響かない想い

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 眠りから覚めて目を開けると、視界がやけに狭かった。何故だか首がひどく痛むような気がして、葵は無意識のうちに体を回転させる。仰向けに転がって目にしたものは見覚えのない天井だった。しかし、いつも寝室として使用している部屋とは対照的な狭苦しい眺めが心に懐かしさを広げていく。寝起きの冴えない頭でそんなことを思った葵は深く息を吐き、妙に重たい瞼をゆっくりと下ろした。

 決して上質とは言えないベッドに背を預けているうちに、まどろんでいた意識は次第に覚醒してきた。腫れぼったい瞼を一気に持ち上げた葵はそのままの勢いで上体を起こし、ベッドの端に腰かけて周囲に視線を走らせる。そうして改めて自分の置かれている状況を確認した葵は、ここが自宅でも貸し与えられている屋敷でもないことを認識した。

 ベッドを下りた葵はその足でリズの部屋を後にしたのだが、彼女の部屋に面している手狭なリビングには誰の姿もなかった。周囲に建物が密集しているため日当たりのよくない室内からでは正確なところは分からなかったが、窓の外の明るさから察するに太陽はもう高く昇っているようである。

「ザック」

 ザックが私室としている部屋に呼びかけてみても、反応は返ってこなかった。すぐに踵を返した葵は店舗へと行ってみたのだが、そこにも人影はない。溶鉱炉のある作業場を覗いてみても、それは同じだった。

(まだ寝てるのかな……)

 そう思った葵は居住部分へと引き返し、もう一度ザックの部屋をノックしてみた。しかしやはり、反応は返ってこない。いちおう断りを口にしてから扉を開けてみると、ザックの部屋はもぬけの殻だった。

(出掛けたのかな)

 主のいない他人の家に一人で取り残された葵はあれこれと考えを巡らせながらザックの部屋の扉を閉ざした。扉を背にして振り返ると、テーブルの上に目が留まる。そこには一人分と思われる食事が用意されていて、テーブルの傍へ歩み寄った葵は食事の横に置かれていたメモのような紙を手に取ってみた。

(……何て書いてあるんだろう)

 不完全な形で異世界に召喚されてしまった葵には、この世界の文字を読み取ることが難しい。それが魔法に関することであれば少しは勉強を積んでいるのだが、日常的な会話を文字にされるとさっぱり分からないのだ。だがおそらく、このメモはザックが出掛けるという旨を記していったものだろう。状況からそう判断した葵は、とりあえず用意された食事に手をつけることにした。

(おいしい)

 味覚がおかしくなっていた昨夜は感じることが出来なかったが、ザックやリズの料理は手作りの素朴な味がするのだ。それは一つ呪文を唱えるだけで出来上がる無機的なものではなく、人の手の暖かさが内包されている。ふと、毎日自分のために食事を用意してくれている少女の顔を思い浮かべた葵は静かにナイフとフォークを置き、テーブルの上を簡単に片付けてから立ち上がった。

(よし、)

 置手紙を残していけない代わりに空の皿で感謝の意を示し、葵はザックの家を後にした。表へ出るとすでに太陽は高く昇っていて、石造りの街並みを明るく照らしている。ザックの工房があるフィフスストリートから少し歩き、人気のなくなった裏通りで足を止めた葵はスカートのポケットを探り、そこから銀細工が施された小さな呼び鈴を取り出した。

 呼び鈴を軽く振ると間もなく、一条の光が眩い空から降りてきた。光が薄れるとそこには、メイド服を身に纏った少女の輪郭が浮き彫りになる。彼女の名は、クレア=ブルームフィールド。緊張に顔を強張らせた葵は小さく喉を鳴らし、代わり映えのしないクレアの無表情を見つめた。

「お帰りですか?」

 淡白に口火を切ったクレアの声音にも変化はない。葵が無言で頷くと、クレアはポケットから取り出した形状記憶カプセルを地面に叩き付けた。砕け散ったカプセルは石畳で軌跡を描き、やがて葵達の足下に魔法陣を出現させる。魔法陣の上でクレアが呪文を唱えると、葵達は生活の場である屋敷へと移動した。

「……クレア、」

 屋敷に戻るなりクレアがさっさと歩き出したので、葵は彼女の背に向かって声をかけた。呼び止められたクレアはその場で振り返り、次なる言葉が投げかけられるのを黙して待っている。昂りそうな気分を落ち着かせるために一つ息をついてから、葵は言葉を重ねた。

「昨日帰って来なかったこと、何も訊かないんだね」

「主人の事情に使用人が口を出すべきではありませんから」

 使用人は、家族とは違う。初めて顔を合わせた時から『あくまで自分は使用人』という立場を譲ろうとしないクレアの淡白な態度が、言外にそう告げていた。彼女はことあるごとに『主人の都合』という言葉を口にするが、葵は彼女の主人などではない。彼女の本当の主人は、誰なのか。葵はそれを、この場で確かめておかなければならなかった。

「私、クレアの主人なんかじゃないよ。それはクレアの方が、私よりよく分かってるはずじゃない?」

 クレアからの反応は、返ってこなかった。口を閉ざした彼女は微かに眉根を寄せていて、不審そうな面持ちで葵の出方を窺っている。極度の緊張を感じた葵は気持ちを落ち着かせるためにもう一度息を吐き、それから意を決してクレアを見据えた。

「クレアの本当の主人って、誰?」

「お嬢様が何を仰られているのか、わたくしには分かりかねます」

「とぼけないで! 本当のことを教えてよ!」

 葵にはクレアのような使用人を雇った覚えなどない。それどころかどうやって使用人を雇うのか、その方法すら知らないのである。にもかかわらずクレアがやって来たのは、葵の知らないところで第三者の意思が働いているからなのだ。葵がそういった内容を捲くし立てると、突然の激昂に瞠目していたクレアは次第に無表情になっていった。

「お嬢様のお気持ちは分かりました。ですがその問いに対する答えは、わたくしの一存では口にすることが出来ない類のものなのです。確認して参りますので、お嬢様はお部屋でお待ち下さい」

 使用人の顔に戻ったクレアはそう言い置くと屋敷の方へと歩を進めて行った。クレアから少し遅れて歩き出した葵がエントランスホールへ辿り着いた頃には、もう周囲に人影はなかった。クレアがどこに姿を消したのかは分からなかったが彼女はいちおう、葵に答えをくれることを約束してくれたのである。それがどんな内容になるのかはまだ分からないが、葵は言われた通り二階の隅にある寝室へと戻ることにした。

 クレアからの返答を待っている時間は永遠ではないかと思われるくらい長いものだった。どのくらい長かったのかと言えば、待っている間に夕食を済ませてしまったくらいである。クレアが改まって訪ねてきたのは結局、くすんだオレンジ色の明かりが室内を染め上げる夜になってからだった。

「雇い主からお許しをいだきましたので、お嬢様の質問にお答えいたします」

 キングサイズのベッドでクレアを迎えた葵は彼女のそんな一言に再び緊張を漲らせた。ここでアルヴァ=アロースミスかロバート=エーメリーの名が出てくれば、クレアも間違いなく彼らの共犯者である。そうなった時の覚悟はすでにしているものの、出来ればそんな答えは聞かされたくない。葵がそんなことを思いながら待っていると、クレアはついに問いの答えを口にした。

「わたくしの雇い主はユアン=S=フロックハート様です。わたくしはユアン様のご下命を拝し、お嬢様のお世話をさせていただくためにこのお屋敷へやって参りました」

 それまで緊張でがんじがらめにされていたのが嘘のように、ユアンの名を耳にしたところで葵の心は一気に解放された。脱力のあまりベッドに倒れこんだ葵は無性におかしさがこみあげてきてしまい、クレアに気味悪がられながら笑い声を漏らす。

「なーんだ、そっか。ユアンかぁ」

 ホッとしたのは、この生真面目な使用人を好きになっていたからなのかもしれない。そんなことを自覚してしまった葵はベッドに投げ出していた体を起こすと気の抜けた笑みをクレアに向けた。

「悪いんだけどさ、今からトリニスタン魔法学園に転移させてくれない?」

「今から、ですか」

 月はすでに、中天に昇っている。窓に視線を傾けたクレアが言いたいのはそういうことのようだったが、葵は気にせずにベッドから飛び下りた。

「そ、今から。帰りは歩いてくるから、クレアは寝てていいよ」

「そういうわけには参りません。お嬢様のお世話をさせていただくのがわたくしの仕事ですから」

 お帰りの際はベルを鳴らして下さいと言う、いつものクレアの態度が無性におかしくて、葵はまた声を上げて笑ってしまった。何かが切れてしまっている葵の態度にクレアは訝しそうな表情をしていたものの、そこは使用人のプロだけあって余計なことは口にしようとしない。どうやら無表情に徹することにしたらしいクレアに転移魔法で送ってもらい、葵は夜のトリニスタン魔法学園へと向かった。






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