裏切り

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 トリニスタン魔法学園アステルダム分校の校舎二階にある二年A一組の教室では、いつもと変わらぬ静けさの中で授業が進行していた。時折、このクラスの担任であるロバート=エーメリーに指名された生徒が口を開いている他は皆、静かに彼の授業に聞き入っている。窓際の自席で魔法書を開いている葵もまた、真剣な面持ちで教室前部にあるブラックボードを見つめていた。ロバートが今解説しているのは『魔法陣』と『魔方陣』の違いについてである。円形が主流の魔法陣は広く普及しているものの、方形の魔方陣は一部の魔法士たちの間でしか使用されていないため、大半の生徒は理解が追いつかずに頭を抱えている。だが魔法陣の基礎知識がない葵は逆に、ロバートの説明をすんなりと受け入れることが出来た。

(へぇ……数学みたい)

 魔方陣とは方陣に数字を配置し、縦・横・斜めの合計がいずれも同じになるもののことである。ロバートがブラックボードに最小の魔方陣を描き出していたので葵はそれを真似、私物のノートにオリジナルの魔方陣を描き出してみた。もともとパズルなどの細かい作業が好きな葵にとって、これがなかなか面白かったのだ。しかしそんな楽しい授業は、突如校舎を揺るがした衝撃で中断となった。

(な、何!?)

 直下型地震のような振動が収まった後、狼狽した葵は机の下に身を潜ませた。それは反射的な行動で、幼い頃から年に一度は経験していた防災訓練の賜物だったのかもしれない。しかし防災訓練というものが存在しないこの世界では、そんな行動をとったのは葵だけだった。

 机の下から周囲を窺った葵は誰一人として自分と同じ行動をしていないことに気付き、恥ずかしくなってしまった。しかし机の下から抜け出そうにも、周囲の異様な雰囲気がそれを許さない。まるで恐怖に直面した時のように凍りついたまま動かないでいるクラスメートたちを見上げた葵は、そこで改めて眉根を寄せた。

(何だろう、この感じ)

 葵がそんなことを考えているうちに、二年A一組の扉が勢い良く破られた。開かれたというよりは廊下側から体当たりでも食らわされたように扉が倒れこんできたのだが、そこに立つ人影はない。代わりに廊下から炎が流れ込んできて、二年A一組の生徒達は思い思いに避難を開始した。

「あつっ!!」

 机の下に潜っていたせいで状況の変化に気付くのが遅れた葵は悲鳴を発しながら机の下から抜け出した。その頃には教室中に炎が回っていて、すでに他の生徒達の姿はない。だが唯一教室に残っていたロバートが助けてくれたため、葵は事なきを得た。

「大丈夫か?」

「は、はい。ありがとうございます」

 ロバートに答えを返しつつも葵の意識は周囲の異様な光景に向かっていた。炎が燃え盛っている教室の中で、葵とロバートの周囲だけが薄い膜のようなもので覆われている。ついさっきまでは熱くてたまらなかったのだが、どうやらこの薄膜のおかげで熱さを感じなくなったらしい。ロバートが傍にいるおかげで平常心を取り戻した葵は私物を燃やされてはたまらないと思い、慌てて荷物を鞄へと詰め込んだ。

「……目的地はここか」

 私物をひとまとめにした鞄を胸に抱いたことでホッと一息ついていた葵はロバートの零した独白で我に返った。振り返って見ると、ロバートは真顔のまま扉がなくなった出入り口を見据えている。しばらくの後、そこに紅蓮の炎を纏った人影が姿を現した。ロバートの背中から少し顔を覗かせた葵は教室の出入り口に佇んでいる人物を目にし、おもむろに顔を歪める。校舎全体を焼き払うほどの炎を纏って二年A一組に姿を現したのは、マジスターの一人であるキリル=エクランドだった。彼は誰がどう見ても怒っていて、その怒りの原因に心当たりのあった葵は再びロバートの背へ身を隠す。それは恐怖心からくる反射的な行動だったのだが、葵は逃げ出したことをひどく悔やんだ。

(あっちが殴られるようなことするから悪いんじゃない)

 携帯電話を壊された時のことを思い返して心を奮い立たせた葵は、今度こそロバートの背中から飛び出した。葵の姿が露わになったことで怒りにギラついたキリルの目が彼女の方へと向かう。戸口に佇んだままだったキリルがゆっくりと歩き出すと、ロバートが再び葵の前に体を割り込ませた。

「授業中だ。お引取り願おう」

 冷静に呼びかけたロバートに対し、キリルは腕を一振りすることで応えとした。刹那、葵達の背後で教室中の窓ガラスが割れ、室内に轟音を響かせる。とっさにうずくまって頭を庇った葵は、しばらく経っても変化がなかったので恐る恐る顔を上げてみた。

「退け」

 キリルが短い言葉を口にしたのと同時に、ロバートの体が宙に飛んだ。教室の前方にあるブラックボードまで飛ばされたロバートはそこに強か体を打ちつけ、そのまま力なく倒れこむ。

「ロバート先生!!」

 慌ててロバートに駆け寄ろうとした葵は、しかし一歩を踏み出す前に動きを止めた。その理由は、突如として出現した炎の壁に行く手を阻まれてしまったからである。もはや誰がそれをやっているのかは明白だったので、葵はありったけの怒りを含んだ視線をキリルへと投げつけた。すると、それまで冷酷なまでの無表情を保っていたキリルがビクリと体を震わせる。予想外の反応を返されたことで葵が眉をひそめた刹那、キリルは糸が切れた操り人形のようにその場にへたりこんでしまった。きれいに脚を折って座り込んだキリルはそのまま、ものすごい勢いで上半身を倒して額を床にこすりつける。

「すいませんでした!!」

 生まれて初めて土下座による謝罪を体験した葵は驚きすらも感じることが出来ないほど呆気にとられてしまった。いつの間にか教室を燃やしていた炎も姿を消していて、室内には冷え切った空気が流れている。口を開くことも動くことも出来ないような異様な静寂は、廊下の方から聞こえてきた第三者の声によって破られた。

「キル!!」

 慌てた様子で二年A一組に駆け込んで来たのは、オリヴァーだった。教室の惨状を目の当たりにしたオリヴァーは顔を歪めながら葵に何かを話しかけようとしたのだが、彼はその前に、葵の足元にいる人物に目を留めて動きを止める。土下座しているキリルに目を注いだまま口を開けずにいたオリヴァーはやがて、ピクリとも動かないキリルに向かって恐る恐る声をかけた。

「き、キル……?」

 仲間と認めた者の声に反応してなのか、土下座の体勢のまま固まっていたキリルがゆっくりと頭を上げた。彼と向かい合う形で立ち尽くしていた葵はキリルの顔に浮かんでいた驚愕を目の当たりにして、さらに困惑の度合いを強める。何故、自分から頭を下げた人物が一番驚いているのか。その理由は、呆けたように座り込んでいるキリルにも、彼の顔を覗き込んだオリヴァーにも分からないようだった。

「何でだ? どうしてこのオレが頭を下げなくちゃならねぇんだ?」

「キル、しっかりしろ!」

 引きつった笑いを浮かべながら独白を零しているキリルの肩を、オリヴァーが激しく揺さぶっている。その衝撃で我に返ったのかどうかは定かでないが、泳いでいた視線を立ち尽くす葵に定めたキリルは鬼のような形相になって立ち上がった。キリルが拳を振り上げたので、ビクッとした葵は数歩後退する。しかしキリルの拳は葵に届くことなく、彼はまるで定められたプログラムを実行する機械のように葵の足元で再び頭を下げた。

「すいませんでしたっ!!」

 屈辱に満ち溢れた口調でキリルに謝罪を叫ばれた葵は、救いを求めてオリヴァーに視線を移す。しかしオリヴァーも誰かをフォローするどころではないようで、目を合わせてはくれなかった。

「ミヤジマ=アオイ」

 力なく床に座り込んで反応を示さなくなったキリルを我に返そうと必死になっているオリヴァーを眺めていると、どこからか呼び声が聞こえてきた。聞き慣れた者の声にロバートのことを思い出した葵はハッとして声の主を振り返る。

「先生、大丈夫ですか?」

「ああ、私は問題ない。君は平気か?」

「あ、はい。私は何も、されてませんから」

 そして何も、していない。言外にそう付け足した葵は未だ床で呆けているキリルを見た。ロバートも同じ方向へ顔を傾け、抜け殻のようになっているキリルを一瞥してから再び葵に視線を戻す。

「今日はもう授業にならないな。後のことはやっておくから、君ももう帰りなさい」

 葵にそう言い置くと、ロバートはマジスター達の元へと歩み寄って行く。これ以上厄介事が増える前に逃げた方が得策だと思った葵は床に転がっていた私物の鞄を拾い上げ、ロバートに一礼してから二年A一組の教室を後にした。






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