メイドがやって来た

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 寝室として使用している二階の一室を後にした葵は、その足で一階の片隅にある食堂へと向かった。すでに夜は明けていて、廊下の飾り窓からは暖かな陽光が差し込んできている。朝の冷涼な空気のために今はまだ爽やかな趣を呈しているが、この光は太陽の位置が高くなるにつれて殺人的に強さを増していくのだ。今日も暑くなりそうだと直感した葵はため息をつきながら窓から目を離した。

(そろそろ、学校に行かなくちゃかな)

 ステラやハルと別れを交わした日以来、葵はトリニスタン魔法学園に登校していなかった。今のところアルヴァからのお咎めはないのだが、さすがにそろそろ姿を現しそうなものである。なによりも葵自身、いいかげんショック状態から立ち直りたいと考えていた。

 生まれ育った異世界で常用していた高等学校の制服に着替えた葵はスカートのポケットに手を突っ込み、そこから携帯電話を取り出した。二つ折りタイプの携帯電話を開き、暗い画面を見据えながら電源ボタンを長押しする。通話やメールは不可能でも収容されているデータを見ることは出来るので、葵はディスプレイに映し出された待ち受け画面に見入った。電源を入れると同時にディスプレイに姿を現したのは眉目秀麗な黒髪の少年。彼は葵がもっとも愛する芸能人であり、名を加藤大輝という。

(よし、頑張ろう)

 大好きな人との対面も束の間、携帯電話の電源をオフにした葵は、それを再びポケットにしまった。充電器は持っているものの、この世界にはコンセントがないため、一度充電が切れてしまえばそれで終わりなのである。なるべく長く使用するために、葵は常に携帯電話の電源を落とすことにしているのだった。

 歩きながら携帯電話をいじっていた葵は、いつの間にか目的地に到着していた。貸し与えられただけの無駄に広い屋敷も、二ヶ月以上住んでいれば我が家同然となるようだ。すっかりこの世界での生活に馴染んでしまっている自分に若干の悲しさを感じながら、葵は食堂の扉を開けた。

「お待ちしておりました、お嬢様。こちらへどうぞ」

 室内の中央に置かれた縦に長いテーブルにはすでに数々の料理が並んでいて、葵はあまりの豪華さに目を疑った。バスケットいっぱいのパンやら深皿に盛られたフルーツやらは、とても一人分の朝食とは思えない量である。

「こんなに食べられないよ」

 葵が呆れながら料理から目を上げると、クレアは問題ないと言うように無表情を保ったままでいた。

「お好きなようにお食べくだされば良いのです。お嬢様がお残しになったとしても、決して無駄にはいたしません」

 クレアの言葉に反応したように、彼女の肩に居座っているマトが葵の方へと口先を向けた。マトの動きにビクッとした葵は深く突っ込まないでおこうと思い、クレアが示している席へ着く。葵が座り心地を調節している間に彼女の傍を離れたクレアは、魔法ではなく自身の手で紅茶を淹れ始めた。

「魔法、使わないんだ?」

 葵が驚いた声を上げると、クレアは人の手で出来ることはなるべく人間がやった方がいいのだという答えを寄越した。意味を捉え損なった葵が首を傾げるとクレアはまず食事をするように勧め、それから説明を開始する。

「無属性魔法は物に魔法文字を刻み、使用者が呪文スペルを唱えることで魔法を発動させます。しかしこれでは予め定められた行動以外は起こすことが出来ません」

 例えば紅茶の場合、魔法文字を刻まれた茶器は『アン・テ』という呪文に反応する。紅茶を淹れなさいという命令で動く茶器は実は茶葉の量から湯の温度まで定められていて、いつ淹れても同じ味にしかならない。同じ味が続くと人間の舌は飽きを感じてしまうため、常に美味しいと感じる紅茶を淹れるためには湯の温度や茶葉の量を気候や体調に合わせて微妙に変える必要があるのだ。そういった細かな調節が出来ないことが無属性魔法の限界なのだと、クレアは淡々と語った。

「あ〜、なるほどねぇ」

 思い当たる節のあった葵はクレアの解説にしみじみと頷いてしまった。

 一人暮らしを始めるにあたって、葵はアルヴァから料理の呪文を教わった。しかしレパートリーが少ないうえ、同じ味が延々と続くので、いつしか食事に楽しみを見出せなくなっていたのである。サニーサイドアップを口に運んだ葵は、これはクレアの手作りなのだろうと改めて思った。

「食事って、こんなに美味しいものだったんだ」

「メイドを初めて雇われた方は皆、お嬢様と同じことを仰るそうです」

 魔法が存在する世界においてどうして使用人が必要なのかを理解した葵は口の中に広がる幸せを噛みしめながら感慨深く頷いた。

「ときに、お嬢様。本日はどのように過ごされるご予定ですか?」

「学校に行こうかと思ってるけど……何で?」

「本日は休日でございます」

「えっ? 今日って何日だっけ?」

「岩黄の月の三十日です」

「と、いうことは……」

「明日から橙黄とうこうの月に入ります。盛夏になりますので、お体にはお気をつけください」

 クレアはおそらく、葵の思考に合わせて言葉を選んだのだろう。しかし言いよどんだ葵が考えていたのは、クレアが話題に上らせた事柄とは微妙にズレたものだった。葵がまず初めに考えていたことは、彼女の通うトリニスタン魔法学園の休日のあり方である。この世界へ来る以前に葵が通っていた高等学校は完全週休二日制だったのだが、トリニスタン魔法学園の休みは十日に一度。しかしこのところ学校を無断欠席していた葵は日にちの感覚が麻痺していて、その感覚を取り戻すために考えこんでいたのだった。次に、この世界の暦は月が入れ替わる三十日を一ヶ月としている。橙黄の月は葵が元いた世界での十月に相当するのだが、この世界には春と秋が存在しないため、夏月かげつ期の中盤である橙黄の月が夏真っ盛りなのだった。

「そっか……休み、なんだ」

 学園へ行こうと思って制服に着替えたこともあって、葵は拍子抜けしてしまった。トリニスタン魔法学園へ行かないのであれば、本日の予定は皆無である。どうしようかと思った葵はそのことをクレアに話し、何か暇を潰せる妙案はないかと尋ねてみた。

「ご予定がないのでしたら、パンテノン市街へ行かれるのがよろしいかと。月の終わりには市が開催されますので」

「へぇ。何が売ってるの?」

魔法道具マジックアイテムから食料品まで、何でもございます」

「そうなんだ? 行ってみようかな」

 どうせ家にいても、することは何もない。何もしないでいると余計なことばかり考えてしまうので、こういう時は気晴らしに外出した方がいいのかもしれない。そう思った葵はチラリと、窓の外を窺った。転移魔法を使えない葵がトリニスタン魔法学園よりも遠い市街へ行くには、大変長い距離を徒歩で往復しなければならない。そのため天候が気になったのだが、どうやら今日も真夏日和なようだ。

「市へ行かれるのでしたらお送りいたします。お帰りの際はこちらのベルを鳴らして下さい」

 葵が何を気にしているのかを的確に読み取ったクレアは、スカートのポケットから取り出した小さな呼び鈴ベルを食卓に置いた。手元に置かれた銀細工のベルから視線を上げた葵はクレアの無表情と出会って微かに眉根を寄せる。

(どこまで知ってるんだろう……)

 葵が尋ねないからなのか、クレアは自らの素性について詳しく語らないままでいる。しかしこちらから尋ねることも出来なかったので、不安を抱いた葵はやはり外出しようと思った。

「お食事は、もうよろしいのですか?」

 食後の紅茶に手を伸ばした葵を見てクレアが問いかけてきた。葵が頷くと、クレアの肩に腹這いになっていたマトがゆっくりと移動を開始する。マトが床に下りてから改めて、クレアは葵の元へ歩み寄って来た。

「では、お召し替えを」

「えっ?」

 すでに着替えを済ませている葵はキョトンとしながらクレアを仰ぐ。しかしクレアは有無を言わせぬ態度で葵の腕をとり、半ば強引に食堂を後にしたのだった。






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