「じゃあ、行くよ?」
アルヴァが頷いたのを確認した後、扉に向き直った葵はワンピースのポケットから鍵束を取り出した。リングでまとめられている鍵たちは、いずれもただの鍵ではない。そのどれもが特定の場所へ移動するために必要となる
「クツは脱いでよね!」
校内にしろ屋敷の中にしろ、この世界では室内を靴で歩き回るのが一般的である。しかし直接床に布団を敷く畳は、それと同じに扱われては困るのだ。靴のまま畳の上に上がろうとしていたアルヴァは葵の制止に動きを止め、不思議そうにしながらこちらを振り返った。
「何故ですか?」
「そういう決まりなの」
詳しい説明を加えるのも面倒だったので、一言で答えた葵はアルヴァを玄関に引き止めたまま扉を閉めた。そして内側から扉を開けると、その先の景色はもう学園のものではない。扉を開けた瞬間に鼻孔をくすぐった匂いに強烈な懐かしさを覚えた葵は、アルヴァよりも先にアパートの廊下へと飛び出した。
(雨……)
この世界の夏には雨が降らないが、ワケアリ荘では時たま自然に雨が降ることがある。水気を含んだ大地からは青草と土の入り混じったにおいが立ち上ってきていて、その香りが葵の脳裏に故郷の風景を描き出すのだ。しかし雨に濡れた紫陽花が見えたような気がしたのも一瞬のことで、足音にハッとした葵はアパートの一階と二階を結ぶ外付けの階段へと視線を傾けた。
階段を上ってきたのは二十代後半と思われる青年だった。少し吊り目の彼は黒をベースとする髪に鮮やかな黄色でメッシュを入れていて、整った目鼻立ちよりもその奇抜な髪型が人目を引いている。青年の名は、おそらく『ムーン』。その不確かな名前よりも役職で呼ばれることが多い彼は、ワケアリ荘の管理人だった。昼間に会うことは滅多にない管理人が狙ったかのようなタイミングで現れたのには何か理由があるのではないだろうか。そう勘ぐってしまった葵はギクッとして、背後のアルヴァを振り返った。
「マドモワゼル、そちらのムッシューを紹介してくれないかい?」
管理人が開口一番でアルヴァのことに触れたので、予感が的中したことを知った葵は焦りを募らせた。やはりアルヴァを連れて来る前に、一言でも管理人に言っておくべきだったのだ。しかし今さらそんなことを思っても後の祭りである。ここは素直に謝るしかないと腹を決めた葵が頭を下げようとすると、その動きを制するかのようにアルヴァが前に進み出てきた。
「はじめまして。僕はアルヴァ=アロースミスといいます」
アルヴァが自己紹介をした次の瞬間、どこからともなく流れてきた白い毛玉のような物体が管理人の肩に乗った。それを手の内に収めた管理人は少し間を置いてから、再びアルヴァへと視線を移す。
「ゆっくりしていくといいよ」
アルヴァに向かってニコリと微笑みかけると、管理人は踵を返して外階段を下りて行った。管理人の態度が急に軟化した理由を訝った葵は眉をひそめながらアルヴァを振り向く。しかしアルヴァは葵の方を見ておらず、彼は雨を降らせている曇天へと目を向けていた。
「アル?」
「何でもありません。マッドさんはどちらにいるのですか?」
「部屋にいるかなぁ……」
アルヴァに答えながら背後を振り返った葵は203号室に向けて歩き出した。葵の私室である202号室は扉を開けるとすぐに部屋の様子が見えるのだが、203号室は違う。そのことを知っている葵はノックもせずに203号室の扉を開き、その先に立ち塞がっている壁に向かって声をかけた。
「マッド、いる?」
壁の向こう側からは反応が返ってこない。それは壁に備え付けられたインターホンを押しても同じことで、不在だろうと思った葵は背後から様子を窺っているアルヴァを振り返った。
「どうしたの?」
アルヴァがあまりにも怪訝そうな表情をしていたため、葵は首を傾げながら問いかけた。アルヴァの視線は葵を通り越した先に向けられていて、彼は目線をそのままに口を開く。
「この状態でどうやって出入りをしているのか、気になっただけです」
「ああ……」
アルヴァの疑問をもっともだと思った葵は苦笑を浮かべながら後方に視線を流した。マッドの部屋は玄関を入ってすぐ壁に封鎖されていて、そこには人間が出入り出来るだけのスペースがないのだ。
「マッドに会えたら訊いてみなよ」
出入口に立ち塞がっている状態のアルヴァを押し退けて室外に出た葵は、その足で外階段へと向かった。おんぼろ階段があまりにもギシギシと音を立てるため、葵の後に続いているアルヴァが不安げな声を発する。
「年季の入った建物ですね」
「ボロだよね。私も初めて来た時は驚いたよ」
以前に貸し与えられていた屋敷がことさら豪奢だっただけに、ギャップが激しかったのだ。葵がそう言うと、彼女が前に住んでいた屋敷を知っているアルヴァも苦笑いを浮かべた。
「それでもミヤジマは、この場所を気に入っているのですね」
「うん。懐かしいからかな」
「懐かしい?」
「生まれ育った所に似てるんだ」
「ノスタルジー、というわけですか」
そこで、アルヴァは言葉を切った。ちょうど目的の場所に到着したため、葵も話を切り上げてアルヴァを振り返る。
「ここにいなかったら、たぶん出掛けてるんだと思う」
「ここは……何ですか?」
「食堂とか」
葵とアルヴァが前にしている扉の先は、扉を開ける際に使用する鍵によって姿を変える多目的ルームである。ポケットから鍵束を取り出した葵はまず発電室の扉を開けてみたのだが、そこにもマッドの姿はなかった。発電室か自室にいなければ外出している可能性がかなり高いのだが念のため、食堂の中も覗いてみる。するとマッドの姿はなかったものの、食堂には二つの人影があった。
「アオイ!」
葵の姿を認めるなり声を上げたのは、鮮やかな灰色の髪が目を引く青年だった。205号室の住人である彼は名をアッシュといい、急いた様子で席を立ったアッシュは一直線に葵の元へと駆け寄って来る。
「クレアからケガしたって聞いたけど……大丈夫なのか?」
「ああ、うん。心配してくれたんだ? ありがとね」
あっけらかんと答えた葵に再び何かを言おうとしたアッシュは、しかし言葉を紡ぐ前に閉口してしまった。スカイブルーの瞳が向き合っている自分を通り越しているような気がした葵は、アッシュの視線を追って背後を振り返ってみる。そこにアルヴァの姿があったので、アッシュの異変に納得した葵はアルヴァを紹介しようとしたのだが、そこで言葉に詰まって考えこんでしまった。
(何て言えばいいんだろう)
友人を紹介するのであれば話は簡単なのだが、アルヴァと葵の関係には口外してはならないことが多すぎる。こういう時は下手に口を開かない方がいいと思った葵はアルヴァに発言を促すためにアイコンタクトを送ろうとした。しかしアルヴァの視線は一点に釘付けになっていて、こちらに目を向けるような気配はない。何を見ているのかと訝った葵が視線を辿ると、アルヴァが見つめている先にはウルトラマリンの鮮やかな髪色をした少女がちょこんと食堂の席に座っていた。204号室の住人である彼女の名は、レイン。レインもこちらを見てはいたが彼女にも口を開くような感じはなかったため、仕方なく葵が凍り付いていた時を動かした。
「アル?」
レインを凝視していたアルヴァは葵の呼びかけにハッとしたような表情を見せ、一瞬後にはその表情を面から消し去った。すぐに外面を取り繕ったアルヴァは口元に柔らかな笑みを浮かべ、訝しげな表情をしているアッシュに一礼する。アルヴァが自らマッドに会いに来たことを明かしたため、葵はその流れでマッドの所在をアッシュに尋ねてみた。
「朝方に戻って来て寝るって言ってたから、たぶん部屋にいると思うけど」
起こしてくるから待っててと葵に言い置くと、アッシュは食堂を出て行った。どことなく彼の態度が変だと感じた葵は首を傾げながらアッシュの背を見送っていたのだが、不意にスカートの裾を引っ張られたので顔を戻した。
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