時計塔を覆っていた謎の障壁はハルの言った通り、朝になると消えていた。転移魔法で家に帰るというハルと別れ、一階の扉から外に出た葵は寝不足で重い体と、それ以上に重い頭と闘いながら西進する。爽やかな夏の夜明けは恨めしいほど眩い光を放ちながら葵の背を押していた。
とても丘陵を下って家に帰るだけの体力は残っていないと感じた葵は人気のない校舎に進入し、エントランスホールを抜けて一階の北辺にある保健室を目指した。明け方に少しうとうとしただけでほとんど寝ていない葵は思考が停止状態にあり、常に携帯している鍵を無意識のうちに鍵穴に差す。そうして保健室の扉を開けた葵はこちらに背を向けて座っている白衣姿の青年を目にして、少しのあいだ考えこんだ。
「おはよう、ミヤジマ」
椅子ごと体を回転させたアルヴァは手にしている煙草から白煙を立ち上らせながら朝の挨拶を口にした。何かが引っかかったものの眠気が限界に近付いてきたので、葵はベッドに直行する。
「寝かせて」
アルヴァにそれだけを言い残し、葵は間仕切りであるカーテンを閉めて固いベッドに横たわった。精神的な疲労もピークに達していたため、瞼を下ろすとすぐに眠りに誘われる。そうして眠りに落ちた葵は誰に起こされることもなく寝続け、やがて自然に目が覚めたのであった。
この世界には時計というものがなく、またアルヴァの部屋には窓がないので今が昼なのか夜なのかさえ分からない。自分がどのくらい眠っていたのかも分からなかった葵はただただ重い体を動かし、間仕切りであるカーテンを開けた。壁際のデスクには相変わらず白衣姿の青年が座っている。彼は葵の気配に気がつくと椅子ごと体を傾けてきた。
「おはよう。よく眠っていたね」
葵に一声かけると、アルヴァは呪文の詠唱を始めた。アルヴァの唇から零れたスペルは茶器を動かし、湯気を立ち上らせてティーカップに紅茶が注がれていく。勧められるままアルヴァの傍の丸椅子に腰を落ち着けた葵はハーブの香りがする紅茶をゆっくりと口に運び、カップをソーサーに戻してから頭を振った。
「だる……」
「昨夜はそんなに激しかったのか?」
アルヴァの問いかけに答えようとした葵は彼の方に視線を傾けたのだが、その質問が持つ意味が理解出来ずに眉根を寄せる。
「激しかったって、何が?」
「ハル=ヒューイットとの甘い一夜に決まっているだろう?」
「はあ?」
大袈裟に呆れ顔をつくった葵はそこではたっとアルヴァが言っていることの意味に思い至り、憤りながら席を立った。
「あれ、アルの仕業だったのね!! 何であんなことするのよ!?」
だらしなく開襟しているアルヴァの胸元を掴み上げた葵は勢いに任せて怒鳴り散らした。しかし葵に激しく揺さぶられても、アルヴァには動じた様子がない。
「ステラ=カーティスがいなくなる今、ミヤジマにとってはハル=ヒューイットをものにする千載一遇のチャンスだ。だから協力してあげたんだけど?」
「そんな協力いらないよ! おかげで床で寝る羽目になったし、夜は寒かったんだから!!」
「ハル=ヒューイットに暖めてもらえばよかったじゃないか。ついでに汗ばむくらい運動……」
アルヴァが下品なことを言いかけたので胸倉を掴んでいた手を離した葵はそのまま彼を突き飛ばした。勢いがついたアルヴァは椅子ごと後ろに滑り出し、壁にぶつかった衝撃で椅子から転げ落ちる。その姿を見ても怒りが治まらなかった葵は平然と起き上がってきたアルヴァを睨み付けた。
「信じらんない! アル、サイテーだよ!!」
「そうは言うけどね、ミヤジマ。据え膳食わぬは男の恥なんだよ」
「何にもなかったよ! アルと一緒にしないで!」
「触れてさえもらえなかったのか。可哀想に」
アルヴァから哀れみの目を向けられたことに絶句して、葵は指を差した格好のまま動きを止めた。引き連れてきた椅子に再び腰を下ろしたアルヴァは嘆息し、わざとらしくデスクに頬杖をつく。
「ミヤジマはもう少し女を磨くべきだよ。今のままじゃハル=ヒューイットはおろか、誰にも相手にされない」
アルヴァは至極真面目な話であるような顔で言ってのけたが、葵にとってそれは侮辱以外の何物でもなかった。言い含められるような口調でけなされたことに腹が立ってきた葵はむっつりと閉口し、アルヴァに背を向ける。彼女はそのまま『アルヴァの部屋』を後にし、苛立ちに任せて荒々しく扉を閉ざした。しかしドアに八つ当たりをしたくらいで葵の怒りが和らぐことはない。むしろ大股で廊下を歩き出してからの方が不満は募っていった。
(何でアルにあんなこと言われなきゃいけないのよ!)
あまりに腹立たしかったので反論もせずに出て来てしまったことが、今さらながらに悔やまれる。怒りを直接ぶつけておけば、少しは気が晴れたかもしれないのだ。しかしアルヴァが相手では文句を言ったところで効果はないだろうと思い直し、葵は深々とため息をついた。
「アオイ」
不意に耳慣れた声が聞こえてきたので、葵は表情を改めてから背後を振り返った。そこにはトリニスタン魔法学園の制服である白いローブを纏ったステラの姿があり、葵は体ごと振り向くと同時に彼女の元へ歩き出す。話をするのにちょうどいい距離でお互いに立ち止まると、ステラの方から再び口火を切った。
「今、保健室へ行こうと思っていたところだったの。会えてよかったわ」
ステラの科白が何となく引っかかりを覚えるものだったので葵は小首を傾げた。
「何で保健室?」
「え? だって、アオイはよく保健室にいるみたいだから」
校内で人を探そうと思う時、この学園の生徒は魔力を利用する。だが魔力を利用すると言っても魔法を使うというのではなく、十人十色の魔力を感知して識別することで目的となる人物を洗い出すのだ。葵にはもともとの魔力というものはないが
「どうしたの、アオイ?」
「何でもない。それより、ステラこそどうしたの? 私を探してたみたいだったけど」
「アオイに伝えておきたいことがあったの」
そこで一度、ステラは言葉を切った。口調に微妙な変化を感じた葵は不思議に思いながらステラの横顔を窺う。するとステラも葵を見ており、物悲しい輝きを宿しているヘーゼルの瞳と出会った。
「出立の日が早まったの。二十三日には、ここを立つわ」
「……そっか」
「見送りに、来てくれる?」
「もちろん」
「ありがとう。私、アオイに会えて良かった」
ステラは心の底からそう思っているようで、混じり気のない笑みを向けてきた。その笑顔があまりにも眩しくて、胸が詰まった葵は思わず顔を背ける。生まれ育った世界の初春がそうであるように、別れの物悲しさと旅立つ者が身に纏う淡い明るさに、葵は泣きそうになってしまった。
(私も、ステラに会えて良かったよ)
ステラと過ごしたのは短い時間だったが、葵も心の底からそう思った。だが別れを言うにはまだ早いので、その科白は胸中に留めておく。笑って送り出してあげようと思い、葵は笑みをつくってからステラを振り向いた。
「家の方は大丈夫? お父さんとお母さん、説得できた?」
「それがね、意外なほどあっさりと認めてくれたの。本校に入学することは栄誉あることだから、きっとカーティスの名前に箔が付くと思っているのね」
「へぇ……なんだか大変だね」
「私の本当の気持ちを言ったら、たぶん怒られちゃうわね。だから今はまだ、ナイショ」
本校を卒業したら両親と闘うのだと、ステラは言う。彼女の科白には不穏な響きがあったものの、ステラの表情は明るい。他愛のない会話を楽しみながらもどこかでハルのことが気にかかっていたが結局は訊けないまま、葵はステラと過ごす残り少ない時間を満喫した。
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