雲ひとつない夏の夜空に黄色い二月が浮かんでいる。青い光とは違って馴染み深い色彩の月を仰ぎ見ながら、葵は人気のない石畳の街道を歩いていた。こうして何気なく夜道を歩いていると、近所のコンビニへ所用を済ませに行く時のような感じを覚える。だが夜に煌々と光を放つ四角い建物はどこを探しても見当たらず、ヘッドライトが眩い車の姿もない。ここは天空に二月が浮かぶ世界で、ふとした拍子に元の世界の暮らしに思いを馳せてしまう葵がいるべき場所ではないのだ。
ステラの家で夕食をご馳走になった後、葵はあれこれと理由をつけて
「屋敷へ戻るのには反対方向ですよ、ミヤジマ」
不意に聞き覚えのある声が聞こえてきたので、葵は月を仰いでいた視線を少し下げてみた。人工の明かりがいらない月夜の街角に、端整な面立ちをした金髪の青年がひっそりと佇んでいる。この事態を予想していた葵は驚くこともなく、ゆっくりと彼の傍へ歩み寄った。
「ステラ=カーティスの家はどうでした?」
白衣を脱いだアルヴァが人気のない街角に佇んでいたのは、やはり偶然ではないようだ。常日頃から監視の目に晒されていることを改めて実感した葵は小さく嘆息してから口を開く。
「アルさぁ、何で私がステラの家にいたこと知ってるの?」
「僕の部屋の前で堂々と話をしていたでしょう? あのような場所で話をしていれば筒抜けですよ」
「それ、盗み聞きって言うんじゃないの?」
「聞く気がなくても聞こえてくるのだから盗み聞きとは言いません」
「あ、そ」
また口論になるのも馬鹿らしいと思った葵は呆れながら話を打ち切った。代わりに、先程の問いに対する答えを口にしてみる。
「ステラの部屋、本だらけだった。ビックリしたよ」
「そうですか」
「ステラ、レイに憧れてるんだって。レイみたいな生き方がしたいって、目を輝かせながら言ってたよ」
「そうでしたか」
「一生懸命で、カワイイんだ。レイの話してる時のステラ、まぶしかった」
何も考えずただ生きてきた自分とは、大違い。その科白を、葵はアルヴァに伝えることはしなかった。だが胸中で呟いた言葉は胸の奥底へと沈んでいく。何が心を鬱いでいたのかはっきりと自覚した葵は苦笑いを零した。
(置いていかれたような気になるなんてバカみたい。住む世界が違う人なのに)
ステラは学園側が生徒を選ぶ名門校、トリニスタン魔法学園のエリートなのである。魔法を使えない葵はいわゆる『落ち零れ』だが、そもそも生まれついた世界が違うのだから比較する方がおかしいのだ。ステラが同等のように扱ってくれるので、葵はそんな分かりきったことすら失念していた。しかし葵のいた世界でも、ステラのような人物はやはり『特別』だろう。魔法など関係なく、何かに一生懸命な人は輝いて見えるものなのだ。
「羨ましいと思う前に努力しろって話だよね」
一人で話を完結させた葵はため息混じりに呟いた。葵の思考がどういった過程を経たのかなど知らないアルヴァは微かに眉根を寄せる。だが彼のその表情は葵の思考を理解出来ないという不可解さからくるものではなかった。
「ミヤジマはステラ=カーティスが好きなのですね」
「そうだね。弥也に少し似てるからかな」
「誰ですか、それは」
「向こうの世界にいる友達。子供の頃から格闘技やってて、強いんだよ。性格もさっぱりしてて好きだったなぁ」
「……なるほど」
妙に実感のこもった相槌を打った後、アルヴァは口を閉ざした。だが何かを切り出そうとしている空気を察した葵は首を傾げながらアルヴァを見る。
「何か言いたそうだね」
「わかりますか?」
「だって、待ってたんでしょ?」
保健室前での会話を聞いていたからといって、葵にはアルヴァがわざわざ家まで送ってくれるために姿を現したのだとは思えなかった。ならば何か、話があるはずなのである。葵がそうした見解を告げるとアルヴァは小さく息を吐いた。
「レイチェルや僕のことをステラ=カーティスに話しましたか?」
「アルのことは言ってないけど、レイのことは少し話した。でも、何で?」
「話してもらいたくなかったのですよ。レイチェルのことも、僕のことも」
そんな話は初耳であり、葵は今更だと思った。それはアルヴァも承知しているようで、彼は苦笑いを浮かべる。
「ミヤジマが自分のことを語るとも思えなかったので、今まで問題にもしていませんでした」
「……まあ、そうだね」
トリニスタン魔法学園に編入してからの『友達づきあい』は、とても自分のことを語れるようなものではなかった。その点は葵も同感だったが、自身やレイチェルのことを喋るなというアルヴァの真意は不透明である。今までなあなあにしてきたことを尋ねてみるいい機会だと思った葵は率直に思いを言葉にした。
「ねえ、本当のことをちゃんと話してよ。そうすれば私だって言っていいことと悪いことの区別くらいつくようになるから」
「……そうですね。ミヤジマもここでの生活に慣れてきていますし、そろそろ話しておいた方がいいかもしれませんね」
アルヴァの返事を聞いた後、葵は自ら口を開くことをせずに次の言葉を待った。あまり語りたくない事柄なのか、アルヴァは冴えない表情で天を仰ぐ。そして再び葵を見ることなく、彼は話を始めたのだった。
「レイチェル=アロースミスという人は『特別』なのですよ。彼女は王室にその実力を認められた、特別な魔法使いですから」
「それが、魔法士?」
「ステラ=カーティスから聞いたのですね。その通りです」
肉親の栄誉を語っているというのに、アルヴァの口調は至って他人行儀なものだった。違和感を覚えた葵が突っ込んで尋ねてみようか迷っていると、アルヴァは彼女に口を開く暇を与えないかのように話を続ける。
「ミヤジマは便宜上、アロースミス家の遠縁ということになっています。トリニスタン魔法学園は紹介状がないと入学することが出来ない名門校なので、どうしてもレイチェルの名前を使わないといけなかったのですよ。ですがこのことは、学園を運営する一部の者にしか知らされていません。一般の生徒に知れると大変なことになってしまいますからね」
アロースミス家に連なる者は一族の出世頭であるレイチェルの顔に泥を塗らないよう生きることが定めである。もし葵が初めからレイチェルの遠縁の者として学園に編入していたら、今よりももっと厳しい制約が課されていたのだ。レイチェルとの繋がりを隠すことである程度の自由が認められていたと言い換えても良い。だが葵は、すでに殻を破ってしまった。今になってレイチェルとの繋がりが明らかになってしまうのは非常にまずいのである。ここまで話を聞いても、葵にはいまいちピンとこなかった。
「えーっと、つまり、私のせいでレイの株が下がるってこと?」
「ミヤジマとの繋がりが明らかになれば恥をかくだけでは済まないでしょうね。何らかの処分が下されてもおかしくはないのです」
「……私、そんなに問題児?」
「レイチェルの良識が疑われますね」
あまりにきっぱりと言い切られたので葵は少し傷ついた。優等生とは言えないかもしれないが、良識が疑われると言われるまで素行が悪いとは思ってもみなかったのである。だがアルヴァは容赦なく、レイチェルがいるのはそういう世界なのだと言った。
「加えてミヤジマの場合、本人の品位よりもっと問題なことがあるのです」
今度は葵にも、アルヴァが何を言おうとしているのか解った。葵が理解したことをアルヴァも承知したようで、彼はその考えを肯定させるように頷く。やはり最大の問題は、葵が異世界の人間ということのようだ。
「この件には他にも様々な事情が絡んでいて複雑なのです。ミヤジマが全てを理解したいと言うのなら時間をかけてじっくりと話してさしあげますが、聞きたいですか?」
「……もういいや」
秘められていたことの一端を明かされても頭がこんがらがっただけだったが、葵はもううんざりしていた。アルヴァも説明を続けるのは面倒だと思っていたようで、あっさりと引き下がる。だが釘を刺すことだけは忘れなかった。
「今以上に不自由な思いをしたくなければ僕の指示に従ってください。そうしなければならない理由は、お解かりいただけましたね?」
「りょーかい。アルのこともレイのことも誰にも喋らないよ」
葵が投げやりな態度で頷くとアルヴァは真顔のまま『賢明です』と言ってのける。難解な事情を聞かされた葵は改めて早く元の世界に帰りたいと思い、岩黄色の二月を見上げた。
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