新任教師

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 夏月かげつ期の中盤である橙黄とうこうの月の一日、その日も夏の夜は穏やかに明け、飾り窓から差し込んできている斜光が大理石の床に複雑な図形を浮かび上がらせていた。太陽の位置が高くなるにつれて少しずつ影を伸ばす図形は、有人の室内で人知れずシャドウダンスを披露している。それに目を留めたのはこの部屋の主ではなく、豪奢な二枚扉をそっと開けて進入してきたメイド服姿の少女と、彼女の肩にどっしりと腹這いになっているワニに似た生物だった。

「お嬢様、朝です。起きてください」

 未だキングサイズのベッドに潜ったままでいる主人に声をかけながら、メイド服姿の少女は薄手のカーテンが引かれている窓を開けた。カーテンが退けられた窓からはまだあまり強くない夏の日差しが射しこみ、爽やかな朝の空気と共に室内を洗浄していく。ベッドの中の人物は朝日を避けるように上掛けを頭までかぶり、くぐもった声で「あと五分」と呟いた。しかしメイド服姿の少女は容赦なく、シーツの塊でしかない主人に腕を伸ばす。

「お嬢様、起きて下さい」

 メイド服姿の少女が上掛けを剥ぎ取ったため、ネグリジェ姿のまま丸まっているこの部屋の主の姿が露わになった。寝ぼけた様子で体を起こしたネグリジェ姿の少女の名は、宮島葵。まだベッドの上でボーッとしている主人を横目に窓辺で紅茶を淹れ始めたメイド服姿の少女はクレア=ブルームフィールドという。そしてクレアの肩口にいる彼女のパートナーは、名をマトといった。

「どうぞ」

 クレアに差し出されたティーカップをソーサーごと受け取った葵は赤褐色の液体に寝ぼけた自分の顔を映した。ティーカップからはアーリーモーニングティーの芳しい香りが立ち上っていて、冴えない頭を少しずつはっきりさせていく。葵が紅茶を一口含んだのを確認してから、クレアは言葉を重ねた。

「朝食の用意が整っております。何かございましたら、ベルでお呼び下さい」

 クレアが顔を傾けた先には初めから室内に備え付けられていたデスクがあり、その上にはいつの間にかシルバーの呼び鈴ベルが置かれていた。葵がそちらに気を取られているうちに、クレアはさっさと室内から姿を消す。ベッドの上でゆっくりと紅茶を干した後、葵はようやく動き出した。

(誰かに起こされるなんて、変な感じ)

 この屋敷を貸し与えられてから葵はずっと、独りで生活してきた。だがこの世界へ連れて来られるまでは、朝の光景に家族の姿があることが普通だったのである。いつの間にかこの世界での暮らしが日常になっていたことに気がつき、葵は複雑な思いで顔を歪めた。

(お父さんとお母さん、どうしてるかな)

 せめて無事を知らせる電話の一本でも入れたいところだが、あいにく異世界では携帯電話も役に立たない。魔法が使えない葵には自力で元の世界へ帰る術もなく、ただその手段が見付かるのを待つことしか出来ないのだ。

(人任せって辛いなぁ)

 考えても仕方がないと諦めてはいるものの改めてそう感じずにはいられず、葵は深いため息をつきながら身支度を開始した。

(あれ?)

 いつものように制服に着替えようとしたところで、葵はいつもの場所に着替えがないことに気がついた。普段はめったに覗かないクローゼットの中を探してみても、やはり見当たらない。室内を右往左往しながら記憶の糸を辿っていた葵は、あることに思い至ってクレアを呼びつけることにした。

「どうなさいました、お嬢様」

 室内で軽くベルを振るとすぐ、クレアが姿を現した。クレアの姿を認めた葵は彼女の傍へ寄り、急いて問いを口にする。

「私の制服、知らない?」

 昨日、葵はクレアの手によって半ば強制的にドレスへと着替えさせられた。その時に制服を脱いだのが最後の記憶なのである。葵が脱ぎ捨てた制服はクレアが片付けたはずなのだが、彼女は不思議そうにしながらベッドを指し示した。

「あちらに置いてありますが」

 クレアが示した先には、確かにきちんと畳まれた制服が置いてあった。しかしそれはトリニスタン魔法学園の制服である白いローブのことで、葵が探している『制服』ではない。どう説明しようかと頭を悩ませた葵は、考えをまとめながら口火を切った。

「あれじゃなくて、私が昨日ドレスに着替える前に着てた服のこと」

「チェックのスカートに白いワイシャツのことですか?」

「そうそう。どこにあるの?」

 葵の問いに答える前に口をつぐんだクレアは、少し顔を歪めて視線を泳がせた。その仕種に嫌な予感を覚えた葵は焦りを募らせながら言葉を次ぐ。

「まさか……捨てたとか言わないよね?」

「まだ捨ててはおりませんが、」

「ダメ!!」

 クレアの発言を遮って声を荒らげた葵はハッとして口元を抑えた。葵が突然怒鳴ったので、クレアは驚いたように目を瞬かせている。心なしか彼女の肩口にいるマトの目が冷たいような気がしたので、葵は一歩後退してから取り繕った。

「あの、大切なものなの。だから、返して?」

「……かしこまりました。ご用意いたしますので、お嬢様は朝食をお召し上がり下さい」

 そう言い置くと、クレアはすぐさま葵の寝室から姿を消した。彼女の言いつけに従った葵はネグリジェ姿のまま屋敷の中を移動し、一階の片隅にある食堂へと赴く。そこではすでに朝食の準備が整っていたので、葵は一人で食事を始めた。

 着任早々の昨日、クレアの用意してくれた食事はどれも一人分の胃袋の容量をはるかに超えるものだった。食事を残すことにもったいなさを感じた葵はそのことについて、彼女に苦情を言ったのである。そのためか、今朝の食事は一人分の適量だった。全てを美味しくいただいた後、葵は胸の前で軽く手を合わせる。食堂にクレアの姿はなかったが朝食を作ってくれた彼女に向けて、葵は小さく『ごちそうさま』と呟いた。

「お嬢様、予鈴が鳴りました。お部屋に着替えをご用意しておきましたので、お支度をお急ぎ下さい」

「えっ? あ、うん」

 食堂に入って来たクレアが何やら急ぎ模様で言うので、葵は彼女の言っていることが理解出来ないままに席を立った。予鈴って何だろうと考えながら寝室に戻った葵は、ベッドに置いてあった高等学校の制服に手早く袖を通す。等身大の鏡の前に移動した葵は、鏡に映し出されたいつも通りの自分に満足した。


『ミヤジマは何故、制服を着ないの?』


 出会った時に交わした友人の言葉が、不意に蘇った。絵に描いたような優等生だったステラ=カーティスという名の少女は、葵がトリニスタン魔法学園の制服である白いローブを着ていなかったことを疑問に思い、そう問いかけてきたのだ。鏡の中でふっと口元をほころばせた葵は『暑いからだよ』と答え、踵を返して歩き出す。デスクの上に置いてあった魔法書をひったくった葵はその足で寝室を後にし、屋敷の正面玄関へと向かった。

「お送りいたします」

 正面玄関の脇で待ち構えていたクレアがそんなことを言い出したので、葵は素直に甘えることにした。揃って屋敷を後にした葵とクレアは正面玄関の直線上にある魔法陣の手前で歩みを止める。クレアに促された葵はその後、一人で魔法陣の中心に立った。

「お帰りの際はベルを鳴らして下さい。お迎えにあがりますので」

「あ、うん。ありがと」

「では、参ります」

「あ、ちょっと待って」

 葵が制止の言葉を投げかけたので、呪文を唱えかけていたクレアは不可解そうな表情になって唇を結んだ。そんなクレアに微笑みかけ、葵は言葉の続きを口にする。

「朝ごはん、美味しかった。ごちそうさまでした」

 葵が軽くお辞儀をすると、クレアは呆気にとられたような、妙な表情になった。しかしそのことについては触れぬまま、無表情に戻った彼女は転移の呪文を口にする。光を放った魔法陣が葵の姿をかき消した後も玄関先に佇んだままでいたクレアはやがて『いってらっしゃいませ』と呟き、それから踵を返したのだった。






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