「あ〜腹が立つ!」
怒声と共に少年の目前にあったテーブルが派手な音を立ててひっくり返り、その上に乗せられていた食器が大理石の床に散乱した。繊細な食器は落下の衝撃で破壊され、皿を彩っていた料理の数々も床で無残な様相を呈している。その光景を作り出したのは、高級そうなインテリアで固められたこの部屋の主だ。黒髪に黒い瞳といった世界でも珍しい容貌をしている少年は、名をキリル=エクランドという。
「しょうがないよ、キル。理事長直々のお達しじゃ、僕らでも逆らえない」
キリルから少し離れた場所にあるソファで悠然とグラスを手にしている少年が宥めるような口調で言葉を紡いだ。燃えるような赤い髪に恐ろしいまでの女顔が印象的な彼の名はウィル=ヴィンスという。淡白な物腰のウィルの発言は火に油を注ぐ結果にしかならず、さらに苛立ちが増した様子のキリルは室内にあった胸像をも蹴り倒した。
「アオイがフロンティエールからの留学生だったなんてな。そりゃ、魔法も使えないはずだぜ」
キリルの乱暴から少し間を置いて、ウィルの隣に腰かけている茶髪の少年が独白のように零しながら話に介入した。スポーツマンタイプのがっちりした体躯をしている彼の名はオリヴァー=バベッジ。今、この室内にいる三人がトリニスタン魔法学園アステルダム分校の現在のマジスターである。
本日の日中、アステルダム分校では宮島葵という少女を中心とした、ある騒動があった。その結末は思わぬ方向に転がり、結果としてキリルの機嫌が一段と悪くなってしまったのである。ウィルは淡々としたままだが彼も珍しく、事の顛末にいささかの不満を感じているようだ。しかし途中から強制的に退場させられていたオリヴァーだけは、この事態を喜んで受け入れていた。
「キルがどうしてああなったのかは分からなかったけど、要はアオイと関わらなけりゃ済む話なんだからさ。もうアオイのことは忘れようぜ」
「そんなこと言って、オリヴァーはこれからもアオイと親しくするつもりなんでしょ?」
ウィルが予想外の反論をしてきたので、オリヴァーは首をひねるついでに隣を振り向いた。
「何でだ?」
「フロンティエールからの留学生だよ? 興味ないの?」
「ああ!」
ウィルが何を言っているのか理解したオリヴァーは納得して手を打った。しかし忘れようと朗らかに言ってしまった手前、興味があるとも言い出せずに眉根を寄せる。難しい表情になってしまったオリヴァーを見てウィルは呆れたような顔をした。
「別にアオイと仲良くしたっていいんじゃないの? 理事長のお説教から察するに、要は彼女に危害を加えなきゃいいんだろうし」
「ウィルは興味、なさそうだな?」
「前から言ってるじゃない。僕は魔法を使えない人間には興味ないって」
「それがフロンティエールの人間でもか?」
「彼らがどうして魔法を使えないのかは分からないけど、そんなことには興味ないよ。使えない人間を観察するよりも魔法書の一冊でも読破した方がよっぽど有益な時間が過ごせるからね」
「相変わらず、その辺は徹底してるのな。でも俺、お前のそういうとこ好きだぜ」
「オリヴァーに言われてもね。嬉しくも何ともないよ」
オリヴァーの好意をさらりと受け流し、ウィルはバイオレットの液体が注がれているグラスを静かに口に運ぶ。オリヴァーもニカッと笑い、こちらは豪快にグラスの中身を一息で干した。葵を巡って意見の対立があった時は少しぎこちない関係になっていたものの、衝突の原因が失われた今、オリヴァーとウィルの間柄はすっかり元に戻っている。しかしそんな二人に対し、未だ不機嫌を拭いきれないでいるキリルは手にしていたグラスを叩き割ることで和やかな雰囲気をぶち壊しにした。
「てめぇら、なに勝手に話終わらせてんだよ!」
「じゃあ訊くけど、キルは何をどうしたいの?」
ウィルに理性的な疑問をぶつけられたキリルは言葉に詰まり、荒れ狂っていた感情を面から消し去った。真顔に戻ったキリルが問いの答えを考えているようだったので、オリヴァーとウィルは黙したまま彼が語り出すのを待つ。しばらくの沈黙の後、キリルはまだ頭の整理が終わっていないような様子のまま口火を切った。
「あの女とあの教師野郎をぶっ飛ばす」
「いや、無理だろ。それに趣旨変わってるし」
オリヴァーが呆れた口調でツッコミを入れたのはキリルが当初、友人であるハル=ヒューイットとステラ=カーティスの気持ちを知るために葵を振り向かせようとしていたからだ。それが思いも寄らない事態が起こったため、いつの間にかキリルが葵を追いかける理由は『ぶっ飛ばすため』に変わってしまったようだった。しかし現実には、どういうわけかキリルは葵に頭が上がらない。加えて、キリルが『あの教師野郎』呼ばわりしたロバート=エーメリーは、アステルダム公国の統治者の子息なのである。そんな人物をぶっ飛ばしてしまったら、どこからどんな制裁が加えられるか分かったものではない。つまりキリルの希望は、両方とも実現不可能ということだ。
「アオイはともかく、理事長をぶっ飛ばしたいならハーヴェイさんに相談してみなよ。エクランド家の権威を持ってすればエーメリー家なんて弱小貴族でしょ?」
ハーヴェイ=エクランドはキリルの兄に当たる人物で、将来的に公爵の称号を受け継ぐことが決まっているエクランド家の長男である。公国を治める公爵は爵位を持つ身でも最高ランクに当たるが、その公爵家の内にも階級というものが存在する。エーメリー家が下等の三位に位置しているのに対し、キリルの生家であるエクランド家は上等の一位クラスの公爵家なのだ。しかしウィルが話題に上げた人物の名に、キリルは表情を凍りつかせたまま動きまで止めてしまった。そんなキリルの様子に、ウィルとオリヴァーは小さく吹き出す。
「相変わらず苦手に思ってんだな、ハーヴェイさんのこと」
「いや、キルはハーヴェイさんのこと好きでしょ」
お互いの子供時代を知っているオリヴァーとウィルはそれぞれにハーヴェイという人物についての意見を述べたが、当のキリルは固まったまま動かない。凍り付いてしまったキリルを現実に引き戻すため、早々にハーヴェイの話題を打ち切ったオリヴァーは別の話題を彼に持ちかけた。
「ま、そういうことだ。もうアオイのことは忘れてやれよ。他人の恋路のジャマするなんてカッコ悪いだろ?」
オリヴァーが何気なく放った一言に対し、それまで呆けていたキリルの瞳に正気が戻った。
「それ、どういう意味だ」
キリルが思いのほか真剣な面持ちで問いかけてきたため、軽口のつもりで話をしていたオリヴァーも笑みを収める。その間も、キリルは表情を動かすことなくオリヴァーからの返事を待っていた。妙だと思ったオリヴァーは眉をひそめながらキリルの顔色を窺う。
「キル?」
「どういう意味だって訊いてんだろ! 答えろよ!」
「分かった! 分かったって!」
痺れを切らせたキリルに胸倉を掴まれたため、オリヴァーは逃げ出しながら葵に恋人がいることを明かした。オリヴァーの話を聞いたキリルはさらにヒートアップしてしまい、矢継ぎ早に問いを重ねてくる。そして葵の恋人について根掘り葉掘りオリヴァーを問い質した後、キリルは慌しく部屋を出て行ってしまった。
「な、何なんだよ」
予想外の反撃に遭ったオリヴァーはキリルが去って行った後の扉を見つめ、困惑気味に独白を零した。オリヴァーが零した疑問に、傍観者を決め込んでいたウィルが簡潔な仮定を投げかけてくる。
「追い回してるうちにホントに惚れちゃった、とか?」
「キルがアオイを? そりゃないだろ」
「さあ、どうだろうね? 僕がアオイにカマかけた時も、何か必死で叫んでたし」
「ああ……」
昼間、ウィルは葵に思いきり頬を張られた。その腹いせとして彼は、自分に恋愛感情を教えてみろと葵にキスを迫ったのである。その場に居合わせたキリルは確かにその時、制止の叫びを発していた。そのことを思い返したオリヴァーはウィルに相槌を打ったのだが、彼が提示した意見にはとても納得がいきそうになかった。
「ついさっき、ぶっ飛ばしてやるって言ってたのに?」
「僕はただ、可能性の話をしただけだよ」
あいにく恋愛なんて感情は知らないんでねと、ウィルは悠然とした態度でグラスを傾ける。本人のいないところでこれ以上の憶測をしていても意味がなさそうだったので、オリヴァーも空になったグラスに新たな液体を注ぎ、腰を落ち着けたのだった。
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