裏切り

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 夏月かげつ期のちょうど真ん中の月にあたる橙黄とうこうの月の二十三日。その日、学園からの予鈴が届けられる前にトリニスタン魔法学園アステルダム分校に登校した葵は転移が完了するなり眉根を寄せた。その理由は、朝も早くからマジスター達と顔を合わせる羽目になったからである。正門付近に描かれている魔法陣の前にはキリル、オリヴァー、ウィルといった現在のアステルダム分校のマジスターが雁首を揃えていて、彼らはまるで葵を待ち構えていたかのようにさっそく歩み寄って来た。

「おはよ」

 引きつった笑みを浮かべながら片手を上げて見せたのはオリヴァーである。葵は彼を一瞥した後、深々とため息を吐いた。葵の反応などすでに予測済みだったらしく、オリヴァーは苦笑いになりながら言葉を続ける。

「悪い。ちょっとだけ付き合ってくれよ」

「……付き合うって、何に」

「ちょっとした実験だよ」

 オリヴァーの代わりに答えを述べたウィルが、まるで「おあずけ」を食らっている犬に対するようにキリルに指示を出した。ウィルの意を受け、不機嫌そうな顔をして佇んでいたキリルが心得たとばかりに葵に掴みかかる。突然胸倉を掴み上げられた葵がどのような感情も示せずにいると、キリルは振り上げた拳と共に額を地にこすりつけた。

「……なるほど。これは重症かもね」

 葵の足元で土下座しているキリルを冷静に観察した後、ウィルはそんな独白を零しながらオリヴァーを振り返った。彼の言う『実験』の内容を把握したことで平静さを取り戻した葵は不機嫌になりながら緩んだ胸元を正す。その直後、足元で蹲っていたキリルが勢い良く体を起こしたので、驚いた葵は思わず身を引いてしまった。

「っ、ざけんな!!」

 屈辱に満ち溢れた声でそう叫ぶと、キリルは再び葵に掴みかかってきた。しかし拳を振り上げようとすれば、彼の体は地へと吸い寄せられる。ありったけの恨みがこもっているかのような「すみません」という言葉をキリルから投げかけられても、葵にはどうすることも出来なかった。

「何とかしてよ」

 げんなりしてしまった葵は足下のキリルから外した視線をオリヴァーとウィルに向ける。葵の視線を受け止めたオリヴァーとウィルは一度顔を見合わせ、オリヴァーの方が口火を切った。

「俺たちだって何とかしたいんだよ」

 だが原因が分からないので対処の仕様がないのだと、オリヴァーは苦い表情になりながら語った。ウィルは特に表情を動かすこともなく、葵から外した視線を未だ地に蹲ったままでいるキリルに落とす。

「精査が必要だね」

 ウィルがぽつりと独白を零した直後、地に描かれている魔法陣が光を帯び始めた。まだ魔法陣の上に佇んだままでいた葵は何となく焦りを覚え、急いで外円の外へと出る。何かの魔法に反応した魔法陣はやがて光を収束させ、その上に一人の男子生徒の姿を浮かび上がらせた。たまたまその場に出現してしまった男子生徒はマジスターの姿を見て驚きを露わにし、低頭しながらおずおずと歩き出す。しかし校舎に向かいかけた彼を、ウィルの声が引きとめた。

「ちょうどいい。君、僕に協力してくれない?」

「えっ……」

 呼び止められた男子生徒は明らかに狼狽えていたが、ウィルに拒絶を示すようなことはしなかった。言葉一つで有無を言わせぬ強制力が、マジスターにはあるのだ。

「そこに立ってるだけでいいから」

 男子生徒にそう言い置いた後、ウィルはふてくされて地に座り込んでいるキリルへと向かった。ウィルが耳元で何かを囁くとキリルは真顔に戻りながら立ち上がり、体についた砂を払う。その動作を終えた後、急に走り出したキリルはウィルに言われた通りに立ち尽くしていた男子生徒を思い切り殴り倒した。

「あ〜、スッキリした」

 他人を殴ったことに対する罪悪感など一欠けらもなく、清々しい表情のキリルはプラプラと手を振っている。オリヴァーは少しだけ顔をしかめながら倒れた男子生徒を見ていたが、助け起こすような素振りは見せない。顎に手を当てたウィルはキリルと男子生徒を見比べ、至って平静なまま考察を口にした。

「やっぱり、アオイだけなんだね。あ、君、もう行っていいよ。ありがとう」

 殴られ役の男子生徒に一応の謝意は示したものの、ウィルの態度はにべもない。放心したままの男子生徒がフラフラと遠ざかって行くのを見送った葵は嫌な気持ちになって顔をしかめた。

 足止めを食っているうちに生徒達がやって来る時間帯になってしまい、正門付近に描かれている魔法陣には白いローブを纏った生徒が姿を現し始めた。彼らは一様にマジスターに目を留め、男子生徒は恐縮し、女子生徒は歓喜の声を上げる。その生徒達の反応もマジスターもやっぱりおかしいと思った葵は密やかにその場を立ち去ろうとした。しかし遠巻きにマジスター達を取り囲んでいる女子生徒の輪から外れた行動を取った者の姿が視界に入り、目を引かれる形で顔を傾ける。突如として輪の中心に躍り出た一人の女子生徒のせいで、それまで華やいでいた場の空気が一瞬にして凍りついた。

「ウィル様」

 オリヴァーと話をしていたウィルに声をかけたのは葵のクラスメートであるシルヴィアだった。優越感たっぷりといった表情で静まり返った周囲を見回した後、彼女はウィルに向かってさらなる言葉を重ねる。

「近頃、あまり学園にはいらしていないのですね。お会いしたかったですわ」

 シルヴィアが親しげな関係をにおわせる口調で話しかけたからなのか、ウィルの隣にいたキリルが途端に不機嫌な顔つきになった。

「ウィル、こいつ誰だ」

「誰だっけ?」

 小首を傾げたウィルは考えようとする素振りもなく、キリルの質問に問いかけの形で答えた。刹那、それまで水を打ったように静まり返っていた周囲から失笑が沸き起こる。目を見開いていたシルヴィアは周囲からの冷ややかな笑い声で我に返ったのか、焦ったようにウィルに縋りついた。

「そんな! 以前デートをしていただいた時、わたくしに愛を囁いてくださったではないですか!」

「あ、思い出した」

 必死の形相をしているシルヴィアとは対照的に、傍で成り行きを見守っていたオリヴァーが軽い調子で手を打った。

「ほら、前にアオイを連れて来たら言うこと聞いてやるって言っただろ? その時、お前とデートしたいって言ってた子だよ」

「ああ……そんなこともあったっけ」

 事情を知っているオリヴァーに説明されてようやく、ウィルはシルヴィアの存在を思い出したようだった。しかしデートの時に愛を囁いてくれたというシルヴィアの話とは裏腹に、ウィルの冷静さは崩れる気配すらない。

「もしかして、僕が君を愛してるって勘違いしちゃった?」

 縋り着いて来ているシルヴィアを引き剥がした後、ウィルは淡々とした調子で彼女に問いかけた。その一言にシルヴィアは絶句し、周囲からは愉快そうな笑い声が沸き起こる。それまで事態を静観していた葵は輪の中心へと歩を進め、無言でウィルの頬を張った。

「ウィル!!」

「ウィル様!!」

 キリルと、マジスターを取り巻いている女子生徒達から同時に驚きの声が上がった。シルヴィアが虚ろに顔を上げてきたが、葵は彼女を見ることなくウィルだけを見つめている。無表情のウィルは叩かれた頬に手を当て、それから改めて葵に視線を傾けた。

「てめぇ!!」

 怒りを露わにしたキリルが介入してきたが、彼は葵の胸倉を掴み上げたところで地に平伏してしまった。そんなキリルの矛盾が波紋を呼び、周囲がどよめく。しかしウィルが口火を切ると、ざわついていた生徒達は一様に口を閉ざした。

「説明してくれる? どうして僕が叩かれたのか」

「分からないの?」

「分からないから訊いてるんじゃない。納得のいく説明をしてよ」

「……サイテーだよ、ウィル」

 そこまで話が通じないのかと、葵は絶望に似た気持ちを抱きながら苦く独白を零した。するとウィルは、何がどう最低なのかと問いを重ねてくる。ウィルとシルヴィアから向けられる質の違う視線の板挟みに合いながら、葵はそのどちらも見ないように目を伏せながら答えを口にした。

「デートした時に何があったのかなんて知らないけど、期待を持たせておいて笑いものにするなんてあんまりじゃない」

「僕は、約束したことにはそれなりの対応をすることにしてるんだ。あの時はそこの彼女が僕に理想の恋人を求めてきたから、それに応えてやった。むしろ親切じゃない? それを、彼女が勝手に勘違いしたんだよ」

「好きな人から優しくされたら勘違いでもしたくなるんだよ。恋愛って、そういうもんでしょ」

「それ、誰の話?」

 思いを言葉にしている途中から薄々自分でも気が付いていただけに、葵は返す言葉に詰まって唇を引き結んだ。シルヴィアのウィルへの想いは、一般的な恋愛感情というものとは種類が違う。また彼女はマジスターとデートをしたということをひけらかしていたため、笑いものにされた一因は彼女自身にもある。加えて葵は過去にシルヴィアからさんざんな目に遭わされていて、彼女のことを好きではなかった。それでもシルヴィアの乙女心がないがしろにされたことに怒ってしまったのは、葵にも同じような経験をしたことがあるからだった。

「それが、僕が殴られた理由?」

 ウィルにももう葵が自分のために怒ったのだと分かっているようで、彼の口調は冷ややかだった。反論は出来ないがウィルの行為が最低であることも確かであり、葵は悔しさのあまり奥歯を噛みしめる。するとウィルは仕方がないというように小さくため息を零した。

「僕は恋愛っていう感情を知らないから、アオイの意見に納得が出来ない。でもそれは、僕が知らないのが悪いのかもしれない。だから、教えてよ」

「……え?」

「なんなら、ここでキスでもしてみる?」

 呆気にとられて顔を上げた葵の反応を待たず、ウィルは彼女の肩に手をかけた。刹那、周囲の女子生徒から絶叫が上がる。

「ちょ、待て!!」

 ふてくされた様子で地べたに座り込んでいたキリルからもそんな抗議の声が上がったが、ウィルは意に介した風もなく葵のおとがいに手をかけた。そして彼はそのままゆっくりと葵の口唇に顔を近づけていく。

「……やっ!!」

 ウィルの瞳に自分の困惑顔が映った瞬間、我に返った葵は全身でウィルを拒絶した。こうなることなど初めから分かっていたようで、葵から手を離したウィルは冷ややかな目で彼女を見下す。

「説得力がないよ、アオイ。教えることも出来ない人間が偉そうなこと言わないでくれる?」

 恥ずかしさと困惑で真っ赤になった葵は溢れそうな涙を堪えるために唇を噛みしめた。とてもその場にはいられないと思った葵は逃げ出そうとしたのだが、彼女が行動を起こすより先にウィルが葵の手を拘束する。

「殴られ損なんて僕は御免だからね。これで無かったことにしてあげるよ」

 顔を背けたままでいる葵にそう言い置くと、ウィルは唐突にキリルを振り返った。おそらくはウィルの行動を抑制しようとした時のまま動きを止めていたキリルは我に返った様子で体勢を立て直す。キリルが平素の状態に戻ったのを確認してからウィルは言葉を次いだ。

「キル、皆にお願い・・・してみなよ。アオイを自分の前に跪かせてみせろってさ」







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