近付く距離、遠ざかる心

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 無人のシエル・ガーデンを出た後、葵はすぐに使用人のクレア=ブルームフィールドを呼んでトリニスタン魔法学園を後にした。だが家に戻っても気分が晴れなかったため、何か気晴らしがしたいと思った葵はクレアに魔法で送ってもらい、一人でパンテノン市街を訪れていた。

「こんにちは〜」

 すでに通いなれた場所になりつつある工房の扉を開け、葵は内部へ向かって声をかけながら扉の隙間から顔を覗かせた。ここはフィフスストリートにある、ザックの工房である。小さな看板が下がっている扉を開けるとすぐ販売所になっていて、平素はザックか彼の妹であるリズが店番をしているのだが、この日はあいにくどちらの姿も見当たらなかった。

(留守かな?)

 この世界には鍵をかけるという習慣がないので、扉が開くからといって住人がいるとは限らない。だが心境的に、どうしてもザックかリズに会いたかった葵は留守ならば帰ってくるのを待とうと思い、扉を閉ざしてから改めて室内を振り返った。店になっている室内にはガラスで作られた工芸品が並んでいて、奥には住居部分へ通じる扉がある。住人のいない他人の家を歩き回るのは気が引けたが一応確かめておこうと思い、葵は溶鉱炉がある作業場へと向かうことにした。

 店舗になっている一室から奥へ通じる扉を開けると、正面はいきなり行き止まりになっている。そこから左右に廊下が伸びていて右手へ折れると住居部分へ、左手へ曲がれば作業場へと行き着くのだ。すでに勝手は分かっているので、葵は迷わず左へ曲がって作業場を目指した。

(ザック、いるかな?)

 淡い期待を抱きながら歩を進めていた葵は作業場へ近付くにつれて体感温度が上がっていることに気がつき、それでザックがいることを察した。工芸品を作るには高温でガラスを溶かす必要があり、彼が作業をしている時は周辺までもがひどく熱くなるのだ。

(熱っ……)

 夏の外気よりも熱い廊下は汗を誘い、葵は開襟の胸元をはためかせながら作業場へと足を踏み入れた。そこで目にした光景に魅入られてしまった葵は手を動かすことを忘れ、呆けたように立ち尽くす。

 ザックが仕事をしている時、作業場は火の海である。溶鉱炉からあふれ出した炎が作業場に佇むザックの周囲を這い回っているからだ。まるで生き物のように蠢いている大火はザックの意思に従ってガラスを熱している。ザックはそれを素手で加工したのち水の魔法で一気に冷却するのだが、葵はその瞬間を見るのが好きだった。

(きれい……)

 氷結された真っ赤なガラスはまだ熱を持っていて、自分を閉じ込めた氷を粉々に砕く。微細な粒はすぐ周囲の炎によって蒸発させられてしまうのだが、その一瞬のきらめきが印象的なのだ。そうして出来上がった工芸品は、ザックの手にすとんと落ちる。同時に炉を這い出していた炎も引いていき、葵はそこで初めて滴る汗を拭った。

「アオイ」

 難しい表情をして自分の作品を眺めていたザックは葵に気がつくと驚いた顔をした。再び胸元をはためかせた葵はザックの傍へ寄り、お邪魔してますと事後報告をする。そんな葵に苦笑を返した後、ザックは手にしていたグラスを床に放った。

「あ、もったいない。きれいだったのに」

「出来損ないだよ」

 首から下げていたタオルで汗を拭ったザックは素っ気なく言い置き、溶鉱炉に蓋をした。それから改めて、ザックはどうしようもなく汗を滴らせている葵に視線を移す。

「すごい汗だね。着替えないと風邪ひくよ」

「え〜。まだ来たばっかりだよ」

 暗に帰れと言われているのだと思った葵は露骨に不満を露わにした。ザックは顔の前で軽く手を振り、そういう意味じゃないと弁明する。だが確実に、葵にもザックにも着替えは必要そうだった。

「僕は裏で水を浴びてくるけど、アオイはそういうわけにもいかないだろう?」

「裏? お風呂は?」

「大衆浴場があるけど、嫌だろう?」

「へ〜、銭湯なんだ? 別に嫌じゃないよ」

 普段は利用することもなかったが修学旅行などで大浴場を使った経験もあり、葵は特に銭湯を嫌だとも感じていなかった。しかしザックにしてみれば葵が嫌がらないことの方が驚きだったようで、彼はしきりに目を瞬かせている。

「本当に嫌じゃない?」

「うん、別に平気」

「じゃあ、リズと行ってくる?」

「リズ? いるの?」

「店番していただろう? 会わなかった?」

「いやぁ? いなかったよ?」

「……あいつ、また……」

 どうやらリズは店番を放り出したらしく、ザックは顔をしかめて大きなため息をついた。

「とりあえず、着替えを用意するから」

「あれ? 銭湯は?」

「一人じゃ行かせられないよ」

 そこで話を切り、ザックは歩き出した。一人で行ってはいけない理由は分からなかったものの、ザックが気を遣ってくれたことを察した葵も無言で彼の後に従う。その後、ザックがリズの服を着替えとして用意してくれたため、葵はとりあえず汗にまみれた制服を脱ぎ捨てることにした。

 リズの部屋を借りて着替えを済ませた葵がリビングへ出ると、そこではすでに洗い髪から水滴を滴らせたザックが座していた。シャツ一枚だけでベストを着ていない彼はもう、店番に出る気はないようである。

「サイズ、大丈夫だった?」

「うん、ちょっと胸が余るけど。リズってスタイルいいんだね」

 葵が何気なく零した科白に、ザックは何故か顔を赤くした。そうした反応をされたことによって自分の発言を振り返った葵も、ハッとして頬に手を当てる。

「あの、そういう発言はちょっと……」

「あ、う、うん。ごめん……」

 これが家族や女の子同士であれば何の問題もないが、ザックは男の子なのである。いきなり胸の話などされても、困るだろう。

(絶対アルのせいだ)

 いつの間にか羞恥心が薄れてしまったのは絶対にアルヴァのせいだと思った葵は胸中で彼に対する文句をたれた。しかし実際には口に出さなかったため、室内には気まずい沈黙が流れている。何とかこの空気を払拭しなければと考えているうちにリズが姿を見せたので、葵はあからさまにホッとした。

「二人してなに真っ赤になってるの?」

 室内の異様な光景を目にした時、リズは遠慮もためらいもなく率直な疑問を口にした。お互いに返す言葉のなかった葵とザックは顔を見合わせ、同時に苦笑いを浮かべる。それを見たリズが怪しいと言い出したので、ザックが早々に話題を変えた。

「そんなことよりお前、店番はどうしたんだよ」

「してたよ?」

 リズがあまりにも堂々と嘘をつくので葵は吹き出してしまった。嘘がばれていると悟ったらしいリズは、恨めしげな目で葵を見やる。葵が慌てて口元を押さえると、ザックが盛大にため息を吐いた。

「どうせまた、アレックスの所に行ってたんだろう?」

「アレックスって誰?」

「あたしのボーイフレンド」

「えっ!? リズ、彼氏いたんだ?」

「カレシ?」

「あ、えっと、恋人ってこと」

 葵が横から口を出したことにより、ザックのお説教は聞き流されてしまった。しかしリズにとっては都合が良かったようで、彼女はこれ幸いとばかりに恋の話を盛り上げる。女二人で話に花を咲かせてしまったため、ザックは仕方なさそうな表情をして立ち上がった。

「あれ? ザック、どこ行くの?」

「後片付け」

 葵の問いに背を向けたまま答え、ザックはリビングを出て行った。兄の姿がなくなった途端に笑みを消したリズは、葵に顔を寄せて声の調子を落とす。

「ねぇ、あたしがいない間に何かあった?」

「えっ? 別に、何もないけど?」

「じゃあ何で、アオイがあたしの服着てるの?」

 リズの考えを読み取った葵はそういうことかと苦笑いを浮かべた。作業場にいたせいで汗をかいたから着替えを貸してもらっただけだということを説明すると、リズはあからさまにガッカリした表情になる。

「なぁんだ、つまんない」

 そう言ってイスにもたれかかったリズは、しかしすぐ、気を取り直したように葵に笑みを向けた。

「ね、アオイってお兄ちゃんのことどう思ってる?」

「どう、って……」

「お兄ちゃん、絶対アオイのこと好きだよ」

 ずいぶんと進展の早い話を聞かされてしまい、葵には苦笑いを浮かべることしか出来なかった。しかしリズは本気でそう思っているようで、喜々として兄の胸中を推し量る。リズには気の済むまで喋らせておこうと思い、葵は適当な相槌だけを打ちながら話半分に彼女の言葉を聞いていた。






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