雲一つない夏の空にオレンジの色味が強い二月が浮かぶ夜、青年は窓のない部屋の中で壁に向かって設えられたデスクに向かっていた。窓のない部屋では常に魔法の明かりが室内を照らしていて、煙草をくわえながら作業をしている青年の横顔をぼんやりと映し出している。鮮やかな金髪にブルーの瞳といった容貌をしている美しい面立ちの青年は名をアルヴァ=アロースミスといい、彼は夜仕様の薄暗い照明の中で真剣な表情をして実験器具と向き合っていた。デスクの上に並べられているのはビーカーやフラスコ、試験管やメスシリンダーといった実験器具の数々である。立ち並ぶ試験管の中には色とりどりの液体が注がれていて、簡易ベッドの並ぶ室内はいかにも怪しげな空気を醸し出していた。
眼鏡越しに細い目盛を注視していたアルヴァは背中に来客の気配を感じ、手にしていた器具をゆっくりとデスクの上に置いた。振り返る前に引き抜いた眼鏡もデスクの隅に置き、ついでに煙草も揉み消してからアルヴァは行動を起こす。椅子ごと回転して背後を振り返ったアルヴァは、そうして何食わぬ顔で深夜の来訪者を迎えた。
「邪魔をしたか?」
そんな言葉を口にしながらもすでにベッドに腰を落ち着けている青年の名はロバート=エーメリー。彼はエーメリー公爵家の一員であると同時に、彼らが相対している部屋が存在するトリニスタン魔法学園アステルダム分校の若き理事長でもある。ロバートは夜の正装である燕尾服を身にまとっていたので、アルヴァは彼が夜会帰りにふらりとこの場所へ立ち寄ったことを察した。
「とんでもない。貴方のおかげで楽をさせていただいていますよ」
「と、言うと?」
「余計な仕事がなくなったので研究に専念させてもらっています」
「……暗いな」
呆れたように言った後、ロバートはわざとらしく嘆息して見せた。作り物の笑みを顔に貼り付けているアルヴァは外部仕様の口調を崩すことなく話を続ける。
「
「今はまだ舞台の準備を整えている段階だ。極上の
ロバートがさらりと気障な科白を言ってのけるので、アルヴァは胸中で「おやおや」と呟きを零した。
(ミヤジマもまた、ずいぶんと高く評価されたものだ)
言いつけには従わない、自分の意見が通らないとすぐにヘソを曲げるような子供に、アルヴァはそこまでの魅力を感じることが出来ない。子供の相手はやはり、
「それで、その最高の舞台はいつごろ仕上がりそうなのですか?」
「主人に忠実な僕を懐柔してからと思っていたのだが、残念なことに悠長なことを言っている場合ではなくなってしまった。つい今しがた、定例会の招集令状が届けられたのでな。
ロバートが口にした定例会とは、一部の魔法使い達が王家に研究の成果を発表するプレゼンテーション会である。プレゼンテーションをするしないにかかわらず、トリニスタン魔法学園の本校に通う生徒はこの会に参加しなければならない。そのため、肩書きの一つに本校の教員を有するロバートも必然的に駆り出されるのだ。だがアルヴァの意識はそんなことよりも、ロバートが発したある一言に注がれていた。
「しもべ?」
「いくら私でも、メイドの了解なくして
世界使用人派遣協会であればそれくらいのことはやりかねないと、ロバートは愚痴っぽく独白を零した。ロバートはあくまで淡々と語ったが、明かされた事実にアルヴァは愕然とする。
「待て、ミヤジマ=アオイが住んでいる屋敷にメイドがいるのか?」
「なんだ、知らなかったのか?」
「メイドなんて知らない。誰がいつ、そんなものを手配したんだ」
「私に訊かれてもな。そういうことは本人に直接尋ねてみたらどうだ」
アルヴァが行方をくらませてからというもの、葵は甲斐甲斐しく保健室へ足を運んでいる。そういった話をロバートから聞かされてもアルヴァの混乱がおさまるわけではなく、彼はついに頭を抱えてしまった。
メイドとは、世界使用人派遣協会に属する使用人のエキスパートである。女性の場合はメイド、男性の場合は執事と呼ばれるのだが、彼らを雇うには高額の資金が必要となるため、大貴族でもなければまず雇用は不可能である。そのメイドが屋敷にいるとなれば、そこには必ずレイチェルかユアンの意思が働いているはずなのだ。そうなってくると、ロバートの好き勝手な行動を許している現状は非常にまずい。
「ロバート」
頭を抱えているうちに考えをまとめたアルヴァは焦りを募らせながらロバートに視線を据えた。アルヴァに真剣な瞳を向けられたロバートは、相変わらずベッドで脚を組んだまま後に続く言葉を待っている。思わず席を立ったアルヴァはロバートの傍へ歩み寄り、必死の形相で訴えかけた。
「すまないが、ミヤジマ=アオイから手を引いてくれないか」
「それは出来ない相談だな」
「頼む、ロバート!」
形振り構わず、アルヴァはロバートに向かって頭を下げる。しかし低頭して得たものは、ロバートが愉快そうに笑う声だけだった。
「初めに言ったはずだ、アル。邪魔をするなと」
ロバートに拒絶された瞬間、アルヴァはこの世の終わりを垣間見たような気分になった。呆けてしまったアルヴァの顔をわざわざ下方から覗き込んで、ロバートはさらに愉快そうな表情になる。
「先日、件の少女にアルヴァ=アロースミスという人物を知っているかと訊かれたのだが、その様子では知らないことにしておいた方が良かったらしいな」
「まさか……僕との繋がりをミヤジマに明かしたのか?」
「まさか。私が君の不利になるようなことを好んですると思うか?」
見事なまでの肩透かしを食らい、アルヴァは何も反応を返せなくなってしまった。アルヴァの反応を見て面白がっているロバートは顔を背けて口元に手を当て、小さく吹き出す。
「君のことは誰に喋る気もない。安心したまえ」
「……脅しをかけられた後にそのようなことを言われても信用なりませんね」
「なに、ただの交換条件だよ。君はこの件に無関係だ。そういうことにしておく代わりに私の邪魔はしないでもらいたい」
頼みごとをするかのような表現をとっていても、ロバートの言っていることはけっきょく脅しである。だがアルヴァにも事情があるため、彼は自身が無関係で済むのならと渋々承諾を伝える。早くこの話題から離れたかったアルヴァはその後、自ら言葉を重ねた。
「それで、そのメイドっていうのはどういう人物なんだ?」
「初々しい少女だよ。難があるとすれば、メイド服のスカートがロング丈であることだな。あれが若々しさを強調したミニスカートであれば言うことなしだ」
「君の
「名前は忘れてしまったが、彼女については一つ、面白い事実がある」
含みを持たせて一度言葉を切った後、ロバートはアルヴァを見据えてニヤリと微笑んだ。嫌な予感を覚えたアルヴァは顔をしかめながら椅子に腰を落ち着けたのだが、あくまで事態を楽しんでいるロバートは喜々として続きを口にする。
「私の前では隠しておきたかったようだが、ミヤジマ=アオイの傍にいるメイドは魔法生物を連れている」
「……へぇ。なら、その少女は
魔法生物とは、生まれながらに魔法をその身に宿した天然の生物のことである。彼らは人間とは違う形で魔法を使うことが出来、高い知能を有しているという特徴がある。魔法生物は何故か坩堝島という孤島でしか生まれることがなく、その島で生を受けた人間にしか心を許さない。故に、魔法生物を連れているということは出身地を無言で明かしているようなものなのだ。
(坩堝島か……)
坩堝島に生を受けた者が島を出ることは珍しく、ましてメイドをしているなど聞いた例がない。だが彼女が珍しい存在であればこそ、その本当の雇い主が誰であるのかがハッキリしてくる。過去にその人物が、坩堝島に尋常ならざる興味を抱いていたことがあるからだ。
(……仕方がない)
不測の事態が生じてしまったものの、走り出したロバートを止めることはもう誰にも出来ない。彼が交換条件などと甘いことを言っているうちに条件を呑んでおいた方が得策だと思ったアルヴァは、この件に関しては一切関与しないことを彼に約束したのだった。
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