メイドがやって来た

BACK NEXT 目次へ



 ザックの家で冷たい紅茶をご馳走になった後、葵は彼の工房を後にした。フィフスストリートに出た頃にはもう日が暮れかかっていて、通りには荷物を抱えて家路を急いでいる者達の姿が目立つ。帰ろうと思った葵は貸し与えられている屋敷がある方角へ向かって歩き出したのだが、視線を感じてすぐに足を止めた。

(何だろう?)

 やたらと通行人と目が合ったかと思えば、誰もがそそくさと葵から目を逸らしていく。中にはあからさまに笑い合いながら通り過ぎる者達もいて、不審に思った葵は改めて自分の出で立ちを確認してみた。

(……うわっ)

 工房の中にいたからなのか、葵のドレスは夕闇の中でも目立ってしまうほど薄汚れていた。さらに汗をかいたせいで化粧が崩れ、髪も好き放題に乱れている。これじゃ笑われても仕方がないと思った葵はそそくさと、フィフスストリートからさらに一本奥の路地へと身を潜ませた。

(どうしよう)

 この姿で人目に晒されるのは嫌だ。そう思った葵は腕を組み、何か妙案はないかと考えこんだ。

(そういえば……)

 出掛ける前にクレアが言っていたことを思い出した葵はドレスのポケットを探ってみた。そこから出てきたのはシルバー製の小さな呼び鈴ベル。帰る時にはこれを鳴らせとクレアが言っていたので、葵は試しにベルを軽く振ってみた。しかし何の音も、聞こえない。首を傾げた葵は先程よりも少し強くベルを揺さぶってみたのだが、それでもやはり何の音も聞こえてはこなかった。

「壊れてんの?」

 いくら振っても音がしないベルに失望した葵は思わず文句を漏らしてしまった。するとその直後、眼前に光があふれ出す。突然の発光に目を焼かれてしまった葵は固く目を瞑り、その後はしきりに瞬きを繰り返した。

「その呼び鈴は人間の耳には聞こえない音を発します。軽く振っただけでお嬢様がお呼びになっているのは分かりますので、あまり強く振らないでやって下さい」

 姿を目に留めるよりも先に声で、葵はその場にクレアがいることを察した。しかし突然の発光に晒された目はまだ霞がかった状態だったので、葵は視界を正そうと固く目を瞑る。少し待ってから目を開けると視界はだいぶ正常に近付いていて、今度は目前にいる人物の姿がはっきりと映った。メイド服姿のクレアがそこにいるということは、先程の発光は転移魔法に伴う光だったようだ。

「お帰りですか、お嬢様」

「あ、うん」

 葵の意向を受けたクレアはエプロンのポケットから何かを取り出し、それをおもむろに地面に叩き付けた。砕け散った『何か』は光を纏いながら路地を這い、やがて地面に魔法陣を描き出す。そうして出現した魔法陣に葵を誘ってから、クレアは呪文を唱えた。

「アン・ルヴィヤン」

 クレアが口にした呪文は『帰還』を意味するもので、ある特定の魔法陣へと移動することが出来る魔法である。貸し与えられている屋敷の前庭にある噴水付近に描かれた魔法陣に出現した葵はクレアを振り返り、改めてお礼を言った。使用人に礼など不要だと定型句を述べた後、クレアは葵の姿に目を留めて微かに眉根を寄せる。

「そのお姿は、どうなさったのですか」

「あ〜、これは……」

 自分がひどい有り様になっていることを思い出した葵はパンテノン市街での出来事を語ろうとしたのだが、あることに思い至って唇を結んだ。

(言わない方がいいかな)

 クレアとは今朝方知り合ったばかりで、葵はまだ彼女のことを何も知らない。どういう人物なのかも分からずに話をすることは、危険である。今までの経験からそのことを理解している葵は本当のことを胸に留め、適当な作り話で誤魔化すことにした。

「ちょっと、ハデに転んじゃって。それに今日も暑かったから汗だくだよ」

「では、お食事の前にバスをご使用下さい」

 葵にそう言い置いた後、クレアはさっさと屋敷の方へ歩き出す。首を傾げながらクレアの後を追った葵はバス=風呂という答えに行き着いて人知れず手を打った。

 豪奢な造りの二枚扉を開けて屋敷の中へ入ると、エントランスホールではマトが出迎えに来ていた。留守番をしていたらしいマトは一直線にクレアの元へ這い寄り、彼女の肩口へと上って行く。どうやらそこが、マトの定位置らしい。

(重くないのかな?)

 足を止めた葵が何とはなしに眺めていると、クレアが肩口のマトに顔を寄せた。クレアの動作に呼応するように、マトも顔を持ち上げる。そうしてパートナーだというマトと触れ合った後、クレアは改めて葵を振り返った。

「では、参りましょう」

 クレアに促されたので葵は再び屋敷の中を歩き出した。この屋敷のバスルームは奥まった所にあるので、エントランスホールを抜けて奥へ奥へと歩を進めて行く。バスルームの手前には十畳ほどの脱衣所があり、そこへ辿り着いた途端、少し前を歩いていたクレアがくるりと体の向きを変えた。

「失礼いたします」

 事務的に一礼した後、クレアは葵に向かって手を伸ばした。彼女がドレスを脱がそうとしていることを察した葵は慌てて体を引き、無意識のうちに胸元を腕で庇う。

「自分でできるから。着替えの用意だけお願いします」

「……かしこまりました」

 しつこくすることはせずに引き下がったクレアは、葵の意を受けて早々に脱衣所から姿を消す。一人になってようやく人心地ついた葵は汚れたドレスをゆっくりと脱ぎ始めた。

(着替えもそうだけど、何でもかんでもやってもらうのが貴族ってやつなのかな)

 家事全般をやってくれる人がいるというのは、非常に助かる。だが使用人を雇うことが一般的ではない世界に生きてきた葵にとって、着替えや入浴の世話まで焼かれてしまうのはどうにも性に合わなかった。

(お風呂はやっぱり、のんびり入りたいよね)

 そんなことを思いながら、葵は脱衣所からバスルームへと移動した。この屋敷のバスルームは銭湯並みの広さがあり、清潔感のある白を基調とした室内には水槽のような湯船が置かれている。湯船にはすでに湯が張られていて、その表面には摘みたての花が浮かべられていた。一人暮らしの時はそこまですることはなかったので、葵は改めて一流ホテルのスイートルームのような眺めに呆れてしまった。

(お金持ちって、こういう感覚なんだ)

 自分で何もしないのは楽でいいが、この生活に慣れてしまうと元の世界に帰った時に大変な思いをするだろう。そう思った葵は脱衣所から体を洗うかと尋ねてきたクレアに丁重な断りを入れ、あまり長湯をすることなく湯船を後にした。それでも時間にしてみれば、おそらく十五分から二十分は入浴していただろう。それだけの時間が経っているのに、脱衣所を出てすぐの場所でクレアが直立不動のまま佇んでいた。

「な、何してるの?」

 クレアの行動にギョッとした葵はわずかに身を引きながら問いかけた。葵が狼狽えているのに対し、クレアは眉一つ動かすことなく淡々と答えを口にする。

「見張りです」

「見張りって……何で?」

「主をお守りするのがメイドの勤めですから」

 クレアから答えになっていない答えを寄越された葵には首を傾げることしか出来なかった。彼女はノゾキでも出るかのような物言いをするが、そもそもバスルームにも脱衣所にも窓がないのである。覗きようもないと思ったが言及することはせず、葵はその話題をそこで終わらせた。

 バスルームを後にした葵はクレアに促され、そのまま一階の片隅にある食堂へと向かった。そこではすでに夕食の準備が整っていて、豪華だった朝食と同じくらいの料理が並んでいる。朝と同じく『一人分の量じゃない』という感想を抱いた葵は呆れながらクレアを仰いだ。

「やっぱり作りすぎじゃない?」

「これでも朝よりは量を減らしたのですが」

「もうちょっと品数少なくしていいよ」

 料理が残っても決して無駄にはしないとクレアは断言していたが、それでも食べ残す側である葵にとっては抵抗感が拭えなかった。どうしても、もったないと思ってしまうのだ。

「そうだ、クレアも一緒に食べない?」

 どうせ一人では食べきれないのだし、食事は誰かと共にした方が楽しい。葵はそう思ったのだが、クレアは考えることもなく首を横に振った。

「使用人が主人と同じテーブルに着くことはありません」

「……そっか」

 頑なな態度を崩そうとしないクレアを軟化させることは、天地を創造するくらい難しそうである。絶対に無理だと察した葵は早々に諦め、一人で黙々と料理を口に運んだ。

 無属性魔法が作り上げるパターン化された料理とは違い、クレアの用意してくれた食事には味わいというものが存在していた。しかし量が量だけに大皿一つを平らげることも出来ないまま、葵はそっとナイフとフォークを置く。葵がナプキンで口元を拭うと、クレアがすかさず紅茶を淹れた。食後の紅茶をゆっくりと干した頃には眠気が押し寄せてきて、クレアに部屋へ戻ることを告げた葵は静かに席を立った。食堂の片付けは後でするらしく、クレアは歩き出した葵の後ろにつき従う。まだ月が昇りきる前の暗い廊下へ出るとクレアがさっそく光を発生させ、葵の行く先を照らし出した。彼女の手際があまりにも良かったため、葵は妙な居心地の悪さを感じて眉根を寄せる。

(なんか、落ち着かないなぁ)

 今までは明かりをつけるにしても、どこかへ行くにしても、自分だけで出来ることは一人でやってきた。それを、こうも急に他人がやってくれるようになると、かえって落ち着きを失くしてしまう。だがクレアにやめろとも言えなかったので、葵はいつもより少しだけ足早に寝室へと向かった。

「おやすみなさいませ、お嬢様」

 葵がベッドに潜るまで付いて来たクレアは、そう言い置くと明かりを消してから踵を返した。キングサイズのベッドに仰向けに転がった葵は一つ息をついてから目を閉じる。

(今日は疲れたなぁ……)

 振り返れば新たな出会いがあったり、迷子になったりと、忙しない一日だった。だが家でも外でも一人ではなかったため、久しぶりに友人達との別れを失念していられたことは幸いだ。この調子で初恋も思い出にしていきたいと思った葵は寝返りを打って枕を抱いた。

(明日は学校、行こう)

 クレアがシーツを洗ってくれたのか、ベッドからは真夏の太陽の匂いがした。安心する香りが睡魔を呼び寄せ、葵は深い眠りへと落ちていく。そのまますぐに寝入ってしまったため、彼女が鞄の中でバイブレーションを繰り返している携帯電話の動きに気付くことはなかった。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2010 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system