近付く距離、遠ざかる心

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 夏月かげつ期中盤の月である橙黄とうこうの月の六日、丘の上にあるトリニスタン魔法学園アステルダム分校に登校した宮島葵は一階の北辺にある保健室へと足を向けた。教室へ行くよりも先にその場所へ向かったのは、この学園の校医であるアルヴァ=アロースミスという青年が不在かどうか確かめるためだ。葵はアルヴァがいることを期待して保健室を訪れたのだが今朝もまた、扉の鍵は回らない。アルヴァの不在を知った葵は重いため息をつきつつ踵を返した。

(ほんと、いつになったら帰って来るんだろう)

 橙黄の月に入ってから行方をくらませてしまったアルヴァとは、もう二週間ほど顔を合わせていない。彼には尋ねたいことがあるのだが、そのことを別にしても、こうも理由の分からない不在が長引くと心配になってくるのが人情というものだ。校舎二階にある二年A一組の教室へと辿り着いた葵は、そろそろ本気でアルヴァを探さなければならないかもしれないと思いながら窓際の自席に着いた。

(やっぱり、ロバート先生に聞いてみよう)

 前任の担任教師が腰を痛めたことで葵達のクラスにやって来たロバート=エーメリーは、なかなかに話の分かる教師だ。生徒から人気のある彼に往来で質問をすることは躊躇われるのだが、幸いなことに葵にはロバートと二人きりになれる機会というものがあった。それが補習というのが少し悲しくはあったが、他人にあまり聞かれたくない話をするには絶好のチャンスである。

(昨日もけっきょく帰っちゃったし、いいかげん補習に出ないと)

 優しいロバートは都合のいい時でいいと言ってくれたが、そうそう甘えてばかりもいられない。何よりも魔法を学ぶということは元の世界へ帰るための第一歩なのだ。今日こそは補習をしてもらおうと思った葵は、教室の扉を開けて入って来たロバートが教壇に立つ姿を目で追った。

「それでは、授業を始める」

 ロバートの一言を合図に、生徒が各々の魔法書を開く。授業にはついていけていないものの、葵もいちおう自分の魔法書を机の上に広げた。

 葵が元いた世界では生徒全員が同じ内容が記されている本を目で追うことで授業が進められていたが、トリニスタン魔法学園の授業はそれとは様式が異なる。生徒達が手にしている魔法書はそれぞれが使いやすいよう独自に編纂したもので、言わばオリジナルの一品である。その自分専用の魔法書に授業で得た知識を書き足していく、それがトリニスタン魔法学園で言うところの『授業』だった。葵が今までしてきた『勉強』がテストという形式に対応するためのものならば、トリニスタン魔法学園での『勉強』は幅広い知識に触れるためのものである。それは必ずしも教師が板書した内容を書き写すこともないといった自由さで、現在進行形で葵を困らせていた。魔法に関する基礎知識がないため、そうして自由に授業をされてもさっぱり分からないのだ。

 ロバートが使って見せる小規模な魔法や読めない文字の羅列を何となく眺めていた葵は、不意に沸き起こった歓声にビクリと体を震わせた。その声はどうやら校内から聞こえてきたもののようで、二年A一組の生徒達は何事かと廊下に顔を傾けている。授業が中断してしまったため、ロバートも苦い顔をしながら廊下の方へと視線を向けた。

「やかましいな」

 ロバートが発した独白は次第に近付いてくる嬌声に呑みこまれて消えていった。次の瞬間、二年A一組の教室の扉が勢い良く開かれる。そこに現れた人物を目にするなり女子生徒は総立ちになり、男子生徒は目を丸くした。女子が群がっていった教室のドアのところに嫌な顔を見つけてしまった葵は、窓際の自席に座ったまま小さく眉根を寄せる。

(何であいつがこんな所に……)

 他クラスの女子を背後に引き連れて二年A一組に姿を現したのは、マジスターの一人であるキリル=エクランドだった。ギャラリーを完全に無視しきっている彼はざっと教室内を見渡し、窓際の席にいる葵のところで目を留めると再び歩き出す。まるで自分が目当ての人物のようにキリルが歩み寄って来るので、不穏な空気を察した葵は閉ざした魔法書を胸に抱いて身を引いた。

「どけ! ジャマだ!」

 群がってくる女生徒達を問答無用で跳ね除けながら二年A一組の教室に進入してきたキリルは葵の目前でピタリと歩みを止めた。その図が生まれたことにより、それまで騒然としていた教室内が水を打ったように静まり返る。注目が集まる中、私服のポケットから小箱を取り出したキリルはそれを葵に向かって突き出した。

「……何?」

 言動の意味が分からなかった葵は気味の悪さを感じながら恐る恐るキリルを仰ぐ。だがキリルは唇を結んだまま、催促するかのように小箱を葵に近づけただけだった。

(何? 何なの?)

 困惑した葵が小箱を受け取ることも出来ずにいると、キリルはイラつき始めたようだった。半ば放るように葵に小箱を押し付けた後、キリルは無言で踵を返して足早に教室を出て行く。呆気にとられたのは葵だけでなく、二年A一組の教室はキリルの姿がなくなってからもしばらく静まり返ったままだった。

「今の、何ですの!?」

 やがて誰かが驚きの声を発したことにより、室内は騒然となった。我に返るより先にクラスメート達が押し寄せて来たので、葵はビクッとして椅子の上で身を引く。生徒達の関心を引いているのはやはり、葵が手にしている小箱のようだった。

「それ、何が入っているんですの!?」

「開けてみなよ」

 女子生徒だけでなく男子生徒までもが開封を迫ってくるので、困り果てた葵は救いを求めて教壇の方を仰いだ。刹那、突然の閃光が教室内に迸る。集まって来ていた生徒達が一様に口を閉ざして背後を振り返ったため、天井を仰いでいた葵もつられてブラックボードの方へ顔を傾けた。

「授業を再開する。受ける気のない者は直ちに教室を出なさい」

 魔法書を片手にしているロバートは空いている方の手に電気を纏わせていて、それを目にした生徒達は無言で自分の席へと戻って行く。騒ぎが収束したことを見て取ったロバートは次に、ポカンとしている葵に視線を移した。

「ミヤジマ=アオイ」

「は、はい」

「早くその箱をしまいなさい」

「あ、はい」

 葵が慌てて小箱を机の中にしまうと、ロバートはその後、何事もなかったかのように授業を再開させた。






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