(あの辺が王都、かぁ……)
クレアに教えてもらった王都の場所は、東の大陸の中西部である。地図上ではそこがどのような場所なのかまで窺い知ることは出来ないが、王都と言うからにはきっと華やかな都なのだろう。だが葵の心は王都の風景よりも、そこへ行ってしまった人たちのことに囚われていた。
(ステラとハル、元気かな)
トリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターだったステラ=カーティスとハル=ヒューイットは葵にとって特別な存在である。その思いは傍にいた時から、彼らが遠くへ行ってしまった今に至るまで変わらずに胸の中にある。だが例え葵が王都へ赴いたとしても、彼らに会うことは出来ないのだ。おそらくもう二度と、彼らと顔を合わせることはないだろう。
(……やめよう)
一人きりの部屋で彼らのことを思い返していると切なくなってしまう。そう思った葵は地図の傍へ寄り、手で空中を払うことで光の線図を消し去った。その後ベッドへと戻った葵は間際で靴を脱ぎ、極上のスプリングを軋ませながらうつ伏せで倒れこむ。
(これからどうしよう……)
用事があると言っていたので、クレアはもう相手をしてくれないだろう。まだ日は高く、昼食後の予定は未定のままである。何もすることがないのは辛いので、葵は出掛けることに決めて勢いよく起き上がった。
(ザックの所にでも行こう)
ザックか、彼の妹であるリズと一緒にいると時間が経つのが早い。ただ、ザックの所へ行くためにはクレアにパンテノン市街まで送ってもらわなければならないのだ。
(いいかげん、悪いよね……)
そう思った葵は出掛けるのを我慢しようかとも考えたのだが、あることを思い出してすぐに考えを改めた。
(そうだ、リズの服。借りっぱなしだった)
以前にザックの所へ遊びに行った時、葵は彼が仕事をしている様子を見るのに夢中で汗だくになってしまった。着替えが必要なほど汗をかいてしまった葵は、その時にリズの服を無断で借りたのである。その洋服はクレアに洗っておいてと頼んだため、どのみちクレアを呼びつけないことには何も始まらなかった。
悪いなぁとは思いつつも、葵はデスクの上に置いてある
(……あれ?)
もう一度ベルを振ってみても反応がなかったため、葵はクレアを探すために寝室を後にした。廊下へ出た直後、足元にあった何かを踏みそうになった葵は慌てて体をのけ反らせる。間一髪の所で回避した後、葵は改めて足元にある物体を見やった。
「マト?」
大理石の廊下にべったりと腹這いになっているのは、クレアのパートナーである魔法生物だった。ワニに似た姿をしているマトは、葵の独白に応えるかのように細長い口を持ち上げる。もともとこの生物を苦手に思っている葵は、マトの動作にビクッとして数歩後ずさった。
(こ、怖っ……)
同じ不可思議な生き物でも、マトは保健室のウサギのように人語を喋ったりしない。クレアが会話をしていたので意思があるらしいことは分かっているのだが、疎通が出来ないだけにマトには得体の知れない恐ろしさがあるのだ。
葵がどうしようかと悩んでいると、それまで無言で葵を見上げていたマトが不意に首を傾けた。つられて顔を傾けた葵は廊下の先からクレアがやって来るのを目にして、ホッと胸を撫で下ろす。早足で葵の元へやって来たクレアは床に張り付いているマトを抱き上げ、それから葵に向かって頭を下げた。
「お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」
「それはいいんだけど……何かあった?」
クレアを呼んで、マトだけがやって来るというパターンは今までに経験したことがない。そのため葵は、何かよっぽどのことがあったのではないかと勘ぐってしまった。頭を上げたクレアは少しだけ苦い表情になって葵の問いに応じる。
「お客様がいらしていたので、わたくしはその対応に出ておりました。その際、マトを一人で部屋に置いておいたものですから、お嬢様がお呼びになっているのに反応してしまったのです」
クレアの話によると、例の人間には聞こえない音を発するのだというベルは、マトがその音を聞きつけることで呼び鈴の働きをしているものらしい。通常はマトが反応を示したことで葵が呼んでいることを察したクレアが彼女の元に赴くのだが、今回は間が悪かった。葵がベルを鳴らした時にマトがたまたま一人でいたため、彼は呼び鈴に引き寄せられるままに葵の寝室を訪れたのである。そうとは知らず思いきり怖がってしまった葵は、マトに対して申し訳ない思いを抱いた。
「そうだったんだ……。呼んだから来てくれたのに、怖がってごめんね」
ガラス玉のように光を反射しているマトの目を覗き込んで謝罪した葵は、次に来訪者についての疑問を解消することにした。
「で、お客さんって?」
「お嬢様の担任の先生です」
「えっ? ロバート先生……が、いるの?」
「いえ、もうお帰りになられました。本日はお嬢様にこれをお届けするために立ち寄っただけだと仰られて」
クレアが手にしていた物を掲げて見せたので、葵も改めて彼女の手元を注視した。そこに円陣で囲まれた
(そういえば……)
実習でハプニングがあった後、魔法書を手にしていた記憶がない。屋敷にも手ぶらで帰ったような気がするので、おそらくつむじ風に弾き飛ばされた時に紛失してしまったのだろう。それをロバートが届けに来たということは、きっと落し物として発見されたからに違いない。今まできれいに忘れ去っていたものの、運が良かったから魔法書が戻って来たのだと察した葵はさっと顔色を変えた。
(あ、危ない。これ失くしたら、アルに何言われるか分からないよ)
今さらながらに肝を冷やした葵は休日にもかかわらず届けに来てくれたロバートに心底感謝した。やはり彼は信頼に足る人物である。改めてそう実感した葵は胸中でロバートに感謝の言葉を捧げながらクレアから魔法書を受け取った。
「ところで、お嬢様。わたくしをお呼びでしたでしょうか」
「あ、そうそう。前に洗ってって渡した服、もう出来てる?」
「はい。お持ちいたしますか?」
「うん。パンテノン市街に行きたいから、送ってくれる?」
「かしこまりました。では、お嬢様の準備が整いましたら屋敷前の魔法陣にお越し下さい」
話がまとまると、クレアは葵に一礼してから廊下を引き返して行った。葵も一度寝室へ引き返し、魔法書をデスクの上に置いてから踵を返す。屋敷の玄関と前庭の噴水の間にある魔法陣へ赴くとすでにクレアがいたため、彼女から紙袋を受け取った葵はそのままパンテノン市街へと出掛けたのだった。
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