Practise

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 豪奢な飾り窓から差し込む夜の光が大理石の床にもう一つの窓を映し出す夜、斜光から外れた場所にある天蓋つきのベッドは主を迎えることなくきちんと整えられていた。一人が使用するにしては無駄に広い室内に人影はなく、ただテラスに面した窓にかかっている薄手のカーテンだけが夜の微風に揺れている。平素であればキングサイズのベッドで丸くなっている時分、その部屋の主である葵はテラスでオレンジ色の月光を浴びながら物思いにふけっていた。

 ハルにもらって以来、葵は何となくブレスレットを嵌めたままでいた。初めの頃は純粋にプレゼントされたのが嬉しかったから身につけていたのだが、外すことをしないうちにいつの間にか、身に着けていることが当たり前になっていたのだ。近頃はその存在すら、ほぼ失念していた。だがそれを捨てろと言われた時、葵の心は激しい拒絶を示してみせた。

(私、ほんとにハルのこと好きだったんだなぁ……)

 自分の気持ちではあっても、それを改めて確かめてしまったことは驚きだった。一体いつまで、この気持ちは熱を失わないのか。そう思った葵は自分の性格を考えてみて、苦い笑みを浮かべた。

(一度はまっちゃうとなかなか冷めないんだよねぇ)

 その典型的な例が葵の愛する芸能人、加藤大輝である。彼との出会いは今から三年前に遡るが、未だ彼を愛する気持ちは衰退を見せない。そのことを考えれば、初恋を忘れるまでに最低でも三年はかかってしまうのかもしれない。どうしようもない想いを三年も引きずっていたくないと思った葵は苦々しくため息をついた。

(ハルはステラと幸せになったんだから。もう、いいじゃない)

 自分にそう言い聞かせることで思考を断ち切った葵は室内へ戻って、外したブレスレットを私物の鞄にしまった。捨てられはしないけれど、目に触れなければそのうちに忘れていくだろう。そしていつか、ハルに恋した気持ちを懐かしんで、また身につけられたらいい。気持ちが思い出に変わるまでの時間はさておき、自分の中で一応のけじめをつけた葵は鞄をデスクの脇に置いて立ち上がった。

(クレアにお茶でも淹れてもらおう)

 体が微妙に変調を訴えていたこともあり、葵は気分を変えてからベッドに入ることにした。この屋敷の使用人であるクレアは小さな呼び鈴ベルを鳴らすだけですぐに駆けつけて来てくれるが、いつも呼びつけてばかりでは申し訳がないと思った葵は彼女を探すために室外へと向かう。夜の屋敷にはオレンジ色の月明かりが差し込んでいて、昼間とはまた違った幻想的な雰囲気を醸し出していた。

(なんか、これくらいの時間帯に歩き回るのって久しぶりかも)

 橙黄とうこうの月の初めにクレアがやって来てから、葵は規則正しい生活を送っていた。夜の廊下を歩く時もクレアが魔法で足下を照らしてくれるため、こうして月明かりを浴びながら屋敷内を歩くのが久しぶりのような気がするのだ。実際、クレアがやって来てからもう一週間以上経っていることに気付き、葵は改めてアルヴァの不在に思いを及ばせた。

(結局、クレアが誰に言われて来たのかまだ分からないんだよね)

 クレアに世話を焼いてもらう生活に何となく馴染んできてしまっているものの、根本的な問題は何も解決していないのだ。にもかかわらず葵があまりそのことを気にしないでいられるのは、クレアが何も尋ねてこないからである。

(それもあれかな、使用人としてってやつなのかな)

 クレアはよく『メイドとはかくあるべき』のようなことを口にする。まるで漫画や小説の登場人物のようだと思った葵は密かに苦笑しつつ足を止めた。

(クレア、どこの部屋使ってるんだろう)

 住み込みで働いている以上はどこかの空き部屋を私室としているはずだが、葵はクレアがどのような生活をしているのかまったく知らなかった。だが寝室にいて人の気配や物音を感じたことはないため、おそらく二階ではないだろう。まだ起きているかもしれないと思った葵は、とりあえず厨房に向かってみることにした。

 葵が一度足を止めた踊り場から階段を下ると、そこは広々としたエントランスホールである。エントランスホールには四つの扉があって、その奥にはそれぞれ廊下が続いている。玄関脇の扉を開けた葵は厨房や食堂がある方向へと歩を進めたのだが、行き着いた先はひっそりと静まり返っていた。明かりも灯っていないので、おそらくもうここにはいないだろう。そう察した葵は元来た廊下を引き返し、今度は玄関脇にある反対側の扉を開けた。

 夜の静謐に包まれている廊下を歩いていると明かりが漏れている部屋があったので、葵はすぐそちらに寄った。しかし扉をノックしようとする前に異変に気が付き、葵は伸ばしかけた腕を止める。

「はい、お怪我はなさっていないようです」

 扉の向こう側から微かに漏れ聞こえてきたのはクレアの声だった。その調子が誰かと話をしているような感じだったので、葵は首をひねる。

(お客さん? こんな夜に?)

 この世界には時計というものが存在しないので現在が何時に当たるのかは分からないのだが、すでに月は中天に昇っている時分である。来客にしては遅すぎるのではないかと思った葵は不審を感じて眉根を寄せた。しかも明らかに会話をしているにもかかわらず、室内からはクレアの声しか聞こえてこない。電話中かとも思ったのだが、葵はすぐに自分の考えを否定した。

(電話なんて見たことないよ)

 よく分からなかったがこのままでは盗み聞きになってしまうため、葵は意を決して扉をノックした。その後に扉の外から呼びかけると、それまで誰かと話をしていたクレアの声がピタリと止む。少し間があってから、驚いたような表情をしたクレアが室内から顔を覗かせた。

「お嬢様。どうされました?」

「寝付けないから紅茶を淹れて欲しいなぁと思って」

「それで、わざわざいらしたのですか? ベルでお呼びくださればよろしかったのに」

 わずかな隙間に体を滑らせたクレアは、廊下へ出るとすぐ扉を閉ざした。その行動が何かを隠しているように思えて、葵は微かに眉根を寄せる。ちょうど月明かりの届かない場所だったため葵の変化を察したかどうかは定かでないが、クレアは何事もなかったかのように言葉を重ねた。

「準備してお持ちいたしますので、お嬢様はお部屋にお戻り下さい」

「あ、うん……」

 疑問を口にすることが出来ないまま、クレアに促された葵は一人で寝室へと戻ることになった。二階の片隅にある寝室へ戻ってしばらくすると、軽いノックの音と共にクレアが姿を見せる。ワゴンを押して室内へ入って来たクレアは魔法で明かりを発生させ、窓辺の席で紅茶の準備を始めた。

「……ねぇ、クレア」

「はい」

「さっき、誰か来てたの?」

 葵が尋ねると、クレアはいつのことを言っているのかと質問を返してきた。はぐらかされているように感じた葵は、ついさっき声をかけに行った時のことだと明答する。するとクレアは、誰も来てなどいないという答えを寄越してきた。

「でも、誰かと喋ってなかった?」

「マトに話しかけておりましたので、わたくしの声が聞こえたのでしたら、きっとその時のものでしょう」

 そう答えたクレアの態度は非常に堂々としたものだったが、葵にはそれが嘘であることが分かってしまった。あまりにも平然と嘘をつかれたため、胸苦しさを覚えた葵は顔をしかめる。だがクレアが紅茶を持って傍へ来たので、葵はすぐ無表情へと戻った。

「失礼いたします」

 葵の傍へ来たことで何かに気付いた様子のクレアは、そう言い置くと彼女の額に手を当てた。クレアの突然の行動に驚いた葵はティーカップを受け取った体勢のまま硬直する。

「少し、熱があるようですね」

「熱?」

「夜が更けると上がってしまうかもしれません。枕元にベルを置いておきますので、お体の調子が思わしくないようでしたらお呼び下さい」

 そう言い置くとクレアはいったん葵の元を離れ、デスクの上に置いてあったベルを手にベッドの方へと戻って来た。ベッドに横たわったままでも手が届く位置にベルを置いたクレアは今度は衣装棚へ向かい、少し厚手のカーディガンを引っ張り出してくる。冬場に着用していたカーディガンをベッドの傍へ運んできたテーブルにかけると、クレアは改めて葵を振り返った。

「それではお嬢様、おやすみなさいませ」

 律儀に一礼して見せると、クレアはワゴンを押して去って行く。その背中に「おやすみ」と返しつつも葵の心は晴れないままだった。

(……寝よう)

 体の調子が悪い時は思考も正常ではいられない。疑念を胸の底に押し込めて自分にそう言い聞かせた葵は、少し温めの紅茶を干すとキングサイズのベッドに転がったのだった。






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