rainy day

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「おかえりなさい」

 抑揚のない声でそう言ったのはレインだった。先程まで席に着いていたはずの彼女は、いつの間にか葵のスカートの裾を握っている。子供らしさに溢れる愛くるしい仕種と『おかえり』という言葉に胸がキュンとした葵は複雑な笑みを浮かべながらレインに応えた。

「ただいま」

「あのね、マトがすごく心配してたよ」

「マトが?」

 マトは、201号室の住人であるクレア=ブルームフィールドが連れている魔法生物の名前だ。彼は人語を話すことは出来ないが、触れ合うことで意思の疎通を図ることは出来る。レインはマトと仲が良いため、彼女はおそらく葵が怪我をした経緯をマトから聞いたのだろう。

(そういえば、マトは気を失ってたんだっけ)

 そもそも、葵が怪我をしたのはマトを助けたことが原因である。それから顔を合わせていなければ、マトが葵を気遣うのは当然のことだろう。いつまでも気に病ませていたら可哀想だと思い、空を仰いでいた葵はレインに視線を戻した。

「クレアも部屋にいるの?」

「ううん。お仕事」

「そっかぁ」

 クレアが仕事に出ているのならば、マトと会えるのは夜になるだろう。クレアからも話があると言われていたことを思い出した葵は夜になったら訪ねてみようと思い、自分の中で話を終わらせてからアルヴァを振り向いた。だが話しかけようとしたところで、葵は開きかけた唇を閉じる。アルヴァの目はまたしてもレインに釘付けになっていて、その熱い視線に何かよからぬ気配を感じたからだ。

「まさか、アル……」

 こんな幼い女の子まで手篭めにする気ではないかと、危機感を抱いた葵はレインをアルヴァの視線から逃れさせるために彼女の小さな体を抱きしめた。そこでようやく葵に視線を戻したアルヴァは、不可解そうに顔を歪めながら口を開く。

「まさか、何です?」

「レインを気に入ったとか言わないよね?」

「いかがわしい言い方をしないで下さい」

 葵が何を危惧しているのか察したようで、アルヴァは呆れたようなため息をついた。その態度に偽りはないように感じられたため、葵は隠すように抱いていたレインの体を解放する。そこへちょうどマッドが姿を現したため、レインは彼とすれ違いに食堂を出て行った。

「あれ? アッシュは?」

 てっきり一緒に戻って来ると思っていた葵はアッシュの姿がないことを疑問に思ってマッドに問いかけてみた。部屋に戻ったと聞き、葵は先程のアッシュの様子を今一度思い返してみる。うまく言葉にすることは出来なかったがやはりどことなくアッシュの態度が妙な気がして、葵は一人で首を傾げた。

(どうしちゃったんだろう)

 葵がそんなことを考えている間に自己紹介を済ませたらしいマッドとアルヴァは、さっそく話に花を咲かせている。その後、食堂から発電室へと移動すると彼らの口数はさらに多くなって、ディ・ナモと呼ばれる装置について熱く語り合う姿に着いていけなくなった葵は一人で発電室を後にした。

 発電室を出た後、葵はアッシュと話をするために彼の部屋へ行こうとした。しかし部屋へ行くまでもなく、外階段に座り込んでいるアッシュを見つけた葵は階段下まで歩み寄ったところで足を止める。アッシュは一度だけ視線を傾けてきたが口を開くでもなく、再びアパートの周囲に広がる草原へと目を戻してしまった。

(やっぱり、ちょっと変)

 アッシュが異変を見せ始めたのはアルヴァの存在を認めた後からのような気がして、それが気になった葵は階段の中途に座り込んでいる彼を見上げながら口火を切った。

「ありがとね。マッドを起こしてきてくれて」

 葵がいつもの調子で話しかけてみても、アッシュは頷いただけで口を開こうとしない。その態度が不機嫌に映った葵は部外者アルヴァを連れて来てしまったことがアッシュの機嫌を損ねたのだと思い、申し訳ないような気分になった。

「ごめん」

「え?」

「アルのこと、もっと皆にも気をつかうべきだったね」

「……そうじゃないんだ」

 葵の考えを理解したらしいアッシュは息を吐くと小さく首を振った。ようやく無表情を崩して苦笑いを浮かべた彼は自分の隣を指差し、葵にそこへ座らないかと勧めてくる。少し躊躇った後、葵はアッシュの誘いに乗ることにした。

「おじゃまします」

「どうぞ」

 短いやり取りがあった後はどちらも口を開かず、二人の間には沈黙が流れた。ただこの日は平素とは違って雨が降っていたため、静けさの中に雨音が響いている。葵が懐かしい音色に耳を済ませていると、やがてアッシュの方から話を切り出した。

「クレアが、アオイはしばらく帰れないって言ってた。その間、彼と一緒にいたの?」

「うん、まあ……そうだね」

 ずっと一緒にいたのだと言うと聞こえは悪いが、アパートに帰らなかった五日間をアルヴァと共に過ごしていたことは事実である。質問が唐突だったので歯切れの悪い答え方をしてしまったが、このままではいらぬ誤解を招きそうだと察した葵はアルヴァの部屋で過ごした日々のことを少し補足しておくことにした。

「大丈夫だって言ってるのにアルが部屋から出してくれなくてさ。することないから、コンバーツ三昧だったよ」

「彼と親しいんだね」

「お互いに仕方なく一緒にいたって感じだよ」

 自分の発言をフォローしようとして言葉を重ねれば重ねるほど、発言が言い訳じみたものになっていく。自分が意図するところから言葉が逸脱していってしまったため、おかしいと思った葵は眉根を寄せた。

「アッシュ、やっぱりアルのこと気にしてるでしょ?」

「そうみたいだね。自分でもそう言ってるように聞こえる」

 アッシュが苦笑を浮かべながら意味の分からないことを言うので、不可解を通り越しておかしくなってしまった葵は小さく吹き出した。アッシュもつられたように笑ったが、ひとしきり笑い合うと彼は真顔に戻って話を続ける。

「この間の夜のこと、ずっと考えてたんだ」

 アッシュが突然話題に上らせた『この間の夜』が分からなかった葵は眉根を寄せて空を仰いだ。そうして記憶の糸を辿っているうちに、アッシュに醜態を晒したことを思い出してしまった葵は赤面した顔を両手で覆い隠す。

「あ、あの時は……ごめん」

 月夜の晩に孤独な管理人の姿を目にして、寂しさに耐えきれなかった葵は偶然傍にいたアッシュに縋ってしまったのだ。よくよく思い返してみれば、アッシュとまともに話をするのはあの晩以来ということになる。色々な意味で気配りが足りなさ過ぎる自分を実感してしまった葵は穴があったら入りたいと胸中で独白を零した。

「オレは謝らない。あの時は、ああしたいと思ったから」

「……え?」

 居た堪れなくて外していた視線を戻すと、アッシュは思いのほか真面目な表情をしていた。曇りのないスカイブルーの瞳が射抜くように見据えてくるので、ドキッとした葵は反射的に胸の上に手を置く。しかし自分の動悸でパニックになるようなことはなく、アッシュの瞳を見つめ返した葵は少しずつ近付いて来る彼の行動を冷静に受け止めた。

 唇を離した後はすぐに引き寄せられたため、葵にはアッシュの表情を見ることは出来なかった。だが体に触れている他人の温もりが心地好く、しっかりと抱きとめてくれる腕に安らぎを覚えた葵は全てを委ねたい気持ちになって、そっと目を閉じる。束の間の静寂の後、アッシュが耳元で囁きを零した。

「今度、どこかへ出掛けよう」

 アッシュからの初めての申し出は、おそらくデートの誘いなのだろう。そう理解すると同時に躊躇いを覚えた葵は彼の腕の中で少し考えた末、無言で頷いて見せた。






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