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 クレアに送ってもらってトリニスタン魔法学園へと登校した葵は、校舎に入るとまず一階の北辺にある保健室を目指した。そこで目当ての人物が未だ不在であることを確認した後、今度は二階にある二年A一組の教室へと向かう。この学園では予鈴が届けられると共に生徒達がいっせいに登校してくるので校内にはまだ誰の姿もなく、至る所がしんと静まり返っていた。

(なんかこの静けさ、久しぶりかも)

 クレアがやって来るまで予鈴が自宅に届けられることすら知らなかった葵は片道一時間ほどかけて徒歩で通学していた。この世界には時を計るものが存在しないので、そうして登校すると大抵は遅すぎるか早すぎるかのどちらかだったのである。早すぎる時は暇を持て余し、こうして人気のない早朝の校舎をよく歩き回っていたものだ。だが今は無駄にする時間などないため、窓際の自席に腰を下ろした葵はすぐに魔法書を広げる。初めのうちは順調だったのだが早朝の静けさがやがて眠りを誘い、葵は睡魔と闘いながら勉強を続けた。

 頬杖をつきながら魔法書に目を落としていた葵はいつの間にかウトウトしてしまい、自身の手が顎から外れたことでハッと我に返った。机に顔面を打ち付ける前に体を起こした葵は限界を感じ、魔法書を閉ざしてから鞄を探る。携帯電話を取り出して電源をオンにした葵は久しぶりに愛しの芸能人の顔を見て口元をほころばせた。

(カッコイイなぁ、加藤大輝……)

 イケメン若手俳優である加藤大輝はバラエティやトーク番組には出演しない人物なので、葵にとっての彼のイメージは映画の中の役どころそのままである。クールで、不器用だけど優しくて、いざという時には頼れるひと。めったに本心を口に出さないが、ここという時にはストレートな感情をぶつけてくるところもたまらなく魅力的である。葵がそうした印象を抱いているのは、彼の代表作が恋愛作品だからだった。

(映画、見たかったなぁ……)

 夏休みには加藤大輝が出演する新作映画が公開されるはずだったのだ。見逃してしまったことにため息をついた葵はすぐ、あることに思い当たって瞳を輝かせた。

(そうだ、まだ三日しか経ってないんじゃん)

 二月が浮かぶこの世界と、葵が元いた世界では時間の流れ方が異なる。この世界での一ヶ月が向こうの世界での一日に相当しているため、映画の公開前に元の世界へ戻れば加藤大輝の勇姿を見ることが出来るかもしれないのだ。そのことに気付いた葵はやる気を取り戻し、再び魔法書を広げる。机の端に立てた携帯電話を時々振り向いては加藤大輝に元気をもらい、葵は人気のない教室で黙々と勉強に励んだのだった。






 ウィルに教えてもらった魔法陣で転移したキリルは郊外にある屋敷に立ち寄った後、トリニスタン魔法学園の裏門付近に出現した。その理由は、葵の家にいたメイドから聞き出した彼女の居場所がここだったからである。本鈴どころかまだ予鈴さえも届けられていない状態なので、朝の学園は静謐に包まれていた。その静寂を破るように大股で歩き出したキリルは一路、葵が所属する二年A一組へと向かう。

(ふざけやがって、あの女)

 マジスターは王立の名門校、トリニスタン魔法学園が誇るエリート学生である。貴族の中でも最上位にある公爵家の血筋に連なる者が一般の生徒に声をかけてやるだけでも稀有なことなのに、一生徒に過ぎないミヤジマ=アオイという少女はそれをありがたがった例がなかった。むしろ彼女はキリルが姿を見せるとあからさまに迷惑そうな顔をし、あまつさえ逃げようとすらするのだ。とっつかまえて話をしようとしても、葵は『忙しいから』と言っては逃げ去って行く。

(どこがいいんだ、あんな女)

 キリル自身はそう思うのだが、彼が仲間と認めたハル=ヒューイットとステラ=カーティスがミヤジマ=アオイを好きだったのだ。彼らの気持ちを知るために我慢を重ねてアプローチをしてきたが、それももう限界が近い。今日こそは無理にでも口を割らせるつもりで、怒れるキリルは二年A一組の扉を開けた。もしいなければ待ち伏せをするつもりでいたのだが、人気のない早朝の教室には異質な出で立ちをした少女の姿が見える。しかし彼女は机に突っ伏しており、どうやら正体を失っているようだった。

「どこまでもバカにしやがって」

 それでなくとも怒っていたキリルは眠りこけながら迎えられたことに腹が立ち、葵を蹴り飛ばそうと足を持ち上げた。しかしウィルやオリヴァーに言われた『暴力は絶対にNG』という一言が頭をよぎり、行動を起こすことなく地に足をつける。煮えたぎっている腹の底にさらなる怒りを沈み込ませたキリルは嘆息してから葵の寝顔を覗き込んだ。腕を枕にして眠りこけている葵は、その下に開きっぱなしの魔法書まで敷いている。机の上には他にも文字が書かれた紙片やペンが散らばっていて、彼女の身の回りは雑然としていた。少し離れた場所から声をかけてみてもいっこうに起きる気配がなかったので、キリルは葵の体を揺り動かそうと腕を伸ばす。その直後、こちらに顔を傾けながら眠っていた葵が不意にヘラッとした笑みを浮かべたので、鳥肌が立ってしまったキリルは慌てて手を引っ込めた。

「……気色わりー」

 どんな夢を見ているのか知らないが、眠りながら笑わないでほしい。そう思ったキリルはますます、このミヤジマ=アオイという少女の価値が分からなくなってしまった。

(やっぱ分かんねーよ。あいつら頭おかしいんじゃねぇの)

 難しい表情をしながら空を仰いだ後、再び葵に視線を戻したキリルは机の片隅に置かれている異様な物体に目を留めた。

「なんだ、これ?」

 その物体は縦に長い形状をしていて、直角に折れ曲がっていた姿は手に取ると同時に真っ直ぐになった。見たこともない、用途も不明の未知の物体に遭遇したキリルは、好奇心でもってそれを観察する。色々な部分を触っているうちにそれは反応を示し、それまで真っ暗だった画面に男の顔が映し出された。

「……ほー」

 見知らぬ男の顔に気分を害したキリルは感情の赴くままに行動し、椅子や机ごと葵を蹴り飛ばした。

「痛いっ!! 何!?」

 のしかかっている机を退けてすぐに起き上がってきた葵は、周囲をキョロキョロと見回しながら奇声を発した。その意識を自分の方へ向けさせるため、キリルはもう一度彼女を足蹴にする。涙目になって振り向いた葵はキリルの顔を見るなり怯えたような表情になった。だが他人の感情に無頓着なキリルはまったく臆することなく、手にしている物体を葵に突きつける。

「これ、誰だ」

「私のケータイ!!」

 キリルが手にしている物を見るなり顔色を変えた葵は、それを取り戻そうと腕を伸ばしてきた。葵の腕を邪険に払い除けたキリルは再び同じ問いかけを繰り返す。

「これ、誰だ」

「そんなのあんたに関係ないでしょ! 返してよ!!」

「この前までハルが好きだったくせに、もう他の男に目移りしてんのか」

「いいから、返して!!」

 葵があまりにも必死に取り返そうとしてくるため、キリルは手にしている物体を真っ二つにへし折った。ベキッという嫌な音と共に壊れた物体はキリルの手を離れ、床に落ちて再び砕ける。目を見開いた葵は自分の所有物が壊れていく様を、呆然と眺めていた。

「あ、ああ……」

 無意識のように声を出しながら床にへたりこんだ葵は、目に涙をためながら壊れた物の破片を集め始めた。物を壊したことで少しスッキリしたキリルは、このクラスの誰かが使っているだろう机に腰を下ろし、蔑んだ目で葵を見下ろす。

「ハルと二股かけようなんていい度胸じゃねーか。身の程知らずの尻軽女が」

 寄せ集めた破片を胸に抱いて泣いていた葵は、キリルの一言をきっかけにがばっと顔を上げた。そのまなざしがあまりにもきついものだったので、今まで誰にもそんな目を向けられたことのないキリルは思わず怯む。その隙を見逃さずに立ち上がった葵は思いきり、グーでキリルを殴り飛ばした。

「くそバカ!! 死ね!!」

 到底少女とは思えない捨て台詞を残し、葵は声を上げて泣きながら走り去って行く。周囲の机や椅子を巻き込んで床に倒れたキリルは葵の背を見送るどころか立ち上がることすらも出来ないまま、しばらくその場で埋もれていた。






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