綻び

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(な、何だったの……)

 キリルに突然胸倉を掴み上げられて、さらに突き飛ばされた葵は、その衝撃で椅子から落下してしまっていた。ここにオリヴァーがいれば大丈夫かと手を差し伸べてくれるところだが、ハーヴェイには腰を浮かせる様子もない。円卓にはもう一人、ウィル=ヴィンスという名の少年が同席していたが、彼もへたりこんでいる葵を一瞥しただけで手を貸そうとはしてくれなかった。

「お怪我はございませんか?」

 呆けている葵に近寄って来たのはクレアだった。メイド仕様の態度と言葉遣いで気遣われることに妙な懐かしさを覚えた葵は口元を笑みの形に歪めながらクレアから差し出された手を受け取る。

「ありがと」

 葵がクレアに礼を言いながら椅子に座りなおすと、それを待っていたかのようにハーヴェイが口火を切った。

「さて、どこまで話したのだったか?」

「アオイの口からはまだ何も聞いていないと思いますけど?」

 キリルの癇癪には慣れきっているのか、ハーヴェイもウィルもまるで何事もなかったかのように話を再開させている。アルヴァのことを問われていたのだと思い出した葵はハーヴェイの威圧するようなまなざしから目を背け、また必死で考えを巡らせた。

(どうしよう)

 アルヴァ=アロースミスという青年には色々と秘密があり、葵はそれを口外しないよう彼と約束している。ハーヴェイはアルヴァと知り合いらしいのだが、それがアルヴァのことを喋ってもいいという理由になるとは思えなかった。ならば余計なことは言わない方がいいと結論づけた葵は深呼吸をしてから口を開く。

「何も、答えられません」

 わざわざ呼び出して質問をしてきたのだから、これでハーヴェイが納得することはないだろう。そう考えた葵はさらなる追及がくることを予測して身構えていたのだが、ハーヴェイは意外にもあっさりと頷いて見せた。葵が拍子抜けしていると、ハーヴェイは何故かウィルを一瞥する。それきり言葉を次ぐような気配もなかったため、紅茶を一口含んでティーカップをソーサーに戻した葵はそっと席を立った。

「じゃあ、私はこれで……」

「待ちなさい」

 逃げ出そうとしたのを制されてしまったため、葵はギクリとして動きを止めた。振り向けないでいる葵に向かって、ハーヴェイは淡々と言葉を次ぐ。

「キリルが君に、何か用事があるようだ」

「そういえばさっき、待ってなかったら焼きコロスって言ってたね」

 今のキリルはもう、魔法の副作用で葵に歯向かうことが出来なかった彼ではない。本当に焼き殺されるかもねとウィルが脅すので、血の気が引いた葵は大人しく席へと戻った。

(何でこう……)

 兄弟揃ってタチが悪いのかと、彼らに振り回されてばかりの葵はため息をついた。だが葵の様子など歯牙にもかけず、ウィルとハーヴェイは和やかに談義を続けている。

血の誓約サン・セルマンって解除する方法はないんですか?」

「儀式を伴う誓約を終結させるには、やはりそれなりの儀式が必要となる。双方が合意の上でなければ難しいだろうな」

 サン・セルマンという葵には耳慣れない何かについて語っていたハーヴェイとウィルは話の途中でふと、二人揃って顔を上げた。どうやらキリルが戻って来たらしく、ようやく解放されると思った葵はホッと息をつく。しかし安堵したのも束の間、キリルが連れてきた人物の姿に葵はドキッとしてしまった。

「何なんだよ、キル!」

 困惑した声を発しているのは無理矢理といった感じでキリルに腕を引かれているオリヴァーだった。彼はシエル・ガーデンへの入室をハーヴェイによって禁じられている人物であり、先程までの和やかな空気が一瞬にして凍りつく。オリヴァーもハーヴェイがいることに気がついたようで、彼はさらに困惑の度合いを深めて口をつぐんでしまった。

「どういうことだ、キリル?」

 オリヴァーとは友人をやめろと言ったはずだと、冷ややかなハーヴェイの声がキリルを責める。鬼気迫る形相でオリヴァーを引っ張って来たのはいいもののハーヴェイに鋭い視線を向けられた途端、キリルはサッと表情を変えてしまった。青褪めたキリルの顔にはもう覇気がなく、気まずそうに兄弟を見つめているオリヴァーと並んで佇む姿はまるで、教師に注意を受けている生徒のようだ。

「どういうことなのかと訊いている」

 ハーヴェイが駄目押しの一言を発すると、直立不動で佇んでいたキリルがビクリと体を震わせた。だが彼は、自分を奮い立たせるようにして何故か、葵を睨み見る。突然視線を向けられた葵がビクッとすると、キリルはそのままの険しい表情を兄へと向けた。

「お……」

 ようやく口を開いたものの、キリルの言葉は続かなかった。一度は俯いてしまったが彼は諦めず、再び顔を上げてハーヴェイを見やる。だがやはり、ハーヴェイの顔を見ると俯いてしまうといった動作を、キリルは五・六度繰り返した。

「キル……」

 見かねた様子のオリヴァーがキリルの肩に手を置いて膠着状態を崩そうとした時、変化は唐突に訪れた。「あちぃ!」と叫んだオリヴァーがキリルから慌てて手を離したのを皮切りに、それまで黙して成り行きを見守っていたウィルも素早く行動を起こす。ウィルの魔法によって助けられた葵は、上空からシエル・ガーデンを覆い尽くす紅蓮の炎を目の当たりにした。

「今日は一段と炎が鮮やかだね」

 ウィルがぽつりと呟きを零したので葵はそちらへと顔を向けたのだが、どうやら彼の独白は葵に向けられたものではなかったらしい。器用に空中を泳いで移動してきたオリヴァーがウィルの隣に並んだことにより、葵はそのことを察した。

「灰になるかと思ったぜ」

「油断大敵。自業自得だね」

 こんな状況下でも、オリヴァーとウィルはいつも通りの調子で会話をしている。そんな二人の姿を見るのが久しぶりだったので、葵は何となく彼らの様子に目を注いでいた。するとすぐ傍からクレアの声が聞こえてきたので、葵は慌ててそちらへと視線を傾ける。

「クレア! マトも、大丈夫だったんだ?」

「ウィル様に助けられたわ。うち一人じゃ逃げ切れんかった」

 メイドの仮面を外して素に戻ってしまっているのは、それだけクレアが動揺している証なのだろう。クレアの視線が眼下に釘付けになっていたので改めて下を見てみると、シエル・ガーデンでは鮮やかな色彩の炎が地を舐めていた。庭園を彩っていた草木が消え失せてしまっていることからも、炎がかなりの温度を有していることが窺える。しかしそんな中にあっても、キリルとハーヴェイだけは悠然と炎の只中に佇んでいた。

「なんちゅー魔力や」

 妖艶ですらあるような炎を瞳に映しながら、クレアがゾッとしたと言わんばかりの独白を零す。彼女がしきりに二の腕をさすっているのは、この炎がキリルの魔力そのものだからなのだが、葵にだけはそのことが分かっていなかった。いつもの軽口を封印したウィルとオリヴァーも眼下の様子を注視していて、彼らはクレアの独白に応えるかのように言葉を紡ぐ。

「確かに、今日の暴走はまずいね」

「こんな魔力を出し続けてたら死ぬぞ。そろそろ止めないとな」

 何かの呪文を唱えかけたオリヴァーを、ハーヴェイがいるから大丈夫だとウィルが制している。複雑に顔をしかめたオリヴァーがウィルに何かを言いかけた時、下方から不意に怒声が聞こえてきた。

「オリヴァーは友達なんだ!!」

 体中のエネルギーを搾り出して怒声に濃縮したかのようなキリルの咆哮は、魂の叫びとでも言うほど気迫のこもったものだった。驚いたのは葵だけでなく、オリヴァーやウィルも目を丸くしている。あ然とした空気はしばらくシエル・ガーデンに留まっていたが、やがてウィルが吹き出したことにより沈黙は破られた。

「熱烈。どうするの、オリヴァー?」

「どうもこうも……」

 弱ったような苦笑を浮かべているオリヴァーは言葉を濁しながらも、明らかに嬉しがっている。あの絶叫はキリルのために疎外されたオリヴァーの気持ちに応えるもので、キリルが彼に示した最大限の友情だ。それはウィルが冷やかしたようにとても熱烈なもので、彼らの深い絆に心を揺り動かされた葵は自然と口元をほころばせた。

 おそらくは極度の緊張の中であの絶叫を発したのだろう、兄に対しての意思表示を終えると間もなくキリルは倒れこんだ。それと同時にシエル・ガーデンの中で暴れまわっていた炎のような魔力はキリルの体へと吸収されていく。一足先に地上へと下り立ったオリヴァーが倒れこんだキリルを抱き起こした頃、ウィルの魔法によって上空に浮かんでいた葵達も地上へ戻った。

「……キリルが私に反抗するとはな」

 すっかり正体をなくしている弟を見下ろして、ぽつりと呟きを零したのはハーヴェイだった。あの炎の中にあっても煤けた様子すらないハーヴェイが発した一言は重く、その場の視線を一気に彼へと集中させる。短く嘆息した後、ハーヴェイはオリヴァーを見据えた。

「キリルにかけた魔法をとけと、私に言っていたな」

「……はい」

「その要求、呑んでやってもいい」

 ただし条件があると後に言葉を続け、ハーヴェイは何故か傍で様子を見守っていた葵を振り返ったのだった。






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