響かない想い

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 天空にくすんだオレンジの二月が浮かぶ夜、中世ヨーロッパ風のパンテノン市街は月色に染まって幻想的な雰囲気を醸し出していた。月が中天にかかる頃になると営業している店はほとんどなくなるため、昼間は人で溢れているアベニューもストリートも一様に寂しい眺めとなる。そんな人通りの絶えたストリートに一つの影が落ちていた。背後からの月明かりに照らされて長く伸びた影は、フォースアベニューを横切ってフィフスストリートへと向かっている。その人影はやがて、すでに看板を下している一軒の工房の前で歩みを止めた。寂しい夜の通りを疲れた顔をして歩いていたのは白いシャツにチェックのミニスカートという出で立ちをした一人の少女である。黒髪に黒い瞳といった世界でも珍しい容貌をしている彼女の名は、宮島葵。鍵のかかっていない扉を開いて店内へと進入した葵は勝手を知っている様子で迷いなく歩を進め、居住部分へと続く扉の前で立ち止まると軽いノックをした。

 初めのノックには反応が返ってこなかった。すでに夜も更けていたので、この家の住人も眠ってしまっているのかもしれない。それでも他に行く当てのなかった葵は藁にも縋る気持ちで再び扉を叩いた。すると今度は、扉を隔てた向こう側で人が動くような気配がする。それからしばらくすると扉が開かれ、少年が顔を覗かせた。

「アオイ」

 扉の前に佇んでいた葵と顔を合わせるなり、少年は驚いたような表情をした。彼の名は、ザック。フィフスストリートに居を構える工房の主だ。ザックの顔を見た途端に気が緩んでしまったため、葵は彼の驚きに弱々しい苦笑でもって応えた。

「遅くにごめん」

「それは大丈夫だけど……どうしたの?」

「今夜、泊めてくれない?」

 俯き加減に喋っていた葵には分からなかったのだが、ザックは葵からの申し出に明らかな狼狽を見せた。ザックからなかなか返事がこなかったので、葵は伏せていた目を上げてみる。するとザックは何故か、照れたような困ったような、複雑な表情で視線を泳がせていた。

「ごめん。今夜はリズが帰って来ないから、ダメだ」

「どうして?」

「僕も男だから」

 二人きりでいて何もせずにいられる自信がないと、顔を背けたザックはいつになくぶっきらぼうな調子で言葉を次いだ。ザックから返ってきた予想外の反応に、葵は目を瞠る。しかし驚きはすぐに悲しみへと変わり、葵は泣きたい気持ちで顔を伏せた。

「……そっか」

 自分も男だからというザックの一言が、重たく胸に沈んでいく。ザックのことは、大好きだ。これが別の場面で聞かされた科白だったなら彼の想いを受け入れていたかもしれない。だが今だけは、その言葉を言って欲しくなかった。それが身勝手に過ぎないことは理解していたので、葵は泣かないようきつく唇を引き結んだ。

「……アオイ?」

「ごめん、帰るね」

 眉根を寄せているザックに精一杯の笑みを向けてから、葵は踵を返した。本当は、帰れる所などありはしない。頼れる人も、ザックを除いて他にはいない。だが、駄目なのだ。今夜だけは、ここにいてはいけない。こんな気持ちのまま傍にいるとザックまで傷つけてしまいそうで、葵は彼の視界から姿を消すべく外へと急いだ。

「アオイ、ちょっと待って」

「気にしないで。遅くに押しかけてごめんね」

「アオイ!」

 ガラス細工が並ぶ店舗部分まで来たところで腕を取られ、葵は歩みを止めざるを得なかった。だが口を開けば泣き出してしまいそうだったので、ザックと目を合わせないようにしながら必死で涙を呑みこむ。独りで耐えていると不意に視界が揺らぎ、気がついた時にはザックの腕に抱きすくめられていた。

「ごめん。さっき言ったことは忘れていいから」

 泊まっていきなよと、耳元でザックの声が言う。優しい温もりに触れて張り詰めていた糸が切れてしまった葵はザックの胸で声を上げて泣いた。

「……ごめん、ありがと」

 ひとしきり泣いた後、落ち着きを取り戻した葵は鼻声でザックに話しかけた。ザックがすんなりと腕の力を緩めてくれたため、葵は体を離してから両手で顔を拭う。それから改めてザックを見ると、彼の胸元にはくっきりと涙の染みができていた。

「うあ、ごめん」

「気にしなくていいよ。夏期だし、すぐに乾くから。それよりアオイ、夕飯は食べた?」

 ザックが何事もなかったかのように話しかけてくれたので葵も気負うことなく素直に首を振った。葵からの返事を得たザックは店舗の奥にある居住部分へと続く扉を指し示す。

「リズがいないから簡単なものしかないけど、ご馳走するよ。行こう」

 普段と何ら変わらない気安さで、ザックは葵を自宅へと招き入れた。だが意図的に触れないよう配慮していることは明らかで、そのことに気がついてしまった時、葵は改めてザックに申し訳ないことをしたと実感した。

「……何も、訊かないの?」

 罪悪感に苛まれた葵は黙っていることが辛くなり、自分から口火を切った。だが昼間の出来事を話してしまえば、それこそザックを傷つけることになるだろう。葵がそうした逡巡に苦しんでいると、ザックは苦笑いを浮かべながら首を振って見せた。

「話したくなさそうだし、訊かないよ。それに今夜はアオイも冷静じゃないだろう? そういう時は何も言わない方がいい」

「……ザックって大人なんだね」

 同い年なのにと、葵は目を伏せながらぼやきを口にした。小声の独り言を聞きつけたザックは朗らかに笑う。

「まあいちおう、扶養家族がいる身だからね。それより早く食べて、早く眠りなよ。僕は自分の部屋にいるから、アオイはリズの部屋を使うといい」

 ザックが普段通りに接してくれるほどに胸が締め付けられていく気がした葵は聞こえないように小さく「ありがとう」と呟いた。鼻がつまっているせいか料理の味を感じることは出来なかったものの、渇いた体に暖かなスープがしっかりと沁みこんでいく。スープ皿を空にしたところでスプーンを置いた葵はザックに別れを告げ、リズの部屋へと入って行った。

 ベッドに転がると今まで失念していた疲れが一気に押し寄せてきた。思えば、トリニスタン魔法学園を後にしてからは途方に暮れながら歩き続けてきたのだ。そしてザックの他には頼れる者がなく、ここへ行き着いた。

(悪いこと、したよね)

 冷静になって考えてみればザックの言っていたことはもっともなことだった。ザックは家族ではなく、普通の友人ともまた少し違う。彼は、男の子なのだ。男女の関係である以上、一夜を共に過ごすことになればそういうこと・・・・・・になったとしても何も不思議なことはない。だが彼は、葵のために自重してくれた。ザックのことを好きだと思う気持ちもあるだけに、葵にはそれがひどく居た堪れなかった。

(……ダメだ、寝よう)

 ザックも言っていたように、今夜の自分は冷静ではない。そういう時は何を考えてもダメなのだと自分に言い聞かせた葵は無心に努め、そのうちに深い眠りへと誘われたのだった。






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