遇すれば必ず嘆息していただろうが、葵はすでに豪奢な建造物を見慣れはじめている。そんな自分に幾分かの不安を覚えつつ、葵はステラの後に続いて大理石の廊下を進んだ。
「ここが私の部屋なの」
一階にある、とある部屋の前で足を止めたステラは葵を振り返って扉を指し示した。二枚造りになっている扉はやはり豪奢な代物で、その内側に広がっているであろう広い空間を想像させる。だがステラが扉を開いた時、葵の目に飛び込んできたのは開放感に溢れる光景ではなかった。室内で圧倒的な存在感を放っている本棚が、むしろ圧迫感を持って迫ってくるのだ。想像と現実とのあまりのギャップに、葵はあ然とした。
「もしかしてこれ、全部魔法書?」
この世界に小説や実用書があるという話は聞いたことがなかったので、葵は呆けたままステラを振り返った。ステラは軽く頷き、葵を室内へと誘いながら言葉を紡ぐ。
「隣の部屋を書庫にしていて、そこにはもっと沢山の本があるの」
六畳ほどだった葵の部屋も文庫やハードカバーで埋め尽くされていたものだが、ここは桁が違う。葵も本好きだが、ステラの熱意にはとても対抗出来そうになかった。
「そんなに勉強してどうするの?」
勧められたソファに腰を下ろしながら、葵は素朴な疑問を口にしてみた。するとテーブルを挟んで向かいに座ったステラが口元に手を当てて考えに沈みこむ。葵は何か気に障ることを言ったかと不安に思ったが、ステラはすぐに目を上げた。
「世界の理を知りたいの」
ステラが口にしたことは魔法を学ぶ者にとって究極の目的である。だが魔法というものの本質が見えていない葵には、そのようなことは分からない。ただステラが、何か決意のようなものを胸に秘めていることは肌で感じられた。
「それがステラの目標なんだ?」
「私は、本当は家の繁栄を考えなければならない。それがカーティス家を継ぐ者の使命。だから、今の話はナイショにしてね」
例えマジスターであろうと、良家の子女にとっての使命はトリニスタン魔法学園に通う女生徒達もステラも、変わらないようである。少し感傷的な笑みを浮かべているステラを見て、葵は物悲しい気持ちになった。
(やりたいことがあるのに出来ないんだ。家に縛られるって大変なんだね)
格式や由緒といったものが一般的ではない現代日本に生きていた葵にとって、ステラの悩みは物語の中で語られるような遠い世界のものである。今まで意識したこともなかったが葵は初めて、ある程度は自由にさせてくれていた両親に感謝したい気分になった。
(お父さん、お母さん、元気かな……)
ありがとうと言いたくても会えない両親に思いを馳せ、葵は小さくため息をつく。空気がしんみりしてしまったため、それを拭うようにステラが明るい声を発した。
「アオイ、紅茶でも飲まない?」
「あ、うん。いただきます」
葵が頷くとステラはすぐティーポットに指示を出した。テーブルの上に置いてあったシルバーの茶器が宙に舞い、カップに紅茶が注がれていく。葵は魔法の邪魔にならないよう、テーブルの隅に魔法書を広げて見せた。よほど興味があったのか、ステラは紅茶にも口をつけずに魔法書を覗き込む。パラパラとページをめくった後、ステラは怪訝そうな顔をして葵を見た。
「この魔法書、どこで手に入れたの?」
「それね、もらいものなんだ。もともとは別の人が使ってたものなの」
「別の人というのは、子供?」
「何で分かるの?」
何も話さないうちから言い当てられたので葵は驚いたのだが、ステラは納得したように頷いた。
「この本に収められているのは初歩的な魔法ばかりだから、子供の教材みたいだと思ったの。レイチェル=アロースミスは失われた魔法に関する著書が多いから、こういった本はレアね」
「ああ……そういえば、レイがそんなこと言ってたかも」
葵が持っている魔法書は、もともとはユアンのために書かれた本である。そのことを思い出した葵は何気なく独白を零したのだが、ステラが不意に目を剥いた。
「レイ? レイチェル=アロースミスのこと? アオイは彼女に会ったことがあるの?」
「えっ、うん。その本、レイにもらったんだよ」
「信じられない! アオイ、あなたって凄いわ!」
ステラが急に感嘆の叫びを上げたので葵は目を瞬かせた。葵が何も知らないと見て取ったのか、ステラは興奮気味にレイチェル=アロースミスのことを語りだす。
レイチェル=アロースミスは名家ではなく庶民の出だが、類まれな才能を持っていた。その実力が評価され、彼女は王家に認められた者しか名乗ることを許されない『魔法士』になったのである。魔法士の称号を持たない者は全て『魔法使い』と呼ばれ、それはトリニスタン魔法学園のエリートであるマジスターとて例外ではない。ステラにとってレイチェルは憧れの存在のようで、彼女の言葉の端々からは尊敬の念が滲み出していた。
「私も彼女のように生きたい」
私欲の混じらない純粋な熱意は人を輝かせる。ステラがあまりに眩しくて、複雑な気持ちになった葵は思わず目を伏せてしまったのだった。
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