新任教師

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 オレンジの色彩が強い二月がパンテノン市街を煌々と照らしている夜、フィフスストリートから抜け出した葵は周囲に人気がないことを確認し、スカートのポケットからシルバー製の小さな呼び鈴ベルを取り出した。人間には聞こえない音を発するのだというそのベルは、軽く左右に振ってみても何の音も立てない。だがしばらくすると夜の闇を切り裂く閃光が走り、街角に佇む葵の前にクレアが姿を現した。

「お帰りですか、お嬢様」

 屋敷にいる時と同じくメイド服姿のクレアは葵と向き合うなり淡々とした調子で言葉を発した。屋敷の中では常に彼女の肩口にはパートナーの姿があるのだが、今はワニに似た生物の姿はない。学園に迎えに来てもらった時も連れていなかったので、マトはクレアが屋敷を離れる際には留守番をしているのかもしれなかった。

 葵が頷くと、クレアはエプロンのポケットから取り出した何かを地面に叩き付けた。昨日と同じく、砕け散った何かが少し時間をかけて地面に魔法陣を描き出していく。魔法陣が完成するとクレアがその上に立ったので、すでに手順を心得ている葵も彼女の後に従った。葵が魔法陣に入るのを確認してから、クレアは『帰還』を意味する呪文を唱える。そうして郊外にある屋敷に戻ってから、葵は改めてクレアを振り返った。

「さっきはごめんね。大した用がないのに呼びつけて」

 ザックの家で夕食をごちそうになると決まった時、葵は屋敷で夕食の支度をしてくれているであろうクレアのことを思い出した。元いた世界ならば電話を一本入れれば済むだけの話なのだが、この世界には電話というものが存在しない。なので仕方がなく、葵は『今日は夕食いらない』と告げるためだけに一度クレアを呼び出したのだった。

「お嬢様が気に病まれる必要はございません。メイドが主人の都合に合わせるのは当然のことですから」

 葵が何を謝っているのか正しく理解したうえで、それでもクレアは愛想笑いの一つも浮かべようとしない。やっぱり少し付き合いづらいと感じた葵はクレアに分からないよう小さくため息をついた。

 屋敷の玄関がクレアの手によって開かれると、エントランスホールにマトの姿があるのが目についた。大理石の床に腹をつけてじっとしていたマトは、葵の後に続いて来たクレアの姿を捉えるなり彼女の方へ這いずって行く。マトを抱き上げたクレアはパートナーを肩口に乗せ、それから自然なことのように彼に顔を寄せた。

(そういえば、昨日もそうやってたっけ)

 マトは人語を話したりはしないが、もしかしたらクレアはそうすることで意思の疎通が出来るのかもしれない。マトから顔を離したクレアが微かに眉根を寄せていたので、葵はそんなことを思った。

「何かあった?」

「いえ。お嬢様が留守にされている間、特別変わったことはございませんでした。わたくしがお屋敷を離れていた間も同様のようです」

 すでに眉間のシワを解いているクレアがそう言うので、葵は深く突っ込まないことにした。代わりに、まったく別の話題を振ってみる。

「クレア、コンバーツってゲーム知ってる?」

「存じております。一般的なボードゲームのルールは一通り学びましたので」

「じゃあ、出来るんだ? それならさ、ちょっと相手してくれない?」

 コンバーツとは絵柄が描かれた駒を使った、戦争型のボードゲームである。ルールをまったく知らない初心者の葵はザックにもリズにも大敗を喫しており、悔しさが募っていたのだ。そして今まで娯楽らしい娯楽を知らなかっただけに、大いにはまってしまったのだった。しかし葵からの申し出に、クレアは即答することをしなかった。彼女はまず開きっぱなしになっている玄関から空を仰ぎ、それから改めて葵に向き直る。

「お嬢様、明日は学園へ行かれますか?」

「学校? 休みじゃないよね?」

「休日ではございません。通常通り、登校されますか?」

 質問の意図は分からなかったが、葵はクレアに頷くことで問いの答えとした。アルヴァと話をするという目的の他に、明日からは補習が始まるのだ。休むわけにはいかない。

「では、本日はもうお休み下さい」

「え〜……」

 明日に響くから寝ろと言っているクレアの気遣いは理解していたものの、すでに心がゲームに傾いていた葵は不満たっぷりの声を漏らした。その残念がり方が大袈裟だったのか、クレアは仕方がなさそうな表情を浮かべる。彼女の無表情が初めて崩れたことに葵は驚いてしまったのだが、クレアは淡々と言葉を続けた。

「お嬢様がお手隙の時にはいくらでもお相手いたします。ですが本日は、もうお休み下さい」

「あ、うん。分かった」

 駄々をこねたい気持ちよりも驚きの方が勝ってしまい、葵は素直に頷くと二階にある寝室へ向かって歩き出した。

(クレアって、あんな表情もするんだ)

 まだ付き合いが浅いため、葵はクレアのことをほとんど何も知らない。今のところ融通の利かない堅物という一面ばかりが目につくので葵は彼女に苦手意識を持っていたのだが、本当の彼女はもっと別の性格をしているのかもしれないのだ。使用人として以外の表情をもっと見せて欲しいと思った葵は、避けずに話しかけてみようと思ってクレアを振り返った。

「ありがと。もう、ここでいいよ」

 屋敷の中に入ってすぐ魔法で明かりを発生させたクレアは、葵が寝室に着くまで道を照らしてくれていた。そのことに対して礼を言った葵は二階の片隅にある寝室へ入ろうとしたのだが、クレアに立ち去る気配がないことに気がついて首を傾げる。葵を追い越して扉を開くと、クレアはそのまま葵の寝室へと歩を進めた。

「お休み前のハーブティーをお淹れいたします。コンバーツに熱中されたのなら、お疲れでしょう? あのゲームは頭を使いますから」

 そう言い置き、クレアは窓際に置かれているテーブルで紅茶の準備を始めた。クレアに促された葵は室内にある別室へと行き、ネグリジェに着替えてからベッドのある部屋へと戻る。その頃には紅茶が入っていて、室内にほのかなハーブの香りが漂っていた。

「ありがと」

 ベッドでティーカップを受け取った葵はラベンダーの香りがする紅茶をさっそく口に運んだ。手際良く茶器を片付けたクレアはそれをカートに移し、退室の準備を整えてから葵に向き直る。

「ティーカップはテーブルの上に置いておいて下さい。明朝、片付けますので。それではお嬢様、おやすみなさいませ」

 使用人としての務めを果たしたクレアはカートを押して歩き出し、退室の前にも一礼してから葵の寝室を出て行った。葵はゆっくりとハーブティーを味わった後、空になったティーカップをテーブルに置いてから再びベッドへと戻る。紅茶の効果も手伝ってか、目を閉じるとすぐにでも眠りに落ちそうな気配がした。

(明日から補習、かぁ)

 トリニスタン魔法学園で授業が行われている間、葵はただ窓辺の席に座っているだけの存在である。授業中に指されたこともなければ、自ら授業に参加したこともない。板書の文字さえも理解出来ない葵にとって、それは仕方のないことだった。しかし明日からは、学園に通う意義自体が変わるはずである。

(これで、魔法が理解出来るようになるといいんだけど)

 広いベッドの中で一人寂しくため息をついた葵は、そこで考えを打ち切ることにした。しかし余計なことを考えたせいでせっかくの紅茶が効果を成さなくなってしまったため、気分を変えるためにベッドを抜け出す。デスクに置いてある私物の鞄から携帯電話を取り出した葵は、それを持っていそいそとベッドに舞い戻った。

(加藤大輝の顔見てから寝よう)

 そう思った葵は折りたたみ式の携帯電話を開き、ハッとした。充電を出来るだけ長引かせるためにいつもは電源をオフにしているのだが、何故か電源が入っている。いつ切り忘れたのかも分からなかったため、葵は自分の軽率さを呪いたい思いで最愛の芸能人を見つめた。

(……あれ?)

 携帯電話のディスプレイに着信ありの表示がされているのを見て、葵は小首を傾げた。履歴を呼び出してみると、電話をかけてきた相手は元の世界の友人である弥也だった。日付は六月三十日、時刻は午後十時となっていたが、元いた世界での日にち感覚が麻痺してしまっている葵には、それがいつかかってきた電話なのかすら分からない。

 携帯電話を操作していると電池の残量が三本から二本に減ってしまったので、葵は慌てて電源をオフにした。不在着信に気を取られたせいで待ち受けにしている加藤大輝の顔をちゃんと見ることが出来なかったが、今はもうそんなことを言っている場合ではない。せめて夢の中で会えたらいいなと、葵は電源の入っていない携帯電話を枕の下に敷いて目を閉じた。






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