裏切り

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 保健室の簡易なベッドに葵を座らせると、ロバートは魔法が刻まれている茶器に命じて紅茶を淹れさせた。気分が落ち着くから飲みなさいと言われた葵は素直に頷き、ティーカップを口に運ぶ。控えめなラベンダーが香る温かな紅茶はゆっくりと体に染み渡っていき、葵は少しずつ平静を取り戻していく自分を実感した。

「すまなかった」

 ティーカップをソーサーに戻したところでロバートが不意に顔を歪めたので、何を謝られているのか分からなかった葵は小さく首をひねった。

「何が、ですか?」

「もっと早くに私の身分を明かしていれば君をあのような目に合わせずとも済んだはずなのだ」

 ロバートは深い後悔の念を滲ませていたが、葵は彼に謝られるようなことは何もされていなかった。むしろ助けてもらってばかりいて、こちらが礼を言わなければならないくらいである。そのような相手が自らの非を認めて詫びている誠実さに、葵は強く心を打たれた。

「怖かっただろう?」

 ロバートの手が、包み込むように優しく髪に触れる。そのまま彼の胸に顔を引き寄せられたので頷くことは出来なかったが、葵の脳裏にはマジスターの権威に支配された異様な姿がはっきりと蘇っていた。

(……怖かった、)

 あれだけ多くの人間からあからさまな悪意をぶつけられ、抗うことの出来ない強圧な力に屈せられたのは、初めてだった。あの時のことを思い返せば自分の無力を呪うよりも、弱者を同じ人間とは見なさない集団の考えが恐ろしくてたまらない。ロバートが助けてくれなければ今頃、心理の闇に呑みこまれ、独りで死んでいたかもしれないのだ。

「泣きたい時は泣けばいい。泣き止んだ後は私に笑顔を見せてくれ」

 ロバートらしい慰めの言葉を聞いた葵は彼の腕の中で小さく吹き出してしまった。安らぎを与えてくれる暖かな手を離れ、葵はロバートの言う通りに笑みを作る。

「もう大丈夫です。ありがとうございました」

 葵が浮かべた笑みに、ロバートも教師らしい大らかな笑みでもって応えた。しかしその後、ロバートは教師らしからぬ行動に出る。不意に唇を奪われた葵は驚きのあまり、頭が真っ白になってしまった。

「……えっ?」

 葵がそんな呟きを零せたのは、ロバートが唇を離してからしばらく経ってのことだった。まだ見つめ合う距離を保ったままでいたロバートは、何も言わずにもう一度くちびるを重ねてくる。

「先……」

 くちびるが離れた瞬間に零れた言葉は、またキスで遮られる。ロバートからのくちづけは今までに経験したことのない類のもので、理解も対応も追いつかなかった葵は彼のテクニックに身を任せることとなってしまった。何度も何度も葵のくちびるを奪った後、ロバートはようやく話をする距離にまで体を退ける。雰囲気に酔わされていた葵もハッと我に返り、真っ赤になりながら口元を手で覆った。

(え……何……?)

 真っ白になっていた頭に浮かんできたのはそんな言葉でしかなく、それは混乱を収めるような代物ではなかった。葵がどうすることも出来ずにいると、ロバートが再び顔を近づけてくる。反射的にベッドの上で後退した葵の腕を捕まえたロバートは、今度はそれ以上近付こうとはせず、静かに口火を切った。

「手荒なことをしてすまない。だが、私は君を愛している。これからも私に君を護らせてはもらえないだろうか」

 大人の男性から唐突に愛の告白をされた葵は、また頭が真っ白になってしまった。口を閉ざしたロバートは葵の瞳を見据え、無言で彼女の答えを待っている。ロバートの視線はあまりにも強く、無意識が働いて目を伏せた葵は震えながら唇を開いた。

「私、は……」

 ロバートは、好意を寄せられて迷惑を感じるような相手ではない。これからも護ってくれるという言葉も嬉しいものだったが、葵は言葉の途中で口を閉ざしてしまった。ロバートの申し出に頷くことの出来なかった理由は、すでに別の人物が胸の中にいたからである。それが初恋の相手であるハル=ヒューイットだったのか、それともザックだったのか、その辺りは葵にも定かではなかった。しかしロバートでないことだけは確かであり、彼のことを『理想的な教師』としてしか見ていなかったことに改めて気がついた葵は苦い思いで顔を歪める。

「……先生、」

 意を決して顔を上げた葵は素直な思いをロバートに打ち明けようとした。しかし葵が言葉を重ねるより前に、ロバートが深々とため息を零す。

「そうか。まだ時間が足りなかったようだな」

 そんな独白を零したロバートの口調が微妙な変化を感じさせたような気がして、葵は微かに眉根を寄せた。それまでの真摯さを消し去ったロバートは少し投げやり気味に、淡々と言葉を次ぐ。

「残念だが、ゲームオーバーだ」

 そう言い放った直後、ロバートは行動を起こした。保健室の硬いベッドに背中を強打した葵は失いかけた意識を何とか繋ぎとめ、信じられない思いで目前の人物を見る。すでに教師の仮面を捨て去っているロバートは押し倒した葵の上に馬乗りになっていて、彼は胸元へと手を伸ばしてきた。

「何するんですか!!」

「いいな、その初々しい反応。嫌がる処女を無理矢理組み敷くのも、実は嫌いではない」

 そんなことを平然と言ってのけるロバートはもはや完全に別人の様相を呈していて、体を押さえつけられている葵には瞠目する以外に術がなかった。葵が驚きに我を失っている間にも、ロバートは手際良くシャツのボタンを外していく。

「っ!!」

 素肌にロバートの手が触れたことで我に返った葵は慌てて抵抗を始めた。しかし圧し掛かってきている男の力に敵うはずもなく、体をよじっているうちに不利な体勢へと誘い込まれていく。ついには脚の間に体を割り込ませられてしまい、葵は悲鳴に近い声を上げた。

「いやあっ!!」

 拒絶を叫ぶ声はまた、荒々しいキスによって途切れさせられる。必死で体をよじって暴れているせいもあり、酸欠状態の葵は気が遠くなってきた。それでも、圧し掛かってきている男を拒絶する心の声に逆らえない。口唇がキスから解放された間隙に、葵は朦朧とした意識に浮かんできた人影に向かって必死で助けを求めた。

 その瞬間に誰の名前を呼んだのか、それは葵自身にも定かではなかった。しかし葵が叫び声を上げてすぐ、それまで葵の体をまさぐっていたロバートの手がピタリと動きを止める。異変を察知して固く瞑っていた目を開けた葵もロバートと同じものを目にし、歓喜の声を上げた。

「アル!!」

 動きを止めていたロバートの体を全力で押し退けた葵は、いつの間にか室内に出現していた第三者の元へよろけながら駆け寄った。葵が救いを求めた相手は鮮やかな金髪にブルーの瞳といった容姿をしている美貌の青年で、彼は名をアルヴァ=アロースミスという。保健室の中ほどに突っ立ったままベッドへと目を向けていたアルヴァは、葵が近付いても放心したように視線を固定したままだった。彼の視線の先では葵に突き飛ばされたまま動きを止めていたロバートが、ゆっくりとベッドから下りてくる。

「……どういうことだ」

 静かに口火を切ったロバートの声音には確かな怒りが内包されていた。初めて目の当たりにするロバートの怒りよりも、彼が発した言葉に驚いた葵は瞠目しながらアルヴァを仰ぐ。不意に狼狽え出したアルヴァは縋りついてきている葵を捨て置き、ロバートへと向かった。

「私の邪魔はしないと、誓ったはずではなかったのか?」

「待て、ロバート! それは誤解だ!」

「ならば何故、今この瞬間を選んでここへ来た?」

「それは僕の意思じゃない。大体、誰が好き好んで君の情事なんか覗き見するものか」

 会話を聞けば、お互いに対する態度を見れば、誰に説明されずとも明らかである。アルヴァとロバートは、知り合いだ。それも知己というよりは親しい友人といった感じの。言い合いを始めたロバートとアルヴァに初めこそ驚いていたものの、彼らの会話から状況を理解してしまった葵はこみ上げてくる怒りを抑えることが出来なかった。

 乱れた服装を正しながら出口へと向かった葵は力任せに扉を開き、そのままの勢いで保健室を後にした。その足でエントランスホールへと突き進み、真夏の太陽の下に躍り出る。半ば小走りに歩いたせいで噴き出した汗が丘を下る木陰の道で冷やされていき、葵は悔し涙を拭いながら帰路を急いだ。

(サイっテー)

 またしても、アルヴァの思惑に嵌められた。信頼できる教師だと思っていたロバートですら、アルヴァが企てた何らかの計画の加担者だったのだ。ロバートが豹変したことや彼らの交わしていた会話から、それはもう明らかなことである。人を見る目のなさを心底呪いたい気持ちになった葵はあとからあとから浮かんでくる涙をしきりに拭っていたのだが、そのうちにあることに気がつき、自分の右手を注視した。利き手中指にはアルヴァから渡されたカルサイトの指輪が嵌められている。それを引き抜いた葵は忌々しい思いでリングを茂みに放った。

(……帰ろう)

 早く帰って、ベッドで蹲って眠ってしまいたい。そう考えた葵が思い浮かべたのは物で溢れ返っていた狭苦しい自室ではなく、貸し与えられている屋敷のキングサイズのベッドだった。そこであることに思い至った葵は屋敷へ向かおうとしていた足を止め、愕然として立ち尽くす。

(クレアは……?)

 ユアン=S=フロックハートという名の少年から貸し与えられた屋敷で、葵は当初一人暮らしをしていた。橙黄とうこうの月の初め頃、クレアはその屋敷に突如として現れたのである。それはちょうどロバートが新任教師としてやって来た時期と重なっていて、葵の脳裏には最悪の想像が浮かんでいた。彼女が誰の差し金で葵の元へやって来たのか分からない以上、クレアが敵でないとは言い切れないのだ。

 常に誰かの思惑が裏にあるこの世界では、帰れる場所などどこにもない。そのことを改めて痛感した葵はどこへ行くことも出来ず、恨めしいほど晴れ渡った夏空の下で長いこと立ち尽くしていた。






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