近付く距離、遠ざかる心

BACK NEXT 目次へ



 終業の鐘が鳴ると同時に勢いよく席を立った葵は脇目も振らず、教室の出口である扉を目指した。その行動に何人かの生徒が反応を示したものの、彼らの不意を突いた葵はクラスメートの制止を振り切って廊下を走り出す。そのうちにちらほらと帰宅の途につく生徒が廊下へと出て来たが、葵は彼らの間隙を縫って校内を疾走した。葵がトリニスタン魔法学園に通う全ての生徒から逃げなければならない原因は、彼女が抱えている小箱にある。可愛らしくピンク色のリボンが巻かれているそれはマジスターであるキリル=エクランドから手渡された物だ。どういう意図があるのかは分からないが、キリルがそれを公衆の面前で葵に渡したため、今やその箱の中身に全校生徒が注目しているのだった。

(まったく、冗談じゃないよ)

 葵は箱の中身を確認したらすぐキリルに返そうと思っていたのだが、教室ではリボンを解くことすら出来なかった。休み時間になるたびに生徒達が群がってきて、彼らが固唾を呑んで葵の手元を注視していたからだ。人気のない場所に移動しようにも葵の行動は常に監視されていて、自席を立つ素振りを見せようものなら教室中が反応を示すといった有り様である。中に何が入っていてももうどうでもよく、注目を集めることにうんざりした葵はすぐにでも箱を返却しようと大空の庭シエル・ガーデンへ向かっているのだった。

 校舎を出て東にひた走ると、次第に広大な庭園の一角が見えてくる。色とりどりの花が咲き乱れている花園は一見すると室外のようだが、実はシエル・ガーデンと呼ばれる場所は全面ガラス張りの建造物の内にある。ドーム状の建物には扉などの目立った出入口は存在しないのだが、魔法を使わずに内部へ入れる方法を知っている葵は難なくシエル・ガーデンへの侵入を果たした。

 内側からも外側からも隔絶された隠し通路を使って花園に降り立った葵は迷うことなく、ある場所を目指した。花園の中央には人間が花を愛でるための場所が設けられていて、マジスター達はよくそこでお茶をしているのだ。しかしこの日は運悪く、白いテーブルには誰の姿もなかった。目当ての人物がいないことを確認すると、葵は息つく暇もなく踵を返す。元来た道を辿ってドームの外へと出た葵は滴る汗を拭いながら、今度はドームの北部を目指した。シエル・ガーデンの北には用途不明の塔がひっそりと佇んでいる。葵が密かに『時計塔』と呼んでいるその場所は貴族らしく楽器を嗜んでいるマジスター達が練習を行う場所なのだ。シエル・ガーデン以外ではその場所しか思い当たらなかったのだが、残念ながら塔にもマジスター達の姿はなかった。

(いない、か……)

 歩き回ったことで少し頭が冷えた葵は唐突に疲れを感じ、壁に背を預けて座り込んだ。時計塔の内部は二階建てになっていて、闇に閉ざされている一階部分には何もない。そこから螺旋階段を上って行くと二階部分へ辿り着くのだが、二階には何故か大きな穴がぽっかりと空いていた。丸みを帯びたその空洞はちょうど時計が納まりそうな形をしていて、葵はそこからこの塔を『時計塔』と呼ぶようになったのである。

 夏の日差しが斜に差し込む室内で目を閉じると、どこからかバイオリンの音色が聞こえてきそうな気がした。寂しさを孕んだその音色は儚く、美しく、葵の耳の中でこだましている。記憶の中で繰り返されているメロディはパッフェルベルのカノン。この世界ではヴァリア・ヴェーテと呼ばれているその曲も、この場所でその曲を奏でていた人物も、葵にとっては特別な存在だった。

(そういえばこれの中身、何だったんだろう)

 幻聴に癒されて人心地ついた葵は急に小箱の中身が気になり出し、とりあえず開けてみることにした。リボンをほどいて箱のふたを持ち上げてみるとすぐ、アクセサリーらしきものが顔を覗かせる。箱から出して手に取ってみると、それは大小様々なルビーが散りばめられたネックレスだった。

(……高そう)

 装飾品としての美しさよりも、葵がまず抱いたのは値段に関する感想だった。葵には装飾品の善し悪しなど分からないので、これが実際にはどの程度の価値があるものなのかも不明だが、もしもこのネックレスが魔法道具マジックアイテムの類であれば、その価値を見極めるのはさらに困難になる。しかし一つだけ、宝石に疎い葵にも分かることがあった。これがただの装飾品にしろ、マジック・アイテムにしろ、貰うわけにはいかないということだ。

(とにかく、さっさと返そう)

 安価なものでも高価なものでも、キリルからプレゼントを貰う謂れがない。改めてそう感じた葵はネックレスを小箱にしまおうとしたのだが、彼女が行動を起こす前に異変が起きた。

「あら、ミヤジマさん」

 何の前触れもなく室内に出現したのはサイドテールの少女だった。彼女は葵の姿を認めるなり、親しげに声をかけてきたのだ。だが彼女に気安く話しかけられる覚えもなかった葵はあ然として言葉を失う。それはサイドテールの少女が、クラスメートの中でも特に葵を敵視していたシルヴィア=エンゼルだったからだ。

「その手にしているもの、キリル様からのプレゼントですの? 鳩の血ピジョン・ブラッドが美しいですわね」

 葵の反応を気にするでもなく、シルヴィアは親しげに体を寄せてきた。手元を覗き込まれた葵は嫌な感じがして、小箱にネックレスをしまいこむ。ちなみに鳩の血と呼ばれるルビーは濃赤色の最高級品であり、宝石としての価値は相当なものである。葵が手にしているネックレスには、その最高級品が惜しみなく使われているのだ。しかしそんなことよりも、葵はシルヴィアの態度の方が気になって仕方がなかった。

(何で話しかけてくるんだろう)

 トリニスタン魔法学園に編入したての頃、お嬢様を演じていた葵はシルヴィア達と親しい関係にあった。しかしそれは上辺だけのものであり、些細なことから葵が全校女生徒を敵に回すと、彼女達も例外なく離れて行った。それだけならまだしも、シルヴィアは葵を階段から突き落とした過去まであるのだ。そのような人物に突然好意的な笑みを向けられても、それは気持ちの悪いものでしかなかった。

「わたくし、ウィル様を捜していますの。お見かけになりませんでした?」

 シルヴィアの口からウィル=ヴィンスの名前を聞かされた時、葵は重い胸苦しさを感じた。その理由は、今日も着膨れているシルヴィアがまだウィルとのデートを果たしていないからである。胸に広がった嫌な感情の正体が分からないまま、葵は小さく首を振った。葵が初めて反応を見せたことに気を良くしたのか、シルヴィアはさらに好意的な笑みを向けてくる。

「今まで感情の行き違いがありましたが、わたくし、ようやくミヤジマさんの気持ちが分かるようになりましたの。これからは仲良くいたしましょう?」

 シルヴィアにそう言われた時、葵は自分が抱えている嫌な気持ちの一端が理解出来たような気がした。要するに彼女は味方を作りたくて、同じような境遇の葵に目をつけたのだ。きちんと謝罪することもなく過去を水に流そうなどとは、ずいぶんと虫のいい話である。

(上辺だけの付き合いだって、最初から分かってはいたけど)

 シルヴィアにとって「友だち」とは、あくまで利害関係を共にするだけの存在なのだ。彼女はそれでいいかもしれないが、葵にはそんな「友だち」は必要ない。だが葵が口を開く前に、シルヴィアは一方的な友情宣言をするとさっさと姿を消す。立ち上がるタイミングを逸してしまった葵は再び壁に背を預け、憂鬱な思いを抱きながら空を仰いだ。

(ステラ……)

 この学園でただ一人、友達と呼べる存在だった少女を思い浮かべた葵は小さくため息を零した。もう二度と、この学園で彼女と過ごしたような時間を送ることは出来ないだろう。そう思った葵は生まれ育った世界で友人だった弥也ややという少女の顔を思い浮かべ、ため息を引きずりながら立ち上がった。

(早く帰りたい)

 欺瞞や傲慢はもうたくさんだ。そう思った葵は無人のシエル・ガーデンに戻り、キリルから押し付けられた小箱をテーブルの上に置き去りにしてからその場を立ち去った。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2010 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system