新任教師

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「こんにちは〜……」

 木製の質素な扉を少しだけ開けた後、隙間から首だけを突っ込んだ葵は奥へ向かって声をかけながら内部の様子を窺った。室内には見知らぬ少女が一人いるだけで、目当ての人物の姿はない。扉が開いた瞬間に少女もこちらを向いたので視線が絡み合い、気まずく思った葵はその気持ちを表情に表しながら扉を開けきった。

「どちら様ですか?」

 葵が後ろ手に扉を閉めると、そのタイミングを見計らっていたかのように少女が口火を切った。初対面の相手から投げかけられた当然の疑問にどう答えるべきか少し迷った末、葵はとりあえず自己紹介を試みる。

「私、葵といいます。ザック、いますか?」

 ここはパンテノン市街のフィフスストリートの一角にあるガラス工房だ。昨日、葵はここでザックという名の少年と知り合いになった。しかし彼を訪ねて来たのは用事があったからではなく、単に暇だったからである。葵がそうした事情を明かすと、少女はにこやかな笑みを浮かべた。

「あたし、妹のリズっていいます」

「あ、どうも」

「お兄ちゃんなら作業場にいますけど、呼んできましょうか?」

「そっか、仕事中なんだ……」

 独白を零した葵はリズから視線を外し、思案に沈んだ。ザックには会いたいが、仕事の邪魔をするのは悪い。瞬時にそう考えた葵は日を改めることにして、リズに軽く手を振って見せた。

「いいです。ジャマしたら悪いから、今日は帰ります」

「あ、だったらここで待ってて下さい。今日はそんなに時間のかかるものじゃないから」

 すでに引き返す体勢に入っていた葵はリズの一声で彼女に向き直り、改めて考えを巡らせた。今から屋敷に帰っても、テレビもマンガもないこの世界では時間が有り余ってしまう。暇な時間を一人で過ごすよりは少しくらい待ってもザックと話をしたいと思い直した葵はリズに了承を伝えた。

「どうぞ、掛けて下さい。今、お茶を淹れますね」

 葵にイスを勧めた後、リズはガラス製の容器に入った水出し紅茶を涼しげなティーカップに注いだ。透明なガラスを通して見る紅茶は赤褐色が美しく、ティーカップを渡された葵は様々な角度からカップを観察する。

「このカップ、いいなぁ」

「ほんとに!? それ、あたしが作ったの」

「そうなんだ? すごいね」

 そこで、すっかりいつも通りの言葉で会話していることに気がつき、葵はハッとした。リズも同じことを思ったのか、彼女もまた口元を手で押さえている。顔を見合わせた葵とリズはお互いに苦笑を浮かべ、敬語での会話はそこで終了となった。

「お兄ちゃんにね、いつも口が悪いって怒られるの。でもやっぱりダメだね」

「フツウに喋ってくれた方が話しやすくていいよ。私もこっちの方がいいし」

「嬉しい。ねぇねぇ、アオイっていくつなの?」

「十七だよ」

「じゃあ、お兄ちゃんと同じだね。あたしはお兄ちゃんの二つ下で、十五歳」

「そうなんだ?」

 十五歳だというリズは天真爛漫としていて、葵はすぐに好感を抱いた。良家の子女ばかりが通うトリニスタン魔法学園では、この気楽さが皆無なのである。久しぶりに安らいだ気持ちになった葵はその後、リズと二人で他愛のない歓談に熱中したのだった。

「お客さんか?」

 リズと他愛のない話で盛り上がっていると聞き覚えのある声が聞こえてきたので、葵はその声に反応して部屋の奥の方へ顔を傾けた。玄関とは反対側にある奥へと通じる扉は最初から開け放たれていて、そこからザックが顔を覗かせている。真っ白なタオルを首から下げている彼はバンダナで髪の毛を上げていて、いかにも仕事帰りといった様子で汗を滴らせていた。

「ザック」

 リズと楽しい会話をしていたままのノリで葵は手を振ったのだが、ザックからの反応は返ってこない。彼は不審そうに眉根を寄せながら葵を見つめていて、それを見たリズが呆れた声を上げた。

「お兄ちゃん、アオイが呼んでるでしょ」

「えっ?」

 妹の発言に驚いたような顔をしたザックは足早にこちらへと歩み寄って来る。そして葵の目前で足を止め、まじまじと葵の顔を観察した後、彼は改めて驚きの声を発したのだった。

「アオイじゃないか。昨日会った時とぜんぜん雰囲気が違うから分からなかった」

 ザックと初めて会った時、葵は貴族の装束であるアフタヌーンドレスを身にまとっていた。しかし今日は、白いワイシャツにチェックのスカートという簡略な格好である。しかもザックと顔を合わせたのは本日が二度目なのだ。葵は無理もないと苦笑したが、リズは呆れきった顔をした。

「お兄ちゃん、いくらなんでもそれはないわ〜」

 メイクや服装でガラリと印象が変わるのが女の子というものである。しかしいくら髪型や服装を変えても顔の作りは同じなのだから分からないはずがない。それがリズの言い分だったが、ザックは不服そうな表情を妹に向けた。

「だってお前、昨日会った時はアフタヌーンドレスだったんだぞ?」

「えっ、アオイって貴族なの!? 見えな〜い!」

「リズ! 口が悪い!」

 ザックが慌ててリズの口を塞ごうとすると、リズはひらりと身を翻して兄の手から逃れた。ザックから遠ざかったリズが『お兄ちゃん汚いんだから触らないでよ』などと言っているのを聞き、葵は思わず吹き出してしまった。

弥也ややのところもこんな感じだったなぁ……)

 葵自身は一人っこなのだが、元いた世界で友達だった弥也には歳の近い兄がいた。兄妹仲がいいことで有名だった弥也の家に遊びに行くと、ザックとリズのような仲睦まじい光景を目の当たりにしたものだ。そんな昔のことを思い返しながら、葵は微笑ましい思いでザックとリズのやりとりを眺めていた。

「笑ってないで、アオイからも何とか言ってやってくれよ」

 妹にいいように弄ばれて弱りきったザックが救いを求めてきたので、葵は兄妹に笑みを向けたまま口を開いた。

「そのままでいいよ。私も堅苦しいのは苦手だし」

「さっすがアオイ、話せるね!」

 本日が初対面ながら、葵とリズはすっかり意気投合してしまっていた。少女達が楽しそうに話をしているので割り込めないと感じたのか、ザックは滴る汗を拭いながら奥へと姿を消す。リズが水を浴びに行ったのだろうと言うので、葵はザックが戻って来るまで彼女と喋り続けることにした。

「ねえ、アオイって本当に貴族なの?」

 リズが「とても信じられない」といった表情を隠さずに尋ねてくるので、返答に困った葵は苦笑いを浮かべた。

「それが、私にもよく分からないんだよねぇ」

「なにそれ? 貴族は生まれた時から貴族でしょ?」

 この世界の生まれではない葵には、生まれた時からも何もない。だがそのことは口にしてはならないので、葵は適当な作り話で誤魔化すことにした。

 葵は両親を亡くしてから孤児院で生活していた。そのうちに誰かに引き取られることになり、アステルダム公国にある屋敷に引っ越してきたのである。だが葵は、自分を引き取ったという人物と未だに顔を合わせたことがない。だから自分の身分が分からないのだという、昔呼んだ本からヒントを得た作り話を聞かせると、リズは神妙な表情で閉口した。もっともらしい話をでっちあげた葵は、まったく別のことが気になって眉根を寄せたまま空を仰ぐ。

(あの本のタイトル、なんだっけかな……)

 子供の頃に好んで読んでいたものなので、今は押入れの奥深くに埋没していることだろう。元の世界に帰ったら探してみようと思い、そこで思考を断ち切った葵はリズに視線を戻した。するとリズが思いのほかしんみりした空気を身にまとっていたので、葵は再び眉をひそめる。

「リズ?」

「……アオイもお父さんとお母さん、いないんだね」

 そう言って、リズは寂しそうな笑みを葵に向けた。彼女の発言から察するに、リズとザックには両親がいないのだろう。本当は両親共に健在な葵は心ない嘘をついたことにひどい胸苦しさを覚えた。葵が顔をしかめたからなのか、リズは慌てて言葉を次ぐ。

「あ、でもね、あたしにはお兄ちゃんがいるから平気。組合の人たちもみんな優しいし」

「……組合?」

「この街の職人組合。みんな家族みたいなもんなんだ」

「へえ……」

 組合の話をしているうちにリズが元気を取り戻してきたので、葵は内心でホッとしながら話に耳を傾けていた。リズにとっては兄のザックと組合員がとても大切な存在のようで、彼らの話をする時は本当に嬉しそうにしている。両親はいなくても、そうした確かな繋がりがある人物が傍にいるリズに、葵は淡い羨望を抱いてしまった。

 もともと、この世界の者ではない葵には当然のことながら血縁者はいない。今は友人すらも身近におらず、気を抜ける相手といえば全ての事情を知っているアルヴァくらいなものだ。だがアルヴァの態度はとても友好的とは言い辛く、友人と呼ぶには気心が知れない。加えて彼は、葵に何の前置きもなく失踪してしまったのである。

(どこで何やってんだろう)

 アルヴァの身勝手さにはいつも腹が立つのだが、葵は結局、彼に頼らなければ何も出来ない。そのことはもう嫌というほど思い知っていたので、葵は深々とため息を零した。

「ねぇ、アオイ」

「えっ? 何?」

「今日、あたしが夕食当番なの。今夜はうちで食べていかない?」

 リズからの突然の誘いに葵は目を瞬かせた。葵がなかなか反応を返せないでいると、リズは誰かに同意を求めるかのように部屋の奥へと視線を移す。

「ね、いいでしょ?」

「うちの食事なんて口に合わないんじゃないか?」

 リズに応えたのは着替えを済ませて戻って来たザックだった。背後のザックを振り向いた後、葵は思いきり首を振る。

「そんなことないよ」

「そう? それなら、ゆっくりしていきなよ。食事は大勢の方が楽しいし」

「じゃあ、決まりね。あたしは買物に行ってくるから、アオイはお兄ちゃんとゲームでもして待っててよ」

 そう言い置くと、リズは素早く立ち上がって玄関の方へと歩き出した。明確な返事をしたつもりのなかった葵は少し迷ったが、まあいいかと思い、ザックに向き直る。

「リズが言ってたゲームって?」

「やる? 今、ボードを出すよ」

 ゲームに必要なものはこの室内にあるらしく、ザックは部屋の隅へと向かった。もともとゲームが好きな葵はザックが用意をしてくれている間もワクワクしながら待っていたのだが、実際にそのゲームを始めてしまうとものの見事にはまってしまったのだった。






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