裏切り

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 夏月かげつ期中盤の月にあたる橙黄とうこうの月の二十日。夜空に二月が浮かぶこの世界では夏の間に雨が降ることはないため、この日も夜は穏やかに明けた。飾り窓から差し込む朝の日差しが広々とした室内の一角を照らしていて、開閉可能な窓辺では薄手のカーテンが微風に揺れている。室内に差し込む光は少しずつ斜光面積を広げていき、やがて部屋の中ほどにある天蓋つきのベッドにまで至ったが、あいにくその場所に日差しを浴びる人物は存在していなかった。ベッドの主はすでに寝所を抜け出していて、まだ日の当たっていない壁際でひっそりと机に向かっている。ネグリジェ姿のまま早朝から勉学に励んでいるのは黒髪に同色の瞳といった、世界でも珍しい容貌をしている少女。彼女は名を、宮島葵といった。

 それまで静かだった室内に軽いノックの音が届けられたので、葵は魔法書から目を上げた。彼女が振り返るのと扉が開くのが同時であり、扉を開けて現れたメイド服姿の少女は葵の姿を見るなり驚いたように声を上げる。

「もう起きられていたのですか」

 そう言うなり、急いて紅茶の準備を始めた少女は名をクレア=ブルームフィールドという。クレアは葵が暮らしている屋敷のメイドであり、主人にアーリーモーニングティーを運ぶのが彼女の朝一番の仕事なのだ。

 夜が明ける少し前から机に向かっていた葵は一息つくことにして、持っていたペンを置いてデスクから離れた。薄手のカーテンが揺れる窓辺にクレアが茶の席を設けたので、そちらへと移動する。クレアに礼を言って紅茶を口に運んだ葵は、ハーブの香りが立ち上る紅茶に癒された気になって深く息を吐いた。

「そういえば、マトは?」

 葵が口にしたマトとは、いつもクレアが肩口に乗せているワニに似た魔法生物の名である。だがどういうわけか、今朝は彼女の肩にマトの姿が見えない。クレアは使用した茶器をワゴンに乗せ、その上に白い布を被せてから改まって葵を振り返った。

「今は人目につかない場所に隠れております」

「何で?」

「お嬢様にお客様がいらっしゃったものですから」

 客人と聞き、葵はおもむろに眉根を寄せた。まだ夜が明けて間もない時間帯であり、来客が訪れるにしては早すぎる。また自身に来客があること自体を不審に思ってしまう葵にとって、その報せは悪いもののように感じられた。

「まだこのような時分ですので一度はお断りしたのですが、お嬢様が起きられるまで待つと仰られたもので……」

 それで様子を見に来たのだと、クレアは微かな戸惑いを見せながら説明した。クレアの様子にますます不信感を募らせた葵は眉間のシワを深くしながら疑問を口にする。

「お客って、誰?」

「バベッジ公爵のご子息です」

「バベッジ?」

 とっさにはピンとこなかったものの、すぐにその名が表す人物の顔が脳裏に浮かんできた。その想像が正しいかどうかを確かめるために、葵は恐る恐るクレアを仰ぐ。

「もしかして、オリヴァー=バベッジ?」

 クレアが頷いたので葵は息を吐きながらこめかみに指を突きつけた。朝から厄介な名前を聞いたため頭痛がしてしまったのだ。

「やはり、お断りいたしましょうか?」

「いいよ、行く」

 仕方なく立ち上がった葵は着替えのために室内にある別室へと移動しようとした。しかしあることに思い当たり、すぐに足を止めてクレアを振り返る。

「どこに行けばいい?」

「お客様には客間でお待ちいただいています」

「エントランスホールの横の部屋ね。りょーかい」

 クレアに投げやり気味な返事をした後、葵は手早く着替えを済ませて二階の片隅にある寝室を後にした。その後は踊り場のある階段を下り、エントランスホールの横にある客間へと足を向ける。昨夜担任教師であるロバート=エーメリーと面会したその部屋で、今度はトリニスタン魔法学園が誇るマジスターと顔を合わせる羽目になった葵は茶髪の少年の顔を見るなり嫌な表情を作った。

「何でここが分かったの? 教えた覚え、ないんだけど」

 挨拶もなく第一声から皮肉を発した葵に、オリヴァーは苦笑いで反応を返してくる。

「やっぱり、不機嫌だな」

「当たり前でしょ? ひとに攻撃しかけておいて、よくぬけぬけと顔出せるよね」

「あ、そっち?」

 オリヴァーが妙なことを言い出したので、葵は怒りを忘れて眉をひそめた。葵が発言の真意を問う前に、オリヴァーの方から率先して説明を始める。

「昨日、キルが何かしたみたいだったから。そっちのせいで不機嫌なのかと思った」

 オリヴァーが発言の真意を明かしたことで、彼がこんな朝早くに訪れた理由まで察してしまった葵は小さく息をついてから話に応じた。

「そのことが聞きたくて来たの?」

「まあ、単刀直入に言えばそういうことだ」

「そんなの、私じゃなくてあっちに聞けばいいじゃない。仲、いいんでしょ?」

「それが出来ればそうしてるって」

 葵の所へ来る前にオリヴァーはウィルと共にキリルに直接、彼が抜け殻のようになっていた理由を尋ねたらしい。しかしキリルは知らないの一点張りで、決して口を割ろうとしなかった。その強硬さを崩すためにオリヴァーとウィルは彼に憂さ晴らしを勧めたのである。酒に酔えば口が軽くなるだろうという彼らの試みは結局のところ失敗に終わり、浴びるように飲み明かしたキリルは真相を語ることなく酔い潰れてしまった。当事者の一人が使い物にならなくなってしまったため、オリヴァーは徹夜で飲み明かしたその足で葵の元を訪れたというわけらしかった。

「……呆れた」

 顔も態度も口調も、満身で胸の内を表現した葵は本気で呆れかえって首を振った。キリルが頑として自らの非を認めようとしないことも、他人の迷惑も顧みず友人のために奔走しているオリヴァーも、すべてがくだらない。さっさと帰ってもらいたかったので、葵は昨日の出来事を手短に語った。

「あいつが私の大切な物を壊したの。だから殴った。それだけのことよ」

 事のあらましを知ると、オリヴァーは面白いくらいに目を剥いた。しかし驚きに反して、彼は冷静な調子で言葉を次ぐ。

「そうじゃないかとは思ってたけど、本当にキルのこと殴ったんだな」

「分かってるならわざわざ聞きに来ないでよ」

「いや、いちおう本人の口から聞いておこうと思ってな」

「オリヴァーはあんまり関係ないかもしれないけど、マジスターに関わってるとロクなことがないの。だから悪いんだけど、もう放っておいて」

 葵が率直な胸の内を伝えると、それまで苦笑いを浮かべていたオリヴァーはふと真顔に戻った。オリヴァーが思いのほか真剣に受け止めてくれたため、自分の発言に少し罪悪感を抱いた葵は渋い表情になる。葵の表情に気付いたオリヴァーは再び苦笑を浮かべて場を和ませた後、話を続けた。

「分かった。俺も、実はちょっとやりすぎだと思ってた」

 何がどう『やりすぎ』だったのか、実際のところマジスターの悪行を全て把握しているわけではない葵にはよく分からなかった。だが意見を聞き入れてくれたオリヴァーが謝罪を口にすると同時に頭を下げたため、それを見た葵は複雑な気分になる。しかしオリヴァーにとっては頭を下げることなど何でもないことらしく、顔を上げた彼は淡々とした語り口で話を再開させた。

「ウィルはもうちょっかい出さないと思うけど、キルがどう出るかは俺にも分からない。出来るだけ止めるように頑張ってみるけど、また迷惑かけたらごめんな」

「……もう、いいよ。それはオリヴァーのせいじゃないし」

「そう言ってもらえるとありがたいぜ。キルを止めるのは苦労するからな」

 冗談半分のように言って、オリヴァーは爽やかな笑みを浮かべた。オリヴァーが見せた表情には邪心がなく、つい先程まで彼の来訪自体を迷惑に感じていた心がほどけていく。改めてオリヴァーに好意を抱いた葵は彼との関係を失うことを少し惜しく思ったが、それはそれ、これはこれである。

「ところで、キルが壊した物って何だったんだ?」

「大切な、もの」

 葵の発した言葉には壊れてしまった携帯電話に対する深い想いがこめられていた。それが何かは分からなくとも葵の想いは伝わったようで、オリヴァーは真面目な表情で言葉を次ぐ。

「その壊れた物、俺に預けてくれないか? キルが迷惑かけたお詫びに直すよ」

「ありがと。でも、手元にないんだ」

 すでに別の人に修理を依頼していることを明かすと、オリヴァーは「そっか」とだけ言って立ち上がった。

「じゃ、帰るわ。朝早くに押しかけてごめんな」

 去り際に再び爽やかな笑みを残して、オリヴァーは客間を出て行った。その後、廊下で控えていたらしいクレアと言葉を交わす声が聞こえたあとは足音が遠ざかって行く。廊下からも人の気配が失せてから腰を上げた葵は勉強に専念しようと思い、二階にある寝室へと戻った。






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