新任教師

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 クレアの転移魔法によってトリニスタン魔法学園アステルダム分校に登校した葵は、しばらく経ってから校舎へ向けて歩き出した。正門から校舎へと続く生徒の波が途絶えるまで身を潜めていただけあって、周囲にはすでに人気がない。無人のエントランスホールを抜けた葵は自身の教室がある二階へは向かわず、そのまま一階の北辺にある保健室を目指した。

(とりあえず、クレアのことを訊かないと)

 この学園の『保健室』には、葵が異世界の住人であることを知っているアルヴァ=アロースミスという青年がいる。彼に訊けば、ある朝突然現れたメイドがどのような人物なのかはっきりするだろう。

「そこにいる、私服の少女」

 静まり返った廊下を歩いていると不意に男の声が聞こえてきたので、葵は反射的に背後を振り返った。どこかの部屋から出て来たところなのか、先程まで誰もいなかったはずの廊下に青年が佇んでいる。その双眸が真っ直ぐこちらに向けられていたので、葵は彼の言う『私服の少女』が自分であることを認識した。

(私服じゃないんだけどなぁ)

 胸中でそんな呟きを零しながら、葵は歩み寄ってくる青年を迎えた。明るいブラウンの髪にミッドナイトブルーの瞳をしている青年は、校内では見かけない顔である。しかし彼が非常に端整な面立ちをしていたため、葵は返事をするのも忘れて見入ってしまった。

(うわー、芸能人みたい)

 葵が最も愛する加藤大輝は、あどけなさと鋭利さを兼ね備えた少年らしい魅力を持つ『芸能人』だ。しかし目前の青年はそれとはタイプが違い、酸いも甘いも噛み分けた大人向けの恋愛ドラマに登場するような『芸能人』である。好みとは少し違うのだが、彼にはそれでも「カッコイイ」と思わせるだけの大人の色香があり、葵は呆けたように青年の顔を凝視した。しかし見られることには慣れているのか、青年は動じるような様子もなく淡々と言葉を次ぐ。

「君はうちの生徒なのか?」

 生徒という一言でハッと我に返った葵は、それまでとは違った目線で改めて青年を眺めた。年齢的に見てまず間違いなく、彼は生徒ではない。だが教師なのかと言えば、それもまた少し違うような気がした。

 トリニスタン魔法学園においては生徒だけでなく、教師も『制服』としてローブを纏っている。生徒のローブが白で統一されているのに対して教師のローブには何種類かあるのだが、それでも同じような格好をしていることに変わりはない。だが葵の前にいる青年は、一部の例外と同じく私服姿なのだ。その出で立ちがスーツに似ていたため、葵は自然とアルヴァの姿を思い浮かべた。

(そういえばアルもローブじゃないけど、あれはまた別なのかな)

 校医であるはずのアルヴァは本来の仕事を代理に任せていて、自分は人前に姿を現さないのだ。言わばアルヴァは例外中の例外であり、参考にならないと思った葵は彼の姿を頭から消し、青年に視線を戻した。

「一応、そうです」

「そうか。所属は?」

「クラスのことだったら一応、二年A一組ですけど……」

「なんだ、私のクラスの生徒か」

「へ?」

 葵が所属している二年A一組の担任教師は老齢の男性であり、端整な顔をしている青年とは似ても似つかない。聞き間違えかと思った葵が自分の耳を疑っていると、それを察したらしい青年は説明を加え始めた。

「私の名はロバート=エーメリー。君達の担任であるアームストロング先生が腰を痛められたので、しばらくのあいだ二年A一組を受け持つことになった」

「あ、そうなんですか……」

「君の名は?」

「宮島葵、です」

「ミヤジマ=アオイ、もう授業が始まる。私より先に教室へ入ったのならば、遅刻とはみなさないであげよう」

「あ、はい」

 条件反射的に頷いた葵は慌てて踵を返し、校舎二階にある二年A一組の教室へ向かって走り出した。

(……私、何で走ってるんだろう)

 元いた世界へ帰ることを願っている葵にとって、トリニスタン魔法学園で優等生でいることにあまり意味はない。それでも高等学校に通っていた頃のように遅刻を気にして教室へ急いでいるのが、ひどく奇妙なことのように思われた。同時に、久しぶりの感覚がなんだか楽しくなってきてしまい、葵は一人で浮かれながら廊下を疾走する。しかしはしゃいでいたのも束の間、教室のドアを開けた瞬間に浮かれていた気分は彼方へと吹き飛んで行った。真顔に戻った葵が唇を引き結んだのは、教室中の視線が一斉にこちらへ向けられたからだ。

 つい先日まで、葵は渦中の人だった。それというのも葵が、トリニスタン魔法学園のエリート集団であるマジスターと親しくしていたからだ。一般の生徒にとってマジスターは高嶺の花であり、彼らと親しくなりたいがために生徒達は葵に話しかけてきていたのである。それが今は、誰もが葵から目を逸らしていく。その理由に思い至った葵は苦い気持ちになりながら窓際の自分の席へと向かった。

(ステラがいなくなったから、私に話しかける必要もないってことね)

 この学園での生徒同士の繋がりなど、そんなものである。初めからそう思っていただけに、失望などは感じなかった。むしろ知らない人にまで声をかけられる煩わしさから解放されたので非常に気楽である。だが肩の力を抜く前に、葵はクラスの女子を牛耳っているココという少女に視線を傾けた。

 ココと、彼女と仲の良いシルヴィアとサリーは葵にとって天敵にも等しい。一時は仲良くしていたこともあるだけに、彼女達は他の生徒にも増して葵を目の敵にしているのだ。ステラのおかげで嫌がらせがなくなっていたのは自明の理であり、彼女がいなくなった今、ココ達が再び嫌がらせを始めないとも限らないのだ。葵はそう考えていたのだが、何かの話で盛り上がっているココ達がこちらに視線を寄越すようなことはなかった。

(大丈夫そう、かな)

 教室内が落ち着いた雰囲気に戻りつつあるのなら、あとは葵がマジスターと関わりを持たなければ女生徒達の標的にされることもないだろう。衝突は避けて地味に日々を送ろうと思った葵はそこでようやく肩の力を抜き、机の上で魔法書を広げてみた。

(ちょっと、真剣に勉強してみようかな。そうすれば自分でなんとか出来るかもしれないし)

 葵がこの世界へ連れて来られたのは魔法が原因である。それならば元の世界へ帰るのにも魔法が必要となるはずなのだ。この世界の生まれではない葵には自分で魔法を使うということは出来ないのだが、それでも文字を学べばオリジナルの呪文スペルを生み出すことは出来る。元の世界へ帰れるような魔法を自分で生み出しさえすれば、あとは魔法が使えるアルヴァあたりにでも呪文を唱えてもらえばいいだけだ。

(よし、頑張ってみよう)

 目標を定めた葵はとりあえず、高名な魔法使いであるレイチェル=アロースミスから渡された魔法書に目を落とした。子供に初歩の魔法を教えるために書かれたこの魔法書こそ、勉強の第一歩である。だが集中しようと思ったのも束の間、教室内の空気が一変したので葵は早々と魔法書から顔を上げた。

(あっ……)

 室内が不意にざわついた原因は、教壇に立った一人の青年だった。そこは本来であれば老齢の教師が立つべき場所であり、二年A一組の生徒達は見知らぬ大人の登場に戸惑いと興味を覚えている。ましてやロバートは人目を引く容姿をしているので、主に女生徒達の間で華やかな囁きが飛び交っていた。

「私の名はロバート。君達の担任であるアームストロング先生が腰を痛められたので、しばらくのあいだ二年A一組を受け持つことになった」

 さきほど葵に語ったのと同じ内容を繰り返したロバートは生徒全員に向けて簡単に着任の挨拶を済ませた。彼はそのまますぐ授業を始めようとしたのだが、若い教師に興味津々な女生徒達から質問の声が上がる。

「ロバート先生、ファミリーネームは何と仰るのですか?」

「秘密だ。私のファミリーネームを言い当てた者には、何か褒美を考えておこう」

 ロバートがはっきりと答えを口にしなかったため、二年A一組の教室では様々な憶測が飛び交った。生徒達が次々と名前を挙げていくが、ロバートは笑いながら「はずれだ」と躱していく。そんな和やかな空気の中、葵は一人で首を傾げていた。

(さっき、言ってなかったっけ?)

 ロバートに自己紹介をされた時、彼ははっきりとファミリーネームも名乗っていた。それが何故、教室の中では『秘密』になるのか。よく分からないと思った葵が眉根を寄せていると、教室の話題は名前のことからロバートの服装へと移って行った。

「ロバート先生は何故ローブを着ていらっしゃらないのですか?」

「私は、型を破ることがそれほど悪いことだとは思っていない。しかし他人と違うことをするということは、他の人がしなくても済む苦労を背負い込むということでもある。君達はまだ若い。だから私の真似はしないように」

 説教じみたことを口にしながらも表情には茶目っ気を覗かせるロバートに、二年A一組の生徒達は瞬く間に魅了されてしまった。賑やかな笑い声に包まれている教室は穏やかな空気を有していて、先日までのギスギスした雰囲気が嘘のようだ。着任早々癖の強い生徒達を手懐けてしまったロバートを、葵は「すごいなぁ」と思いながら見つめていた。





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