さよなら

BACK NEXT 目次へ



 昨日がどんな日であろうと、夜を見送った世界は必ず朝を迎える。真夏の太陽は今日も東から姿を現そうとしており、無防備な素肌をさっそく焦がそうとしていた。朝焼けを背負いながら人気のない街道を歩いている少女の名は、宮島葵。彼女は無慈悲な暑さに喘ぎながら丘の上に建つトリニスタン魔法学園を目指していた。

 夜明け前に家を出た葵が学園に辿り着くのは、太陽がその姿を露わにしてからである。全身から汗を滴らせながら学園の裏門に到着した葵は慎重に周囲を窺い、誰の姿もないことを確認してから小走りで校舎に向かった。葵の所属する二年A一組の教室は二階にあるのだが、葵は階段を上ることもなく緩いカーブを描いている廊下を突き進む。そうして校舎一階の北辺に辿り着いた葵はスカートのポケットから鍵を取り出し、保健室の扉を開けた。

 ドアが開くなり、その部屋の主である金髪の青年が背後を振り返った。椅子ごと体を回転させた白衣の青年は一瞥するに留め、葵は口を開くこともなく冷風を吐き出している装置の前に陣取る。しばらく冷風を独り占めした後、葵は汗が引いてから簡易ベッドに向かった。横一列に並んでいるベッドの一つに腰を下ろし、すかさず隣との間仕切りであるカーテンを引く。この部屋の主であるアルヴァ=アロースミスを無視しきった葵はそのまま、ベッドに寝転がった。

「……あいさつもなし、ですか」

 薄いカーテンの向こう側で佇んでいる人影が声をかけてきた。しかし答える気力もなかった葵は頭まで上掛けをかぶり、体を丸めて目を閉ざす。借り物の屋敷で使用している上質な肌触りではなく、簡易ベッドの硬さが不思議と心を落ち着かせた。

 瞼を下ろして間もなく、葵は深い眠りに陥ってしまった。この世界には時計がなく、『アルヴァの部屋』には窓もないので、どのくらい眠っていたのかは分からない。だが葵がカーテンを開けてみても、アルヴァはまだ壁際の指定席に腰を下ろしていた。

「……アル」

 葵が寝ぼけた声を出すとアルヴァは椅子を回転させて振り向いた。しかし彼は自ら口を開こうとはせず、ただ葵を見上げている。睡眠をとりすぎたせいか体が怠くて仕方がなかった葵はアルヴァのデスクに片手を突き、もう片方の手で額を押さえた。

「今、何時?」

「ナンジとは、以前にミヤジマが言っていた一日を区切るという単位のことですか?」

「……あー、そっか」

 アルヴァの返答を得て、葵はようやく自分の置かれている状況を思い出し始めた。ここには時計などなく、今の葵には時間にもあまり意味がないのだ。

「アン・シェーズ、エ、アン・タブル、イシィ。アン・テ、ペパーミント」

 ボーッとしている葵を見ていたアルヴァは不意に、次々と呪文を唱えた。アルヴァの意思に従って、彼の傍らには部屋の隅に置かれていた椅子とテーブルが移動してくる。そしてテーブルの上に置かれていた茶器がひとりでに紅茶を注ぎ、室内には途端にハーブの香りが漂った。

「どうぞ」

 アルヴァに促された葵は彼の傍らにある椅子に座り、ペパーミントの香りがする紅茶を口に運んだ。澱んでいた思考がハーブの清々しさに刺激され、少しずつ正気を取り戻していく。怠かった体も心なしか軽くなったものの、瞼の腫れぼったさだけはどうにもならなかった。

「目を擦るものではありませんよ、ミヤジマ」

 アルヴァに注意されて初めて、葵は自分が無意識の内に何をしていたのか思い知った。彼の言うことがもっともだったので葵は大人しく腕を下ろす。そこでふと、彼女は目前にいる人物の異変に気がついた。

「ここ、学校の保健室だよね?」

「保健室ではありません。ここは僕の部屋です」

 アルヴァは違うと言ったものの、葵にとって簡易ベッドが並ぶこの部屋は保健室と同義だった。保健室と『部屋』の違いには言及せず、いつもの場所にいることを確認した葵は改めて眉根を寄せる。

「アル、どうしたの?」

「何が、ですか?」

「その言葉遣い。それに、服装もちゃんとしてる」

「ああ……そういえば、もういいんだったな」

 葵には解らない独白を零した後、アルヴァは言われるがままに服装を乱し始めた。わざわざシャツの裾を引っ張り出しているアルヴァを怪訝に思いながら、葵は言葉を次ぐ。

「アル、何か変だよ?」

「ミヤジマこそ、その泣きはらしたような目はどうした?」

 あまり触れられたくないことを問われたため葵は閉口した。あからさまに答えるのを嫌がったアルヴァも葵から答えを聞き出そうとすることなく口を噤む。話題を逸らしたのは、言及するなということだったのだろう。そう解釈した葵は無言でカップを口に運んだ。

「ユアンが……」

「えっ!? 何!?」

 沈黙の末にアルヴァが口にした名に、葵は過剰な反応をしてしまった。ガチャンという派手な音を立ててソーサーに戻されたカップから温くなった紅茶が零れ落ちる。いつもの調子を取り戻したらしいアルヴァは汚れたテーブルを見て呆れた表情をした。

「……ごめん。今、拭く」

 立ち上がった葵は反射的に雑巾を探して周囲に視線を走らせた。だが彼女がそうしている間にアルヴァは呪文を唱え、指一本動かすことなくテーブルの上を片付ける。湯気の立ち上る新しいカップが目の前に置かれ、葵は複雑な気分になった。

「昨夜、マジスターの演奏が終わると同時に帰ったらしいね。ユアンが心配していたから、一応それを伝えておこうと思っただけだ」

 悠然と脚を組んでいるアルヴァはカップを口に運びながら平然と言ってのける。その発言に不公平さを感じた葵は椅子に座り直しながら唇を尖らせた。

(そんなの、何で泣いたのか知ってるようなもんじゃない)

 もともと、マジスターを落とせと葵をたきつけたのはアルヴァなのである。ユアンの言っていたことはやはり理解出来そうにないと思った葵はむっつりと黙り込んだままカップに口をつけた。

「今日、ステラ=カーティスが保健室に来たよ」

「……えっ?」

 アルヴァは葵がカップを置いたところで口火を切ったので、葵は前傾姿勢のまま動きを止めた。恐る恐るアルヴァの顔色を窺った葵は発言の真意が読めない無表情に出逢って言葉に詰まる。葵が返事をしないでいるとアルヴァは淡々と話を続けた。

「彼女はミヤジマを探していた」

「……そう。それで、アルは私がここにいるって言っちゃった?」

「僕は会っていない。彼女が訪れたのは『保健室』だからね」

 アルヴァの言っていることが理解出来なかった葵は不可解に眉根を寄せた。トリニスタン魔法学園の『保健室』は、簡易ベッドが並ぶここではないのか。葵がそう尋ねるとアルヴァは、ウサギがいるのが保健室であり、ここは自分の部屋なのだと答えた。アルヴァの説明が混乱を招くだけの代物だったので葵は頭を抱える。

「よく分からないけど、アルはステラに会ってないのね?」

「さっき、そう言っただろう」

「なら、いいや」

 保健室とアルヴァの部屋の違いについて考えることを放棄した葵は、ひとまずステラに居所が知られていないならそれでいいと思った。何も告げずにパーティーへ行く約束を反故にしたことは心苦しいが、今はまだ平気な表情を作れるだけの余裕がない。もう少し時間が欲しいと、葵は切実な気持ちで思った。

「……帰るわ」

 学園内にいれば、それだけ顔を合わせ辛い人物と遭遇する確率が高くなる。そう思った葵は重い頭と気持ちを抱えながら踵を返した。しかしすぐ、アルヴァに呼び止められたので振り返る。葵の傍まで来ると、アルヴァは彼女の右手にキスを落とした。

「……いきなり何?」

 魔力を補充されたリングを右手ごと胸に引き寄せ、葵は訝しい目をアルヴァに向けた。アルヴァは無表情を保ったまま淡々と真意を明かす。

「これからしばらく、鍵を使っても僕の部屋には入れなくなる。その間は魔力の補充も出来ないから、なるべく魔法は控えてもらいたい」

「ふうん。どこかへ行くの?」

「まあ、そのようなものだ。僕がいなくても、ちゃんと登校するように」

 しっかりと釘を刺した後、アルヴァは「送るよ」と言って呪文を唱え出した。いつかの強制転移と同じく、葵が瞬きをする間に風景が一変する。ユアンから貸し与えられた屋敷の庭に描かれた魔法陣に出現した葵はアルヴァの様子に微かに眉根を寄せながらも振り返ることはせずに歩き出した。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2010 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system