丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校は天高く上ったオレンジの月に照らされて静かに色彩を変えていた。平素であれば無人の時間帯、正門付近に描かれている魔法陣に出現した葵は古城のような眺めになっている校舎へと歩を進めて行く。彼女の顔には先程までクレアに見せていた笑みはなく、代わりに静かな怒りが滲んでいた。
人気のない夜の校舎に進入した葵はその足で、一階の北辺にある保健室へと向かった。通常は『保健室』として使用されているその場所の閉ざされた扉の前で歩みを止めた葵は、スカートのポケットから小さな鍵を取り出す。ここ一ヶ月ほどその鍵は用途を果たせなくなっていたのだが、この夜は縦に差し込まれた鍵がパタンと横に倒れた。
『保健室』ではなくなった部屋の扉を開けた葵は、室内にすぐ求めていた姿を発見した。鮮やかな金髪にブルーの瞳が印象的な美貌の青年は、この学園の校医であるアルヴァ=アロースミスだ。深夜にもかかわらず白衣を着用したままの彼は壁際のデスクで悠然と座っており、特に心を乱した様子もなく葵を迎えた。
「来たか」
葵が後ろ手に扉を閉ざすなり、アルヴァはそんな独白を零した。嘆息しているアルヴァに大股で歩み寄った葵は彼の両肩を鷲掴みにし、にっこりと笑いながら口火を切る。
「アル、一発殴らせて」
「……そうきたか。まあ、それでミヤジマの気が済むなら好きにしたらいいよ」
「じゃあ、遠慮なく」
溜まりに溜まったストレスを一撃に込め、葵は渾身の一発をアルヴァにお見舞いした。敢えて平手ではなく握り拳で殴ったため、顔を背けたアルヴァは小さく呻き声を漏らす。しかし何故か、アルヴァの受けたダメージは軽かった。
「思いっきり殴ったのに、何で腫れないの?」
きめ細かいアルヴァの肌には赤味すらなく、不思議に思った葵は彼の頬を注視した。見られるのを嫌がるように頬を手で覆ったアルヴァはすっと立ち上がり、葵から距離を取りながら返事を寄越す。
「傷が目につくと見苦しいからね、そういう魔法をかけているんだ。それでも、痛みが消えるわけじゃない。ミヤジマ、本当に手加減なく殴っただろ?」
「うん、手加減なんてしてないよ。あ〜、スッキリした」
諸悪の根源を一発でも殴ったことで気分爽快になった葵は保健室風の簡易ベッドにどっかりと腰を落ち着けた。葵が離れて行ったのを見て、アルヴァも指定席へと戻っていく。デスクに背を向けてイスに座ったアルヴァが煙草を取り出すのを見て、葵はさっそく本題を口にした。
「で、もちろん説明してくれるんだよね?」
「そう、主語もなしに言われてもね。何の……」
「アルが隠してること全部だよ」
言葉の続きを紡ぎかけていたアルヴァはいつになく強気な葵の態度に押され、成す術がないといった風に閉口した。しかし葵は沈黙を許さず、矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「じゃあまず、アルとロバート先生の関係から説明してもらおうかな。もちろん、知り合いだったんでしょ? それで、自分達が知り合いだってことを私に隠してたんでしょ?」
「……分かったよ」
煙草の煙と共に深いため息を吐き出したアルヴァは仕方がなさそうな表情になりながら髪を掻き上げた。本当はもっと嫌味を言ってやりたい気分だったのだが、そこで口を閉ざした葵は黙してアルヴァの言葉を待つ。デスクの上の灰皿で煙草を揉み消した後、アルヴァはまた嘆息してから説明を開始した。
「じゃあまず、ロバート=エーメリーについてだが、ミヤジマもすでに知っている通り、彼はこの学園の理事長だ。身分的には、僕らが今いるアステルダム公国を治めるエーメリー公爵家の息子ということになる」
「その辺は何となく知ってる。で、アルとの関係は?」
「トリニスタン魔法学園の本校に通っていた時の同窓生だ」
「本校って……ステラ達が行っちゃったところ?」
アルヴァが嫌そうな表情を浮かべながら頷いて見せたので、そこでいったん話を切った葵は考えを巡らせた。トリニスタン魔法学園の本校に通っていたということは、アルヴァやロバートはステラやハルの先輩ということになる。本校の特異性についての説明はすでに受けていたので、葵は意外な面持ちをアルヴァに向けた。
「へ〜、エリートなんだ」
「ロバートはともかく、僕は卒業していないからエリートではないよ」
「ふうん。で、アルは何でロバート先生と知り合いだってこと隠してたの? ウサギにいないとか言わせたのもそれと関係があるんでしょ?」
「その説明をするにはもう少し、ロバート=エーメリーという人物について触れる必要があるな」
そう言い置いた後、アルヴァは脈絡もなく「ロバートはロリコンだ」と葵に告げた。唐突な暴露話を聞かされた葵は微かに眉をひそめ、それから本格的に眉間にシワを寄せる。
「それってどういうこと?」
「そのままの意味だよ。ミヤジマは処女であるというだけでロバートに気に入られたんだ」
「なっ!?」
話の突拍子のなさもさることながら、打ち明けた覚えのないプライベートまで暴かれて、葵は続ける言葉に詰まってしまった。葵の反応を見て、アルヴァは深いため息を零す。
「あのね、ミヤジマ。ミヤジマが処女かどうかくらい男なら誰でも分かることだから。ついでに言わせてもらうと、恋人がいた経験もないだろう?」
「何でアルにそんなこと言われなくちゃいけないのよ!」
「ほら、その反応。そんなの頷いているのと同じだよ」
「う……」
「こんな時、余裕のあるいい女は黙ってミステリアスな笑みを浮かべるもんだよ」
アルヴァによく分からない説教をされた葵は反論が思いつかなかったので黙ってしまった。しかしこのままでは、責め立てている立場が逆転してしまう。そう思った葵は衝撃的な事実は脇に置いておくことにして、とりあえず話を進めた。
「私がロバート先生に気に入られたことと、アルがロバート先生との関係を隠してたことはどうつながるのよ」
「つまりね、僕はロバートに脅迫されていたんだよ。レイチェルから言い含められているから本当はミヤジマを助けたかったんだけど、僕は貴族の出でもないからね。公爵家の一員であるロバートには逆らえないんだ。加えて、僕とロバートの間には本校の同窓生という馴染みもある。だからロバートは自分の希望を叶えると同時に、僕に対する配慮も示してくれたというわけだ」
「……説明が長すぎてよく分からなかったけど、アルは本当は私を助けようと思ってくれていたのね?」
「そうだよ。さすがにミヤジマが好きでもない男に純潔を奪われるのは忍びないからね」
「絶対ウソだ」
葵がそれまでの話を全否定すると、饒舌気味に喋っていたアルヴァは静かに閉口した。それから少し間を置いた後、アルヴァの方が再び口火を切る。
「そう断言する根拠は?」
「アルが私の心配してたってところがもうすでにウソっぽい。それに好きでもない男になんて言うけど、本当はロバート先生のことを好きにさせようとしてたんじゃないの?」
以前にもそういった趣旨でアルヴァに勝手なことをされた経験のある葵はどうしても疑念を拭うことが出来なかった。アルヴァが行方をくらませたのが
「驚いたよ。ミヤジマは僕が思っていたよりもずっと頭がいいらしい」
「……それってつまり、今私が言ったまんまのことをアルがしてたってこと?」
「まあ、概ねそういうことになるな」
アルヴァがあまりにもあっけらかんと言うので怒りを噴出させた葵は勢いよくベッドから立ち上がった。その足で壁際のデスクに歩み寄った葵は怒りに任せてアルヴァの胸倉を掴み上げ、声を荒らげる。
「何でそんなことするのよ! 勝手なことしないで!!」
「今僕が謝ったところで、きっと聞き入れる気にはなれないだろうね」
「当たり前でしょ!! サイテーだよ、アル!」
「じゃあ、僕が何故ミヤジマを誰かと付き合せたがるのか、その理由だけ話しておこうか」
アルヴァの口から飛び出したのは思ってもみなかった言葉であり、呆気に取られた葵は一瞬怒りを失念してしまった。葵の手が緩んだ隙を逃さず、アルヴァはするりと葵の拘束から抜け出す。そうして室内に佇んだアルヴァは乱れた胸元を正してから真意を口にした。
「端的に言う。ミヤジマ、君は元の世界へは帰れない」
アルヴァのいなくなったイスに手を突いたままでいた葵は屈めていた上体をゆっくりと起こし、背後を振り返る。振り向いた先には真顔のままのアルヴァがいて、彼は淡々と話を続けた。
「この学園はね、ミヤジマのための花婿探しの場なんだよ。トリニスタン魔法学園の生徒なら皆それなりの家柄だし、将来的に苦労することもないだろう。それに分校に通う生徒くらいなら何かあった時にも簡単に黙らせることが出来る。まあマジスターは想定外の相手だったんだけど、途中から容認することにしたんだ。結局、ミヤジマはハル=ヒューイットにフラれてしまったけどね」
アルヴァが饒舌に語るのを、葵は呆けながら聞き流していた。アルヴァの発言にはあまりにも大量の情報が含まれていて、理解しようにも思考が追いつかないのだ。だが葵に理解させようという気はあまりないらしく、アルヴァはさらに話を進めて行く。
「仮に誰からも相手にされなくても、ミヤジマは心配しなくていいよ。すごく不本意だけど、そうなった時の覚悟はできているから。でも僕は、処女のワイフなんてまっぴらだ。だからミヤジマにもせめて、出来るだけ経験を積んでもらいたかったんだよね。僕がミヤジマの色恋沙汰に口を出していたのは、そういう理由だよ」
「……ちょっと、待って」
次第に頭がはっきりしてきた葵はそこで初めてアルヴァの話に割って入った。しかしその頃にはすでに話が終わっていたらしく、アルヴァは無言で葵の言葉を待っている。言いたいことも尋ねたいことも山ほどあったが、葵はまず一番気がかりなことから話題に上らせることにした。
「帰れないって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。ミヤジマが帰る方法なんて存在しない」
「だって、ユアンやレイがそれを探してくれてるはずでしょ?」
「探してはいるかもしれないね。でも無理なんだよ」
はっきりした根拠も示さずただ否定するだけのアルヴァの態度に、葵は次第に怒りを覚え始めた。アルヴァの話を真に受けて絶望してしまう前に、葵は再び声を荒らげる。
「そんなの信じない!」
「ミヤジマが信じるかどうかなんて問題じゃない。それよりミヤジマは建設的に恋愛すべきだよ」
「バカじゃないの!? こんな話聞かされて、そんな気分になれるわけないでしょ!」
アルヴァの無神経な態度に苛立ちを募らせた葵は勢いに任せ、「アルなんて大嫌い」という叫びを上げた。肩で息をするほど興奮してしまった葵に対し、アルヴァは平静を保ったまま言葉を紡ぐ。
「ミヤジマが僕を嫌いでも、君の力になれるのは僕だけなんだよ」
「もういい!」
アルヴァが相手では話にならない。またこれ以上話していたくもなく、葵はすれ違いざまにアルヴァを睨みつけると足早に保健室を後にした。
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