Practise

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 夏の盛りである橙黄とうこうの月の七日、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校に登校した宮島葵は教室へ行く前に一階の北辺にある保健室を訪れた。しかし今日も、鍵を使って開ける保健室の扉は開かない。それで訪ねてきた相手が不在であることを知った葵は、一日の始まりに恒例となってしまった重いため息をついた。

(アル……どこ行っちゃったんだろう)

 この学園の校医であるアルヴァ=アロースミスは、葵が元の世界へ帰れる方法を探してくれているはずの人達との唯一の接点である。アルヴァを通して間接的にしか情報を得られない葵は、彼の不在が長引くにつれて心配と不安を募らせていた。

(今日、ロバート先生に聞こう)

 昨日もけっきょく補習を受けずに帰ってしまったため、葵は二人きりの時を待って質問をしようと思うことをやめることにした。担任であるロバート=エーメリーがいくら人気者でも、一人でいることがないわけではないだろう。ふとした瞬間に隙は必ずあるはずであり、今日はそうした瞬間を見つけるためにロバートをストーカーしようと思った葵は勢い込んで歩き出した。

「ミヤジマさん、おはようございます」

 保健室に背を向けた直後、まず滅多にされない朝の挨拶を投げかけられた葵は眉をひそめながら声のした方を振り返った。すると廊下にはクラスメートであるシルヴィア=エンゼルの姿があり、彼女の姿を認めた葵は眉間のシワをさらに深いものにする。葵は応えずに歩き出したのだが、シルヴィアは気にすることなく隣に並んだ。

「キリル様からいただいたピジョン・ブラッドはお付けになっていないの?」

 シルヴィアは好意的な笑みを浮かべながら話しかけてきたが、葵は口を開くことをしなかった。代わりに胸中で「あんな目立つものつけていられないよ」と反論をする。そもそもあのアクセサリーは、もう葵の手元にはないのだ。

(……そっか、そのこともあるんだっけ)

 気分転換に成功したせいですっかり失念していたのだが、葵はキリルからプレゼントをもらったことになっているのだ。それを突き返したことは葵とマジスターしか知らないことであり、今日もまた、プレゼントの中身が何だったのかと質問を浴びせられることは必至である。考えただけでも面倒だと思った葵は重々しいため息をつきながら階段を上った。

 葵とシルヴィアが教室に入ったのはまだ予鈴の鐘が鳴る前だったので、室内には誰もいなかった。葵はそのまま真っ直ぐに窓際の自席へと向かおうとしたのだが、シルヴィアが制してきたので嫌々振り返る。葵の腕を引いたシルヴィアは小声で、昨日ウィルとデートをしたのだと明かした。

(それで今日は着膨れてないんだ)

 改めてシルヴィアの出で立ちを見た葵は、そう思った他は特に何も思わなかった。他に誰もいない教室で密談のように明かされても、その内容は「だから何?」的なものである。しかし葵が冷めた態度をとっていても、シルヴィアは熱っぽくウィルとのデートの様子を語った。

「あのウィル様がわたくしのために甘い言葉を囁いてくださったのですよ? もう、夢のようでしたわ」

 その一言にひっかかりを覚えた葵はマシンガントークを続けているシルヴィアをよそに、眉根を寄せながら空を仰いだ。

(ウィルってそういうタイプだったっけ?)

 葵が抱くウィル=ヴィンスのイメージは冷静沈着、そして冷淡である。とても恋愛に関心があると思えないタイプの彼は、シルヴィアとデートをすることさえ何かのついでのような扱いをしていたのだ。そのような人物が甘い言葉を囁くなど、想像もつかなかった葵は肩を竦めて小さく首を振った。

(私には関係ないじゃない)

 ウィルが甘い言葉を囁こうと、シルヴィアがどんなに幸せだろうと、それは葵には無関係な話である。そう思った葵はシルヴィアから視線を外し、それを窓の外へと固定した。間もなく予鈴が鳴って生徒達が登校してきたので、シルヴィアも自分の席へと戻って行く。本鈴が鳴ってロバートが姿を見せるまでクラスメート達に取り囲まれていた葵は誰の問いにも答えることなく、ただただ無言を貫き通したのだった。

 トリニスタン魔法学園では朝の点呼を終えると、クラスを受け持っている教師は授業の準備をするために一度教室を後にする。だがロバートは生徒から人気があるため、話が途切れることなく授業へと移項することもざらだった。そんな彼が珍しく廊下へ出たため、葵は群がってくるクラスメート達を掻き分けるようにして移動を開始する。しかしクラスメート達が着いて来てしまったため、葵はロバートに話しかけることが出来なかった。

(せっかくロバート先生が一人でいるのに)

 もどかしい思いに駆られた葵はクラスメート達を心底うっとおしいと思った。さらには騒ぎを聞きつけた他のクラスの女子までもが加わってきたため、心ならずも輪の中心にいる葵は身動きが取れなくなっていく。しかしそんな状態は長くは続かず、やがて女子生徒の群れは嬌声を上げながら大移動を開始した。

(げっ、)

 人垣がなくなったことで自由になった葵は別の人だかりの隙間に嫌な顔を発見してしまい、おもむろに顔を歪めた。廊下に女生徒の花道を作らせながらこちらへ歩み寄って来ているのは、漆黒の髪に同色の瞳といった容貌をしている私服の少年である。彼と関わるとろくなことがないことを経験として知っている葵は廊下にたむろする白い集団に身を潜ませながら立ち去ろうとした。しかし一人だけ違う出で立ちをしている葵は目を引く存在であり、少年もすぐに葵を見つけてしまったようだった。

「おい、お前」

 横柄な態度で白い集団に人差し指を突きつけた少年の名は、キリル=エクランド。彼が自分を指名したような気がしないでもなかったものの、葵は無視に徹して踵を返した。するとちょうどロバートが一人で歩いている姿を目にしたため、葵は慌てて歩き出す。だが人混みの中ではうまいこと先に進めず、もたもたしているうちに誰かに腕を引かれてしまった。

「お前だって言ってんだろ! シカトしてんじゃねえ!」

 強引に振り向かせられた葵はキリルに怒声を浴びせられてビクリと体を震わせた。だがそんなことよりも、今はロバートの方が重要である。顔だけ後方へ傾けた葵は視界の片隅にロバートが小さくなっていく姿を捉え、慌ててキリルの手を振り解いた。

「ごめん、急いでるから!」

 手を払われたことにあ然としているキリルを捨て置き、葵は今度こそ踵を返して走り出した。廊下に点在している白い障害物はキリルの方に意識がいっているため、葵はその合間を縫いながらロバートの背中を追う。だが階段を下ったところで葵はロバートを見失ってしまった。

(あ、あれ?)

 一階へと降りていくところまでは確かに目で追っていた。しかし右を見ても左を見ても、周囲には誰の姿もない。トリニスタン魔法学園の校舎はドーナツ型になっているので廊下の先は見通しが悪く、葵は右往左往した。その結果、ロバートの姿を発見出来たので声を上げながら走り寄る。

「どうかしたのか?」

 葵が探していたことなど知らないロバートは少し驚いた様子で尋ねてきた。走ったせいで乱れた息を整えた後、葵は周囲に人気がないか確認してから改めて口火を切る。

「先生、アルヴァ=アロースミスって人のこと知ってますか?」

「アロースミスというと、レイチェル=アロースミスの親族か?」

 思いがけずレイチェルの名前が飛び出したので、葵は答えに詰まって黙り込んでしまった。その理由はレイチェルの弟であるアルヴァに、自分達のことを口外するなときつく言い含められているからである。どう答えようかと少し考えた末、葵は小さく首を振った。

「何でもないです」

「そうか。そろそろ授業を始めるから、教室に戻りなさい」

「はい」

 頷いた葵は教室に戻ろうと踵を返したのだが、ロバートに呼び止められてすぐに足を止めた。少し離れてしまった距離を再び縮めてから、ロバートは言葉の続きを口にする。

「補習の件だが、今日は大丈夫そうか?」

「あ、はい。今日は大丈夫です」

「そうか。申し訳ないのだが、今日は私の都合が悪いのだ。明日は実習をする予定なので、その準備があってな」

 何だと思ったのも束の間、肩透かしをくらったことよりも別のことが気になった葵は微かに眉根を寄せた。

「実習?」

「君は編入生だから、実習は初めてか。実習はグラウンドへ出て、そこで実際に魔法を使う。様々な魔法を目にするいい機会だ、しっかり見ておきなさい」

「あ、はい」

 思わずそう返事をしてしまったものの、ロバートと別れて一人になってから葵は自分の発言を後悔した。グラウンドへ出て実習をするというからには、おそらく大掛かりな魔法を使うのだろう。そういった魔法から身を守る術を持たない葵は以前にも髪の毛を焼かれたりと散々な目に遭っているので、不安に思ったのだった。

(アルもいないのに、大丈夫かなぁ)

 今度は何があっても逃げ込める場所がない。だがこの場にアルヴァがいたとしても、やはり庇ってはくれないだろう。一度としてアルヴァに庇ってもらった覚えがないことを思い出した葵は苦笑いを浮かべて首を振った。

(アルよりロバート先生の方がよっぽど頼りになるよ)

 ロバートがいれば大丈夫だろうという結論に達した葵はそこで考えることをやめ、校舎二階にある二年A一組の教室へと急ぐことにした。






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