夏真っ盛りである
「もうアオイにちょっかい出さないでやってくれって、聞いてるか? ウィル」
「オリヴァー、もしかしてアオイに惚れた?」
「はあ?」
ウィルから返ってきた言葉はまったくもって質問の意図にそぐわないものであり、オリヴァーは素っ頓狂な声を発してしまった。それまでティーカップと向き合っていたウィルはカップをソーサーに戻し、改まってオリヴァーに視線を据える。ウィルはよく真顔のままジョークを言うので、からかっているのかどうか判断しかねたオリヴァーは少し眉根を寄せながら真面目に答えを口にした。
「可哀想、だろ?」
「そう?」
「知らなかったとはいえマジスターが、魔法の使えない一生徒を傷つける目的で魔法を使ったんだぞ? 教師が庇ってくれたからいいようなものの、下手したら重症じゃ済まなかったかもしれない。少しは罪悪感とか抱かないか?」
「自業自得でしょ。どんなに強力なコネクションがあるのか知らないけど、魔法を学ぶ場所に魔法を使えない人間がいること自体がおかしいんだから」
ウィルの意見はある意味では正論であり、返す言葉に詰まったオリヴァーはそのまま閉口してしまった。
数日前、ミヤジマ=アオイが所属する二年A一組がグラウンドで実習を行った。ウィルはその際、葵の心を掴みたいキリル=エクランドという友人を応援するという名目で、彼女に向かって魔法を放ったのである。しかし実は、ウィルの真意は友人の恋路を応援するなどという生易しいものではなかった。彼が本当に確かめたかったことは『葵は魔法を使えるか』という一点だったのである。案の定と言うべきなのか、ウィルから攻撃を仕掛けられた葵は魔法を使わなかった。トリニスタン魔法学園に通う生徒であれば魔法には魔法で対応するのが普通なのに、彼女は魔法を発動させるような素振りすら見せなかったのだ。さらに葵の持っている魔法書の中身が初歩的な魔法しか収められていないことも判明したため、ウィルとオリヴァーは『葵は魔法を使えない』という結論を導き出したのだった。
葵が魔法を使えないことが判明してから、ウィルとオリヴァーの対応は真っ二つに分かれた。ウィルは魔法の使えない人間には興味がないというスタンスなので、彼の好奇心は一気に熱を失った。だがオリヴァーはまだ、葵の謎めいたバックグラウンドに興味を残している。しかし葵を可哀想と思っているのも本心なので、以前のような強行的な探り方をしようという考えは抱いていなかった。
「そんなに念を押さなくても、もう飽きちゃったから僕は大丈夫だよ。アオイの心配をするなら僕よりキルじゃない?」
「そう、なんだよな」
キリル=エクランドという少年は基本的には他人に無関心なのだが、それが仲間と認めた者のこととなると執拗なまでに知りたがる。葵に殴られたことが抑制力になってくれればいいのだが……。そこまで考えたところで、オリヴァーは魔法陣がある方角へと顔を傾けた。転移魔法が使われた気配を感じ取ったウィルもまた、オリヴァーと同じタイミングで遠くへ視線を投げかける。花園の片隅に現れた炎のような紅の魔力は、今日は安定感のある質感でもってこちらへと近付いて来ていた。
「今日は怒ってないみたいだな」
「怒ってはいないみたいだけど、気分が悪そうだね。二日酔い、かな?」
親しい者であれば、魔力を見るだけで気分や体調までも察することが出来る。キリルの魔力からウィルと同じような感じを受けていただけに、オリヴァーは苦笑を浮かべながら姿を現した魔力の主を迎えた。
「あったまいてー」
空席にどっかりと腰を落ち着けたキリルは、そんな独白を零しながらテーブルに突っ伏した。やって来るなりテーブルに頬を寄せたキリルを見て、ウィルが呆れた表情になる。
「調子が悪いのなら寝てればいいのに」
「あの女に会って、確かめたら帰る」
キリルが妙なことを口走ったので、オリヴァーとウィルは顔を見合わせた。昨今、キリルが『あの女』呼ばわりする人物は一人しかいない。それが先程まで話題に上っていた少女を指していたので、オリヴァーは恐る恐るキリルに問いかけてみた。
「あの女って、アオイのことか?」
「今は他にいないでしょ。それで、アオイに会って何を確かめるの?」
オリヴァーの問いに答えたのはウィルであり、彼は至って平静な調子で話を先に進めた。まだテーブルから顔を上げないキリルが一昨日のことだと言うので、オリヴァーとウィルは再び顔を見合わせる。
「キル、もしかして何も覚えてないの?」
ウィルの発した問いかけに、キリルは無反応でいることで答えを返した。それが肯定の意であることを知っているオリヴァーは微かに眉根を寄せる。何も覚えていないのでは、いくら酒を飲ませたところで口の割りようがなかったというわけだ。
「アオイが言うには、キルがアオイの大切な物を壊したんだと。それで、たぶんアオイがキレちまって、キルを殴ったんじゃないかと思う」
出来るだけ葵の手を煩わせないようにしようと配慮したオリヴァーは、彼女から聞いた話に憶測を交えてキリルにあの日の真相を伝えた。話を聞いたキリルはがばっと上体を起こし、意外そうな面持ちでオリヴァーを見据える。
「殴られた? オレが?」
「あれだけ頬を腫らしてたのに、それも覚えてないの?」
つい先程までキリルの記憶力を疑っていたウィルも、今では完全に呆れを取り除いている。こうまでキリルの記憶が抜け落ちているようでは、忘れっぽい性格の問題というよりも別の理由が考えられそうだ。ウィルはすでにそちらに考えを移しているようだったが、当事者であるキリルはしつこくオリヴァーに食い下がった。
「オレがあの女に殴られたって、マジなのか?」
キリルの形相が鬼気迫るものだったので、オリヴァーは少し身を引いた。本当にそうなのかと問われても、当事者ではないオリヴァーには本当のところは分からない。だが状況を考えるにほぼ間違いないのではないかと思ったオリヴァーは、その旨をキリルに伝えた。オリヴァーからはっきりした返答を得た後、キリルは顎に手を当てて考えこむ。
「……あの女、」
許さねぇ、という突然の咆哮と共にキリルの体から具現化した魔力が噴き出した。危うく焼き殺されそうになったオリヴァーとウィルは、それぞれの魔法で身を護りながらキリルから距離を置く。紅蓮の炎を身に纏ったキリルは一瞬してシエル・ガーデンを灰にした後、転移魔法でどこかへ移動してしまった。
魔力の持ち主が姿を消すと、炎に包まれていた花園は静寂を取り戻した。しかしそれは以前の静謐ではなく、焼け野原と化したシエル・ガーデンには荒涼とした雰囲気が漂っている。あまりに突然の出来事に体は対応しても思考が追いついていかず、オリヴァーはしばらく焼け跡に佇んだまま呆然としていた。風の魔法を巧く使って上空に避難していたウィルが、やがてオリヴァーの近くにふわりと下り立つ。呆けているオリヴァーを仰いだ彼は至って平静な調子で口火を切った。
「行かなくていいの?」
ウィルのこの一言で、オリヴァーの頭は一気に現実を理解した。あの雄叫びから察するに、キリルが向かった先は間違いなく葵の元である。そして怒り狂ったキリルは、誰かが止めるまで暴走を続けるのだ。
「僕は帰るから。あとよろしく」
すっかり葵に興味を無くしているウィルは淡白に言い置くと、帰還を意味する「アン・ルヴィヤン」の呪文を唱える。ウィルがシエル・ガーデンから姿を消す頃にはオリヴァーも転移の呪文を唱え終えていたため、人間の姿を失った元花園はその後、いっそう物悲しい様相を呈すことになった。
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