さよなら

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 岩黄いわぎの月の十五日、汗だくになりながら学園へと続く坂道を上りきった葵は裏門の影に隠れながら密かに進行方向の様子を窺った。ひとまず、前方に人影は確認出来ない。だがこの世界ではいつ、どこから人が現れるか分からないので、葵はフードを目深に被ってから校舎の方へと歩を進めた。

 葵が普段愛用している高等学校の夏服とは違い、トリニスタン魔法学園の制服であるローブは極度に露出が少ないので暑い。だがいつもの服装では一目で居所が知れてしまうため、葵は自ら汗だくになることを選んだのだった。その理由はマジスターに発見されたくないということと、もう一つ、アルヴァの不在があった。葵にとってアルヴァがいないということは、校舎の中で何が起きても逃げ込む場所がないということである。ステラと知り合ってから生徒達の態度は一変していたが、それでも油断はならないと、葵は創立祭の後からローブで登校しているのだった。

 運良く登校する生徒に紛れることが出来た葵は魔法書を胸に抱き、俯いたまま校舎に向かった。校舎の西にある正門から続く白いローブの群れは葵に気付くことなく、人波の移動は滞らずに行われている。葵は自身の意思には関係なく一般の生徒達にとってはマジスターへの橋渡しなので、ここで正体が露見すれば騒ぎになってしまうことは必至だ。そうならないためにも、葵はいっそう項垂れながら歩を進めていた。

 正門から続く人の流れはエントランスホールを抜けると散り散りになる。生徒達がそれぞれの教室へ向かう中、葵は階段を上り、二階にある二年A一組の教室を目指した。二階の廊下を歩く頃になるとさすがに隠れていられなくなって、様々な生徒が声をかけてくる。葵はその全てをきれいに無視して教室に入ったのだが、自席に着くと同時にクラスメートが群がってきた。

「おはようございます、ミヤジマさん」

「本日はマジスターの方々とご一緒ではありませんでしたの?」

 クラスメートも、その他の生徒も、口を開けば『マジスター』の連呼である。これが嫌で葵はアルヴァの所へ逃げ込んでいたのだが、しばらくその方法は使えない。魔法書を開こうにも、こうも人が集まっていたのでは覗き見られてしまうので、葵は仕方なく何もない机の上を見つめていた。だがそうしていても、複数の手が視界に侵入してくる。

「ミヤジマさん、お加減がよろしくないのでは?」

「大変だ、すぐ保健室へ行った方がいい」

 ついには強引に顔を上向かせられ、葵のイライラは頂点に達しようとしていた。そのことを知ってか知らずか、クラスメート達は教室に入って来た教師にまで葵の不調を訴えて騒ぎ立てている。耐え切れなくなった葵は勢いよく席を立った。だがその瞬間、葵の行動を無にするほどの嬌声が廊下から聞こえてきた。

「キリル様!!」

「きゃー! キリル様よ!!」

 教室外から聞こえてきた少女達の嬌声に反応したクラスメート達は先を争うように走り出す。そして葵の周囲には男子だけが残された。怒声を発しようとした間際に起こった騒動に毒気を抜かれた葵は脱力して座り込む。すでに教師は教壇に立っていたが、とても授業が始まるような雰囲気ではなくなっていた。

「アオイさんってさ、あのキリル様とも仲いいの?」

 クラスメートの男子に話しかけられ、気が抜けていた葵は無表情を作り直してから声の主を仰いだ。

(そんなに仲いいわけじゃないんだけど……)

 ステラ以外のマジスターとは友人ですらない。だが真実を明かす義理もなかったので、葵は黙ったままでいた。初めから答えは期待していなかったのか、男子生徒たちは好き好きに話を続けている。

「すげぇよな、あのマジスターの方々と仲良くなれるなんて」

「ステラ様も他の方達に比べれば社交的だけど、それでもアオイさんほど仲良くしてる人って初めて見たもんな」

「……そうなんだ」

 無言で耳を傾けていた葵は知らずのうちに独白を零してしまっていた。あのパーティーの夜以来、葵はステラを避けている。だが彼女は、わざわざ教室にまで足を運んで葵を探してくれているのだ。運良くと言うべきか不運にもと言うべきか、ステラが教室に来た際、葵は寂しげに立ち去る彼女の後ろ姿を目にしてしまった。軋むように心は痛んでいるものの、葵はまだ自ら行動に移せないでいる。

(シエル・ガーデンに行けば会えるんだろうけど……)

 そこまで考えたところで、葵はふと目を上げた。葵の周囲に集まっているクラスメートの男子達が、何故か一様に葵を注視している。あまり多くの視線に晒されることに慣れていない葵は不快に眉根を寄せながら口を開いた。

「何?」

「やっと喋ってくれた」

 クラスメートの男子から初めて好意的な笑みを向けられたせいで葵は呆気にとられてしまった。葵が話に応じたせいで調子に乗ったのか、男子達は口々に喋り出す。

「どうしたらあのステラ様と仲良くなれるんだ?」

「コツを教えてくれよ、コツを」

「ステラ様みたいな女性を嫁にもらうのが理想だけどさぁ、それを抜きにしてもお近づきになりたいよなぁ」

「知ってるか? ステラ様、王都の本校でも編入を勧められるくらい優秀だったんだぜ」

「バーカ、当たり前だろ。あのステラ様だぜ?」

 初めこそステラに媚を売ろうとする男子に呆れていたものだが、彼らの雑談を聞いているうちに葵は心境の変化を覚えずにはいられなかった。やましい下心がないとは言い切れないが、彼らは誰もがステラを尊敬しているのだ。その感情は、葵がステラに抱いている思いと似通うものがあった。

(……なんだ、良家の子息とか言っても皆わりとフツウなんじゃない)

 女子には気を許すことが出来ないが、クラスメートの男子にならもう少し楽に接してみてもいいのかもしれない。葵がそう思い始めた頃、二年A一組の前の廊下で一際大きな嬌声が上がった。それは教室の中にまで侵入してきて、やがて青褪めた顔をしたクラスメート達が葵の周囲から遠ざかって行く。人垣が取り払われたことで、葵は騒ぎの主がこちらへ向かって来ていることを初めて知った。

 こちらへ歩み寄って来ている人物は学園の中だけでなく世界でも珍しいのだという黒髪にブラックの瞳という容貌をしている少年である。マジスターの証とも言える私服姿を目に映した時、葵はおもむろに眉根を寄せた。マジスターの一人であるキリル=エクランドは葵の座っている席の横で足を止めると、その切れ長の目に怒りをぎらつかせながら葵を見下ろす。その直後、彼は予告もなく葵をぶっ飛ばした。

「きゃあああ!!」

「キリル様、何をなさるのですか!?」

 椅子から転げ落ちた葵は誰かに佑け起こされ、耳元で女の悲鳴を聞かされた。しかし頭がグラグラしていて、言葉は耳を突くものの理解が追いつかない。端整な顔に怒りを滲ませているキリルは葵を佑け起こした者に向かって怒鳴り声を上げた。

「散れ!!」

 トリニスタン魔法学園に通う者にとってマジスターの発言は絶対の命令と同じである。教師であってもキリルの言葉には逆らえず、葵を佑け起こした者のみならず全ての者が教室を出て行った。その頃には葵の意識もはっきりしていたが、それでもまだ状況をうまく呑みこむことが出来ずにいる。痛みは恐怖に変わり、怯えた葵はキリルから遠ざかろうと座り込んだまま後退した。だがキリルがそれを許さず、彼は葵の胸倉を掴み上げる。

「いい気になってんじゃねぇぞ。どういうつもりだ、てめぇ」

 怒気を孕んだ端整なキリルの顔が、葵にはひどく恐ろしいものに見えた。しかし逃げ出そうにも体が震えていて、手足にうまく力が入らない。葵が答えなかったのでキリルは彼女の胸倉を掴み上げている手にさらなる力をこめた。

「ステラにあんな顔させやがって!! ただじゃおかねぇ!!」

 キリルが拳をかざしたのを視界に捉えた葵はとっさに目をつむった。しかし二度目の衝撃が訪れる前に教室の扉が開かれ、叫び声と共に新たな人物が乱入してくる。

「うわぁ! キル、待てって!!」

 がっちりとした体躯の少年が間一髪のところでキリルの拳を留まらせる。茶髪を一つに束ねている彼はそのまま、キリルの体を抱えるようにしながら葵から引きはがした。

「放せ、オリヴァー!! 殴ってやらなきゃ気がすまねぇ!!」

「もう殴ってるじゃないか」

 マジスターの一人であるオリヴァー=バベッジと共に二年A一組の教室に入って来た赤髪の少年が、壁に背を預けてへたりこんでいる葵を見下ろして言う。おそろしく女顔をしている彼は一つ息を吐き、オリヴァーにキリルをしっかり拘束しておくよう言い置いてから呪文を唱え出した。

「アン・セリュール・スュル、キリル=エクランド。アン・コンプルシィオン・メタスタス、ケルクパール・ロワン」

「てめっ、ウィル!!」

 キリルが抗議の声を上げる頃には、オリヴァーの腕の中にいる彼の体だけが光を帯びだした。その一瞬後、キリルの姿だけが跡形もなく消え去る。キリルがいなくなったことで彼を押さえつけていたオリヴァーはホッとしたような息を吐き、それから改めてへたり込んでいる葵に向かった。

「アオイ、大丈夫か?」

 オリヴァーに声をかけられても葵には答えることが出来なかった。殴られた頬を手で隠しながら俯くと涙が零れてしまい、葵は慌てて顔を手で覆う。

「どう見ても大丈夫じゃないでしょ」

 怯えきっている葵に目をやった赤髪の少年――マジスターの一人であるウィル=ヴィンス――は嘆息した後、まごついているオリヴァーの方へと顔を傾けた。

「キルが戻って来たらうるさいから、とりあえず行こうか」

 先程ウィルが放った魔法は転移魔法の一種であり、呪文を直訳すると『キリル=エクランドをロックオン。どこか遠くへ強制転移』となる。強制的にどこかへ飛ばされてしまったとしてもトリニスタン魔法学園のエリートであるキリルがこの場所へ戻って来るのは時間の問題であり、あまり悠長なことをしてはいられないのだ。葵が泣き出してしまったことに戸惑っていたオリヴァーもそのことに気がついたようで、彼は問答無用で縮こまっている葵を抱き上げる。それを見たウィルは床に落ちていた葵の魔法書を拾い上げ、自分の魔法書を開いてから再び呪文を唱え出したのだった。






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