裏切り

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 夏月かげつ期の中間の月である橙黄とうこうの月の二十二日、いつも通りトリニスタン魔法学園アステルダム分校に登校した後、葵は放課後の補習を蹴ってパンテノン市街を訪れていた。

「深いため息だね」

 隣を歩いている少年から不意にそんな言葉を投げかけられたので、知らず知らずのうちにため息をついていたことを知った葵は苦笑いを浮かべた。市街でよく見かける、地味な色合いをしたズボンとジャケット、ベストにベレー帽といった出で立ちをしている少年の名はザック。葵は彼と、街外れにあるジャンクストリートを目指して歩を進めていた。

「疲れてるみたいだけど、何かあった?」

「まあ、ちょっとね……」

 マジスターとは関わらず平穏に日々を送りたいという願いとは裏腹に、葵は昨日、またしても騒動に巻き込まれた。それは本日も確実に尾を引いていて、キリルがたびたび二年A一組の教室に怒鳴り込んできたのだ。しかし結局は昨日の再現にしかならず、最終的にはオリヴァーがキリルを回収するという出来事が一日の間に五度ほどあった。この奇妙な出来事が生徒達の関心を引かないはずもなく、葵はまたしても時の人となってしまったのだった。

 葵は以前にもマジスター絡みの騒動に巻き込まれているのだが、その時は生徒達が敵と味方にはっきりと分かれた。しかし今回はキリルの態度が定まらないため、生徒達も葵への対応に迷いを見せている。近頃やたらと絡んできていたシルヴィアでさえ話しかけてこなくなったが、常に生徒達からの監視にだけは晒されているのだ。この状態がストレスにならないはずがなく、葵は渦中の人になってからたった一日で疲弊しきっていた。

(ほんと、勘弁してほしいよ)

 話を聞いてくれる相手がいるなら愚痴の一つでも零したいところだが、ザックと彼の妹のリズにはトリニスタン魔法学園とは無関係でいてほしい。そう考えている葵は気分を変えることにして、ザックに笑みを向けた。

「リズも待ってることだし、早く行こう」

 兄のザックが戻るまで、リズは一人で工房の留守番だ。葵は早くに帰ってあげないと可哀想だと思ったのだが、ザックはまた違う考えを抱いているようだった。

「あいつのことは気にしなくていいよ。どうせ店番に飽きたらアレックスの所へ行くだろうから」

「アレックスってリズの彼……恋人、だっけ?」

「そう。いい奴なんだけど押しに弱くてさ。いつもリズに押し切られてるんだ」

「へ〜、会ったことあるんだ?」

「新しい恋人ができるたびにリズが連れて来るから。アレックスで六人目だったかな?」

「……リズって、確か十五歳だったよね?」

「そうだけど?」

 ザックはあっけらかんと答えたが、葵はリズの年齢と恋人の数を比較して改めてショックを受けた。

(でも、そっか、それがフツウかぁ。弥也ややもしょっちゅう彼氏が変わってたしなぁ)

 自分の経験がなさすぎるのだと実感してしまった葵は複雑な気分になってしまった。しかしすぐに他人は他人、自分は自分と気分を切り替え、深く考えることなくザックとの話を再開させる。

「ザックは?」

「え? 何が?」

「今までどのくらい恋人いたの?」

 葵は特に意図するところもなく気軽に尋ねたのだが、ザックは何故か閉口してしまった。ザックの反応が悪かったので葵は慌ててフォローを入れる。

「あの、答えたくなかったら別に答えなくてもいいからね?」

「……そういうアオイは?」

「え? 私?」

 唐突に尋ね返されたため、葵は返す言葉に詰まってしまった。葵の反応が悪かったからなのか、ザックは心なしか真面目な表情で黙り込んでいる。ちょうどジャンクストリートに到着したこともあり、葵は苦笑いで話を切り上げることにした。

 葵とザックがジャンクストリートを訪れたのは、ザックの知り合いに壊れた携帯電話の修理を依頼したからである。修理が可能か不可能か、その答えを知るのが今日なのだ。そして結果は、やはり思わしくないものだった。しかし最初から半ば諦めていただけに、葵は素直にその結果を受け入れた。

(電話すらないんだもん。しょうがないよね)

 固定電話すら存在しない異世界で携帯電話を直そうなどというのは、初めから無謀な試みだったのだ。それでも携帯電話の残骸が手元に戻って来ると少し物悲しい気分になってしまい、葵は心配そうな表情をしているザックに苦笑いを浮かべて見せた。

「ありがとね、ザック」

 携帯電話は結局直らなかったが、葵は何とか直せないかと奔走してくれたザックに心から感謝していた。しかしザックは、この結果に納得がいかなかった様子で小さく首を振る。

「それ、僕に預けてくれない? なんとか直らないか、もう少し考えてみるから」

「ありがと。でも、もういいんだ」

「良くないよ。大切なものなんだろう?」

 ザックの口調がいつになく強いものだったので、驚いた葵は目を見開いた。葵が大袈裟に驚いたからか、ザックは決まりが悪そうな表情になって視線を逸らす。

「力になりたいんだ。アオイには仕事が行き詰ってた時、助けてもらったから」

「ザック……」

 この世界へ連れて来られてから理不尽ばかりを押し付けられてきた葵にとって、ザックのストレートな優しさは涙を誘うくらい嬉しいものだった。思わず涙ぐみそうになってしまった葵は顔を背けて慌てて目元を拭い、それから笑顔でザックを振り返る。

「ありがと。じゃあ、お願いします」

 葵が差し出した携帯電話の残骸を、ザックは深く頷いて見せながら受け取った。それをジャケットのポケットにしまったザックは葵に笑みを返した後、急に気恥ずかしそうな表情になる。

「アベニューで買物をしてから帰ろう。はぐれると大変だから、その……」

 言葉を濁らせながらザックが所在なさげに手を動かしていたので、何となく彼の言いたいことを察してしまった葵も顔を赤らめて俯いた。しかし嫌かといえばそうでもなく、葵は差し出された手にそっと自らの手を重ねる。葵の手を引いて歩き出したザックは耳まで真っ赤になってしまい、二人して黙々と歩を進めた。

(そういえば昔、ハルとも手をつないだことがあったっけ)

 初恋の相手であるハル=ヒューイットと不可抗力的に手をつないで歩いた時は緊張のあまり動悸が激しく、嫌な汗をかいてしまった。あの時のようなときめきはないものの、掌から伝わってくるザックの温もりには不思議な安心感と妙な照れくささがある。黙っていることに耐えられなくなってしまった葵はザックの隣に並び、はにかんだ笑みを浮かべながら口火を切った。

「リズに何か買って帰ってあげようよ」

「それは別にいいよ」

「え〜? 可哀想じゃん、店番してくれてるのに」

「じゃあ、賭ける? 僕達が帰った時にリズがちゃんと店番してるかどうか」

「あ、それいい」

 ひとたび会話を始めてしまえば気まずさも消え、葵とザックは自然と手を繋ぎながら買い物客で賑わうフォースアベニューの雑踏に呑まれていった。






 夕刻、パンテノン市街はアベニューやストリートの区別なく、買い物客で賑わう。月末の市ほどではないものの通りを容易く移動することは難しくなるほどの人出があるため、往来に面しているテラス席を設けている飲食店では夕刻になると、人目と騒音から来客を保護するための魔法を使うのが一般的である。そんな富裕層向けのテラス席の中でも、店内からも干渉を制限されているようなVIP席に二人の少年の姿があった。

「最近のキルはおかしい」

 どういった点がどうおかしいのか、滔々とうとうと語った末にオリヴァーはそんな一言で話を締め括った。しかしオリヴァーの向かいの席に座って、静かにティーカップを口に運んでいるウィルの反応は素っ気ない。

「ふうん」

 そのたった一言で話を聞き流されてしまったため、本日はトリニスタン魔法学園に姿を現さなかったウィルを探し出すだけでも相当な労力を必要としたオリヴァーはがっくりと頭を垂れた。

「なんか、こう、もっと反応の仕様があるだろ?」

 一緒に悩んでくれる気配さえ見せないウィルに対し、このところキリルに振り回されているオリヴァーは恨めしげな視線を投げかけた。しかしそれでも、やはりウィルの反応は素っ気ない。

「僕にどうしろって言いたいの?」

「キルを何とかしてくれ」

「放っておけばいいじゃない。僕らに害があるわけじゃないんだし」

「キルがあのまんまだと困るヤツがいるんだよ。それに俺も、あんなキルは見てられない」

 唐突に変調をきたしたキリルは葵に土下座をして以来、明らかに様子がおかしくなってしまった。その理由は、変調の原因が本人にも解らないからだと思われる。キリルはもともと気性がひどく不安定な性質のため、このままでは本当に壊れてしまうのではないかとオリヴァーは心配しているのだった。

「まあ、キルが土下座するなんて只事じゃないよね」

 手にしていたティーカップをソーサーに戻したウィルは、少し関心のある素振りを見せながらオリヴァーに向き直った。彼がようやく話に応じてくれる気になったことを察したオリヴァーも、喋りっぱなしで渇いた喉を紅茶で潤してから再び口を開く。

「キルがアオイに悪いと思って謝ってるならともかく、本人の意思とは無関係に土下座してるのはおかしいだろ?」

「僕としてはキルが心を入れ替えて謝ってる方が驚きだけど」

「そういう問題じゃないだろ。話を逸らすなよ」

「分かってるよ。それで、キルがおかしくなる時に魔法が発動してる形跡はあるの?」

 ウィルが核心を口にしたので、オリヴァーは眉間に寄せていたシワを解いてから小さく首を振った。

 魔法とは本来、炎や風といった自然界の力を制御したり増幅したりする代物である。大きなカテゴリーとして考えれば人体も自然界の一部には違いないので、人体に作用する魔法が存在しないこともない。だが人体に働く魔法はまだ研究途中のものであり、一介の魔法使いが汎用出来るようなものではないのだ。それはトリニスタン魔法学園のエリートであるマジスターとて例外ではない。オリヴァーが「分かるわけがない」と言うと、ウィルは苦笑いを浮かべた。

「まあ、とりあえずキルの様子を見てみるよ」

「頼んだ」

 そこで話が一段落したので、オリヴァーとウィルは同時にティーカップへと手を伸ばした。オリヴァーはそのままカップを口元へと運んだのだが、ウィルはカップが唇に触れる前に動きを止める。視界の片隅でウィルの異変を捉えたオリヴァーは首を傾げながらティーカップをソーサーに戻した。

「どうした?」

「噂をすれば、だよ」

 そんなことを言いながらウィルが指を差したので、オリヴァーは大きく体を回転させて背後を振り向いた。すると偶然にも、フォースアベニューの雑踏に葵の姿を見つけたのでオリヴァーは瞠目する。驚きの理由は人混みの中に知己の姿を発見したことよりも、葵が見知らぬ男と仲睦まじくしていることの方だった。

 オリヴァーとウィルがいるVIP席はマジックミラーのような仕様になっているため、すぐ傍を通過して行った葵達はこちらに気付かなかったようだった。そのため彼女の笑みは素顔であり、学園では決して見せることのない幸せそうな表情を目の当たりにしてしまったオリヴァーは複雑な思いで独白を零す。

「……恋人、いたのか」

「ハルよりずっとお似合いだったね。やっぱり庶民には庶民が似合うよ」

 ウィルの辛辣な発言は嫌味でも何でもなく、ただの本心である。そのことを知っているオリヴァーは驚きの余韻を残しつつもウィルに苦笑いを向け、何となく所在なげにティーカップへと手を伸ばした。






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