「ごちそうさま」
一人分の食事をきっちりと平らげた葵はナイフとフォークを置き、傍に佇んでいるメイド服姿の少女に向かって軽く手を合わせた。葵と同年代だと思われる彼女の名は、クレア=ブルームフィールドという。料理を作ってくれた人に対する感謝を述べるのは貴族らしからぬ行為であり、クレアは当初こそ戸惑うような様子を見せていたものの今ではすっかり葵の習慣に馴染み、特に気にするでもなく空になった皿を片付け始めた。腹がふくれた葵はイスの背もたれにゆったりと体重を預け、食後の紅茶が出てくるのを待つ。テーブルの上を手早く片付けたクレアはすぐにティーポットへと手を伸ばし、手作業で淹れた紅茶を葵の前へ置いた。
「だいぶ、お体の方はよろしいようですね」
クレアがそんな科白を投げかけてきたのは昨日、葵が熱を出して寝込んだからである。風邪をひきそうだと思っていて、まんまとひいてしまった自分に苦笑しながら葵はクレアに頷いて見せた。
「うん、もう大丈夫。看病してくれてありがとね、クレア」
葵が改まってお礼を言うと、クレアは「それが仕事だから」という旨の答えを寄越してきた。そういった反応を返されることは分かっていたものの、若干の寂しさを感じた葵は気付かれないよう小さく肩を竦める。やはりクレアには、使用人という立場以上に葵と親しくなる気はないようである。
(私だってクレアに隠し事してるんだから、お互い様だよね)
秘密を抱えながら共同生活をしている以上は、踏み込んではならない一線というものが存在するのは仕方がない。そう割り切って考えることにした葵は一昨日の晩の出来事をなかったことにしたのだった。
「お嬢様、本日はいかがなさいますか?」
トリニスタン魔法学園へ行くつもりだった葵はクレアから不意に投げかけられた問いに首を傾げた。
「学校に行くつもりだけど……何で?」
「本日は休日です」
「あ、十日かぁ。そっか……じゃあ、どうしようかな」
休日をすっかり失念していた葵はティーカップをソーサーに戻し、考え事をするために空を仰いだ。これが元いた世界で投げかけられた問いならば、答えは考えるまでもなかっただろう。しかし異世界から召喚された人間である葵にはまだ、この世界での基盤が出来上がっていないのだ。だから自由に答えられる質問をされてしまうと、逆に答えに詰まってしまう。
「……ゲームでもしようかな。クレア、付き合ってくれる?」
この世界での娯楽がよく分かっていない葵にとって、今はコンバーツというボードゲームが唯一の遊びだった。コンバーツは対戦型のゲームであるため、相手がいなければ遊ぶことが出来ない。ゲームに付き合うことも仕事の一環だと思っている節があるクレアは、嫌な顔一つせずに葵の申し出を受け入れた。
「かしこまりました。わたくしは所用を片付けてから参りますので、お嬢様は先にお部屋へお戻り下さい」
「うん。分かった」
食堂の後片付けを済ませてから来るのだろうと思った葵は、クレアの言葉に従って席を立った。その足でエントランスホールを抜け、二階の隅にある寝室を目指す。葵が寝室へ戻って程なくすると、クレアがゲーム道具一式を持って姿を現した。
「お待たせいたしました」
葵に決まり文句を告げると、クレアはすぐ窓際に置かれているテーブルへと向かった。クレアが手際よくセッティングをしているのを眺めながら、葵は彼女の向かいに腰を落ち着ける。薄手のカーテンが適度に夏の日差しを遮ってくれる窓辺で、葵とクレアは対戦を開始した。
コンバーツとはお互いに五種類の駒を使って相手を攻め立てる、チェスに似たゲームである。チェスで言うところのキングに相当するのが太陽と月を表した駒で、どちらかがこれを落とされればゲームは終了となる。キング(太陽か月)の盾となりながら敵への攻撃を行うのが火・水・木・土を象った駒であり、これらの駒にはそれぞれに特性がある。しかしコンバーツを始めて日が浅い葵はまだ駒の働きをよく理解しておらず、知らずのうちにルールを無視してしまうことがしばしばあった。
「お嬢様、その駒は火の駒を飛び越えることは出来ません」
「えっ、そうだっけ?」
「火を鎮めることが出来るのは土だけです。水は相殺、木は灰になり、風は火の勢いを増します」
水の駒は火の駒を倒すことは出来ず、木の駒は逆に火の駒に倒されてしまい、風の駒が近くにいる時には火の駒の動きが変則的になる。クレアが言っているのは、要はそういうことである。理解を追いつかせようと必死な葵は真剣そのものの形相で盤面を凝視し、長い時間を使った後であることに気がついてしまった。
「もしかして、手詰まり?」
「残念ですが、その通りです」
次の一手で葵がどう駒を動かそうと、クレアは葵の
「勝てない……」
「お嬢様はまだコンバーツのルールを把握されていないようです。ですがそれは、そのうち解消されるでしょう。もう一勝負いたしますか?」
「う〜ん、今日はもういいや」
連戦連敗している葵は頭を使うゲームに嫌気がさしてしまい、苦笑を浮かべながらクレアの申し出を断った。それでもクレアは嫌な顔一つせず、葵の意に従って後片付けを開始する。窓際の席からベッドへと移動した葵は片付けをしているクレアの姿を目で追いながら彼女に話しかけた。
「ねぇ、クレアってどこから来たの?」
地理感がないのでどうせ分からないだろうなとは思いながらも、葵は会話を繋げるためにクレアの出身地を尋ねてみた。すると、てきぱきと片付けをしていたクレアの手がつと止まる。しかし彼女が動揺を見せたのは一瞬のことで、すぐに片付けを再開させたクレアは葵を振り返ることなく問いの答えを口にした。
「わたくしは
「るつぼ島? どこにあるの、それ?」
「ご存知ない、のですか?」
手を動かしながら話に応じていたクレアが、そこで初めて葵を振り返った。微かに眉根を寄せている彼女の反応から突っ込まれるかもしれないと思った葵は身構えたのだが、クレアはしばらく沈黙した後、問われたことの答えのみを返してくる。
「アン・カルテ」
短く呪文を唱えた後、クレアはエプロンのポケットから取り出したペンを宙に放った。クレアの手を離れたペンは空中で光を帯び、ひとりでに地図を描き出していく。光の線で描かれた世界地図が空中で完成してから、クレアはある場所を指し示した。
「ここが坩堝島です」
葵が生まれ育った世界の地図は七大陸だったが、二月が浮かぶこの世界の地図では大きさの異なる大陸が東西に存在する。クレアが指差したのは、両大陸のちょうど中間地点の海に浮かぶ小さな島だった。
「へぇ〜、小さいんだね」
「面積はファスト大陸の十分の一しかございませんが、人口は同大陸のフロワーズ国と同程度です」
この世界の地理に疎い葵にはクレアが何を説明してくれているのか、さっぱり分からなかった。葵から反応が返ってこないことの意味を正しく汲み取ったらしいクレアは、特に訝しげな表情を見せるでもなくさらなる説明を加える。
「ファストは西の大陸の名称です。フロワーズ国は、ここです」
クレアが指し示したのは西の大陸の北部にある、地図上でもそれなりの大きさを有している国だった。フロワーズ国と坩堝島を見比べてみれば、その大きさはおよそ三倍くらいであり、葵は地図に視線を注ぎながらしきりに目を瞬かせる。
「ここと同じくらいの人が、あの小さな島にいるの?」
「はい。坩堝島では人々がひしめきあうようにして暮らしています」
「それは……きゅうくつそうだね」
日本の都会もそうだったが、もしかしたら坩堝島はそれ以上に狭苦しいのかもしれない。その光景を想像した葵は行きたくないなぁと苦笑いを浮かべた。
「王都っていうのは? どこにあるの?」
「スレイバル王国の首都をお尋ねですか?」
「えーっと、こっちの、大きい方の大陸の、かな?」
「それでしたら、こちらになります」
クレアが東の大陸の中西部を指し示したところでふと、彼女の肩口で腹這いになっていたワニに似た魔法生物が大きく顔を持ち上げた。彼は名をマトといい、マトが動き出したことでクレアもあらぬ方向へと顔を傾ける。空中に描かれた地図越しに彼女達の様子を見て取った葵は不思議に思って首を傾げた。
「どうしたの?」
「いえ。所用を思い出しましたので、わたくしはこれで失礼いたします」
葵に向かって一礼すると、クレアは足早に室外へと向かう。広い部屋に一人取り残された葵は何とはなしに、久しぶりに目にしたこの世界の地図に見入った。
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