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「お嬢様、朝でございます」

 誰かの声が降ってくると同時にカーテンが退けられ、室内に夏の朝日が差し込んできた。閉ざしていた瞼の裏に光を感じた宮島葵は、平素なら上掛けを頭までかぶってベッドの中で丸くなるところを、今日はすんなりと目を開けて起き上がる。顔を傾けた窓辺でメイドのクレア=ブルームフィールドが柔らかな斜光を浴びながら紅茶を淹れていたので、葵は彼女に微笑みを向けた。

「おはよう」

「おはようございます」

 挨拶を返しながら、クレアは葵にソーサーごとティーカップを差し出した。淹れたての紅茶から立ち上るハーブの香りが清々しく、一口含んだだけで寝起きの頭を冴えさせていく。だが今日に限って言えば、アーリーモーニングティーの力を借りずとも葵の意識はすでに覚醒していた。

「食卓でお待ちしております」

 そう言い置いてクレアが姿を消したので、ベッドから下りた葵はティーカップをテーブルに置いて身支度を始めた。彼女がいつになくキビキビと動いているのは、昨夜の出来事で邪念が取り払われたからだった。

 昨夜、生まれ育った世界の友人である弥也ややと話をしたことによって葵は様々な情報を得ることが出来た。特にあちら側の世界での動きを知ることが出来たのは非常に有益である。自分の失踪が誘拐事件として警察沙汰になっていたのには尻込みしてしまうが、それ以上に幸いなことがいくつもあった。中でも二つの世界には時間の流れに差異があると判明したことが一番の収穫だったと言えるだろう。

 二月が浮かぶこの世界に葵が召喚されてから、早三ヶ月。橙黄とうこうの月が終われば四ヶ月となってしまうわけだが、弥也の口ぶりからすると、葵が元いた世界ではまだ三日ほどしか経過していないようだった。単純計算すればこの世界の一ヶ月が葵のいるべき世界の一日であり、丸一年この世界に留まっていたとしても元の世界で経過した時間は一ヶ月にも満たない。年単位と日単位では不在の重みがまったく違ってくるため、葵にとってこれは非常にありがたいことだった。

 時間の流れが違うことに安堵を覚えはしたものの、葵はそれと同時に『早く帰らなくちゃ』という想いを強くした。それを実行するための第一歩として、クレアに送ってもらってトリニスタン魔法学園に登校した葵は一階の北辺にある保健室を訪れた。

(……まだ帰って来てない)

 保健室の扉が鍵を使って開かれる時、葵はこの学園において唯一彼女の事情を承知している青年に会うことが出来る。だがこの日も差し込んだ鍵は回らず、嘆息した葵は引き抜いた鍵をスカートのポケットにしまった。その場所には鍵の他にも大切な物が入れられており、布地の上からその感触を確かめた葵は気分を入れ替えて踵を返した。

 トリニスタン魔法学園の生徒は冬でも夏でも白いローブを纏っているが、葵はワイシャツにチャックのスカートという出で立ちをしている。元いた世界で通っていた高等学校の制服に身を包んでいる葵はただ廊下を歩いているだけで異質な存在であり、四方八方から視線が飛んでくる。それは好奇と嫉妬を孕んだもので、大半の生徒が葵のことを快く思っていないのだ。そのため時にはあからさまな悪口を叩かれることもあるが、今の葵にはそのどれもがまったく気にならなかった。昏い感情が渦巻く校舎を平然と歩いてきた葵は、目的地に到着して歩みを止める。二階にある二年A一組の扉を開けると、それまで歓談の声にあふれていた室内は水を打ったように静まり返ったが、葵は意に介せず窓際の自席へと向かった。

 本日から鞄を持って登校することにした葵はその中から魔法書を取り出し、ブラックボードに視線を据えたまま担任教師が姿を現すのを待った。程なくして校内には本鈴が鳴り響き、それから少し遅れて教室の扉が開かれる。姿を現したロバート=エーメリーは教壇に立つとすぐ授業を開始したので、葵は昼休憩に入るのを待って席を立った。

「ロバート先生」

 廊下に出たところでロバートを捉まえた葵はまず、魔法書を届けてくれたことに対する感謝の気持ちを伝えた。ロバートが微笑むだけで応えとしたので、葵もつられて笑みを浮かべる。

「私の魔法書、どこにあったんですか?」

「君の机の上に置いてあった。誰かが届けてくれたのだろうが、中を見られただろうことは覚悟しておいた方がいい」

 笑みを収めたロバートは声の調子を落としながら囁きかけてきたが、葵には未だに『魔法書の中身を知られる』ことに対する恐ろしさが分からなかった。そのためその話題は軽く聞き流し、葵は次いでロバートの怪我に言及する。ロバートはもう何ともないと言って、再び笑みを浮かべた。

「メイドの彼女が昼食を用意して待っているのだろう? そろそろ行きなさい」

 トリニスタン魔法学園では昼食を自宅でとるのが一般的なので、大抵の生徒は昼休みに一時帰宅をする。クレアが屋敷に来てからは葵も昼休みに帰ることにしているため、ロバートに頷いて見せた彼女は踵を返した。しかしすぐ、言い忘れたことを思い出した葵は歩みを止めて再びロバートを振り返る。

「先生、今日からよろしくお願いします」

 葵の言葉には主語がなかったが、ロバートにはそれが補習のことを言っているのだと伝わったようだった。ロバートがすぐに頷いて見せたため、葵は彼に一礼してから歩き出す。廊下にたむろしている数人の女子生徒が視線を投げかけてきていることに気付いていたため、葵は彼女達に絡まれないうちにと足早にエントランスホールへ向かった。






 トリニスタン魔法学園では授業が終わるとすぐに生徒達が下校するため、放課後の校舎は夜の静謐に劣らない静寂に支配される。そのため終わりも始まりもないドーナツ型の校舎に立ち並ぶ教室は夕暮れ時には物悲しい顔を見せるのだが、この日は少々勝手が違っていた。

「少し休憩するか」

 窓の外に目をやったロバートがそんな科白を口にしたので、今までにない集中力で紙面と向き合っていた葵はぐったりと椅子の背もたれに体重を預けた。窓際にある葵の机の上には元いた世界から一緒に連れて来られた、無属性魔法のかかっていないノートと筆記用具が散乱している。魔法の存在するこの世界で勉強と言えば当然のように魔法道具マジックアイテムが使われるのだが今はアルヴァが不在のため、葵には魔法自体を使うことが出来ない。そのため仕方なく全てを手作業でやっているのだが、特にロバートから質問を投げかけられるようなこともなかった。

「疲れたか?」

 椅子を支えにしてのけぞっていた葵はロバートに話しかけられたので姿勢を正した。元の世界にいた時でさえこれほど真剣に勉強したことは数えるほどで、主に頭の疲労を感じていた葵は素直に頷いて見せる。

「今はまだ基礎的なことしかやっていないからな。面白さが分かってくるようになれば疲れなど気にならなくなる」

 ロバートの言う『基礎的なこと』とは、彼の用意した魔法書をひたすら書き写す作業を指していた。それがどうして魔法の勉強になるのか、実は葵には何一つ理解出来ていない。だが余計な質問をして痛い腹を探られてはたまらないので、大人しく従っているのだった。

(そのうち分かるようになる、のかなぁ?)

 ミミズがのた打ち回っているような文面を睨みつけた葵は道のりが果てしなく遠そうだということを本能的に察した。だが葵は魔法を学ばなければならない。そのためには勉強の仕方さえ分からない葵を指導してくれる存在が必要不可欠であり、そういった意味でもロバートの存在が非常にありがたいものだった。

「先生、ちょっと聞いてもいいですか?」

「何だ? 質問はいつでも歓迎する」

「あ、勉強のことじゃないんですけど……」

 ロバートがそれでも構わないと言うので、葵は実習の時から気になっていたことを尋ねてみることにした。

「あの竜巻みたいな風が発生する前に、皆が私を見てましたよね? あれって何だったんですか?」

 葵が質問を口にすると、ロバートは難しい表情になって口をつぐんでしまった。しばらく考えをまとめているような間があった後、空を仰いでいた彼は葵に向き直ってから口火を切る。

「実習の際、グラウンドに魔法陣が敷かれていたのは覚えているか?」

「はい。ロバート先生がやったやつですよね?」

「そうだ、実習を始める前に私が敷いた。あの魔法陣には様々な効用があるのだが、その一つに外部からの干渉を防ぐという目的がある。そういった魔法陣を敷いた場合、通常であれば魔法陣の外側からかけられた魔法は弾き返されるか吸収される。だがあの時、魔法陣の綻びを縫うように、何者かの魔法が外部から侵入してきたのだ」

「え、えっーっと……」

「図にして説明した方が解りやすいか」

 葵が理解していないことを見て取ったロバートは、そう独白を零すとペンを手にした。無属性魔法が刻まれているペンはロバートの呪文に反応して光を帯び、何もない空中に光の線図を描き出していく。絵図があれば説明も理解しやすく、先程ロバートが言っていた内容を理解した葵はさらに首をひねった。

「つまり、誰かが授業を妨害しようとしたってことですか?」

「授業を妨害しようとする意識があったかどうかは分からないが、実際に彼らのせいで授業は中断してしまったわけだからな。困ったものだ」

「彼らって……先生は誰がそんなことしたか知ってるんですか?」

「教師の敷いた魔法陣を外部から崩すことの出来る者は限られている」

「……まさか」

 ここまで話が進めば、葵にも誰がそんなことをしたのか察することが出来た。ロバートと一緒に保健室へ向かう途中、グラウンドに何故かキリル=エクランドの姿があったことを思い出した葵は頭を抱えたい思いで呻き声を発する。

(なに考えてんのよ、あいつ)

 嫌われていたはずなのに近頃はやたらと付き纏われたりと、キリルの言動には理解不能な点が多い。それだけでも頭が痛かったのに、葵はさらなる頭痛の種に気がついてしまった。

「先生、今、彼らって言いました?」

「ああ。何が目的であのような風を起こしたのかは分からないが、マジスターの狙いは君だったようだな」

「あ、あの竜巻みたいな風! あれもマジスターの仕業だったんですか!?」

「風の魔法を得意としているのはウィル=ヴィンスだ。十中八九、彼の仕業だろう」

 ウィルに狙い撃ちされたと知って、葵は絶句してしまった。マジスターにとっては只の戯れなのかもしれないが、自然属性の魔法が使えない葵には笑い事では済ませられない問題である。ロバートが庇ってくれたおかげで無傷で済んだが、下手をすればあの一撃で死んでいたかもしれないからだ。

(し、信じられない……)

 ウィルが何故そんなことをしたのかは分からないが、悪質すぎる。そう思った葵が静かに怒りを煮えたぎらせていると、顔色を読み取ったかのようにロバートが宥める言葉を口にした。

「腹を立てる気持ちも分かるが、マジスターには関わらない方が君のためだ。さて、そろそろ再開しよう」

 どうにも腹の虫が治まらなかったが、ロバートの言っていることは正論である。そう思った葵はやり場のない憤りを補習にぶつけることで気を紛らわせた。






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